映画『生きる』を見て考えたこと
宮城県石巻市立大川小学校を知っていますか?
あの日、2011年3月11日。
津波に襲われ、全校生徒の7割に相当する児童74名の死者・行方不明者と教職員10名の死者を出した小学校です。
映画の概要
【自然の光】の映画館へ
大手の映画館では上映されていないと知っていたので、東京へ。
田端にある、小さな映画館 CINEMA Chupki
チュプキ、と聞いて、なんとなく、アイヌ語っぽいなぁと思っていたら
映画館でその意味を知り。
チュプキはアイヌ語で、「自然の光」
そのような、素敵な意味を込められた大都会の中の
とある商店街の一角にたたずむ、小さな森のシネマでした。
街の中のミニシアターには、興味はあったもののあまりご縁がなかったのですが、
それを後悔するほどに、本編もそうですが、予告で流れていたこれから上映される作品の数々にもとても興味が引かれて。
身近な社会の、見えていない部分、見ようとしていなかった部分に
焦点を当てた作品がたくさんあって、知りたい、知らなくちゃ、と思う作品ばかりでした。
『僕が跳びはねる理由』
『桜色の風が咲く』
『この星は、私の星じゃない』
などなど。
『生きる』を鑑賞して
自分にとって防災減災活動に関わるようになる直接的な出来事が
東日本大震災だったこと。
大学の姉妹校が石巻市にあってそこで復旧復興支援活動をしたこと。
そのような背景から、
大川小学校で起きたことは知っていましたし、直後に現地にも行っていました。
2011年の当時から、
3月11日が(近づいて)来ると
様々なことを考え、思い出し、発信し、気持ちを新たにすることをある種儀式的に繰り返しているものの、
地理的な距離・時間的な経過、毎年の364日で積み上げてきていることなどが
どうしてもその1日を覆い、薄れさせ、心の片隅に追いやっていってしまう……。
けれど、365日中の1日だけでも。とは、あの日失ったものがあるからではなく、
あの日から、自分の中で何か大きな軸が変わったから、そこからくる強烈な思い、胸がざわつく焦り、身の内からあふれる強迫にも似た観念があって。
でも、あの日大切な人を亡くした人たちは、
片時も、一日たりとも忘れることはなく生きてきていて、
それも「自然災害」という、人間がどうしようもないところで奪われてしまって、どうにかできたのではないかという余地があると猶更に、整理がつかない状況にもなり得たりもします。
そのような中で、今回の大川小学校のケースは
自然災害の中に起きた「人災」であることが疑いようもなく、
しかも、それは日本の「公」の持つ特性と、市民が持つ「公への信頼感」が悪い方に働き、悲劇の連鎖を生んでしまったとしか言いようがないのです。
つまりこの件は、
犠牲者と遺族と学校・自治体というだけの話ではなく、日本社会の構造的な問題でもあるということを示唆しています。
映画の中で、
原告側(遺族)の勝訴が決まった時に東京大学の米村滋人教授は
と述べています。
では、この"教訓"とは何のことでしょうか。
それは、この映画を見た方、一人ひとりがまずは考えてみてほしいと思います。
そして、それについて話し合う機会があったり、設けられたりすることも必要かなと思います。
映画を鑑賞された方、ぜひ、思いや考えをお聞かせください。
まだご覧になっていない方は、ぜひ、映画館に!
教訓
映画の鑑賞中はたくさんのことを感じ、たくさんのことを考えました。
そして鑑賞し終えてからも、たくさん考えました。
この映画は、そして「大川小学校」は何だったのか。
それをうまく言語化する術を、まだ僕は持ち得ていないのですが、
頭の中を箇条書きすると
事実とは当事者ごとに違ってくる。恣意的に変えられる。
信頼と裏切りは常に表裏の関係。特に有事の際。
人は、責任の所在を明確にすることで気持ちの整理ができやすくなる。
今の日本社会では、人の価値を値段にすることでしか計れない。
誰にどのような責任を取らせても、
失われてしまった命は、絶対に戻ってこず、
責任を取らせて救われるのは、亡くなった「その人」ではなく、
あくまで自分でしかないということでもあります。
それが悪い、と言いたいわけではなく、
人間社会での「責任」とはそういうものだ、ということです。
そのうえで、僕が教訓として改めて認知したことは、
自分の命は自分のもの。その人の命はその人のもの。
であるということ。
(あまりにもありきたりなものかもしれませんが。)
それを守るために(守りたいと思うのならば)、
自身や家族、地域、社会などあらゆるレイヤーが最大限の努力をしないといけないということ。
その命を、大切な人を守るにはどうするのがいいのか?を常に問い続け、
その答えを出し続けるしかないのだと、そう思いました。
普遍的なものだからこそ、
シンプルで、でも、計り知れないほどに難しい。
「生きる」とは、そういうことなのではないでしょうか。