【初めまして】Yamato.という人間について
現在25歳になる僕は、今思えばそれなりに苦労する人生を歩んできました。
2年ほど前からたまにnoteを書いていましたが、これまでの経験を通して同じ悩みを持った方に寄り添えるポジティブな内容を発信できるのでは?と気づき、改めて本アカウントを開設しました。まず今回は簡単な自己紹介(学生時代)をさせてください。
生い立ちから
1999年に生まれ、大学卒業まで生まれた土地で育ちました
幼少期から活発な性格で小学生時代は毎日外で何かしらの運動をするような子供でした。
田舎の小さな学校の中では一番背が高く、スポーツは大得意。
比較的クラスの中でも目立っている人間だったと思います。
放課後は書道やスイミングなどの習い事に行ったり、宿題を後回しにして自転車で外遊びに行ったり。
順風満帆に見えた小学生時代でしたが、6年生になる頃から中学2年生までいじめに遭いました。
いじめについてこちらの記事では軽く触れるくらいにとどめておきますが、人生で味わった最初の苦痛は、その後Yamato.という人間を強くしてくれ、現在の人格を形成する上で欠かせない経験になりました。
思春期突入
地元の小さな小学校を卒業し、馴染みの同級生達と家から少し離れた中学校に進学しました。
入学直後の入部体験にて人生を変えるほど夢中になるスポーツに出会いました。
バスケットボール。
気づけば人生の半分ほどをバスケットボールに費やし、大学は毎年全国大会に出場する強豪校に所属していました。
「いじめ」「バスケットボール」この二つから学んだことはしっかりお伝えしたいので、それぞれ別の記事で改めて投稿したいと思います。
中学生の頃は友人と一緒になって先生に反抗するような生徒で、THE 思春期のイキっているような少年。
両親への反抗期というより学校の先生に対しての反抗期がありました。
ただ、バスケはしたいから授業には行くし、部活のために仕方なく学校に向かっているような感じ。
3年間部活に明け暮れた生活をする中で訪れた高校受験。
当時のチームメイトと高校でも同じチームでプレーしようという青春全開の言葉を交わし、実家からそう遠くない公立高校を受験しました。
結果、チームメイトは合格し、自分は不合格。
先生に反抗するような生徒が合格するわけないと今なら分かりますが、当時は大きくショックを受けました。
なぜかというと、公立高校に合格していたら学費があまり変わらないが、不合格となった場合は学費が跳ね上がる私立高校への進学が決定し、お金を稼ぐために放課後はバイトをしなければいけない、つまりバスケを辞めなければいけないと思っていたから。
高校受験の結果発表を友人と見に行った日は忘れません。
努力できなかった自分も恥ずかしかったし。
なんだかんだ受験期はお金をかけて塾に通わせてもらっていたし。
発表された日は罪悪感でいっぱいの1日を過ごしました。
しかし、両親が資金的にも大きな援助をしてくれたおかげで、私立の高校に進学してもバスケを辞めることはありませんでした。
両親は今でも頭が上がらない存在であり、最も恩返しをしたい人間です。
受験の壁、初めての成功体験
適度に恋愛もしながら、高校では心を入れ替えて勉学に励み、指導者に恵まれた部活も引退し、大学受験の時期。
高校の系列で簡単に入ることができる大学はありましたが、自分自身はその大学に入学した未来にワクワクすることができず、進路に悩んでいました。
高校は偏差値の低い学校で、少し興味を持っていた地元の有名私大への推薦枠は一つしかない。
常に学年で10位以内くらいの学力でしたが、自身が志望していた有名私大の枠は学年1位の子に取られてしまいました。
さてどうするか。
諦めて別の大学に進学するか、AO入試で狭き門を突破して志望校を受験するか。
僕は後者を選びました。
過去に自分と同じ学科の卒業生でAO入試を突破できた者はいなく、単純にその歴史を塗り替えることにワクワクしたから。
ちなみにAO入試とは、年明けに受験する一般入試とは違い、高校3年生の部活を引退してすぐ秋から始まる受験。
一次試験は面接のみ、二次試験で面接と小論文を受け合否が決まる。
歴史を塗り替えることにワクワクしたのは本当だけど、受かる自信は全くなく、小論文とはなんぞやという状態から見切り発車。
わからないならわかる人に聞こう!と思い、別学科の面識のない小論文に詳しい国語の先生にお願いしに行きました。
「絶対受かりたいので教えてください!夏休みも通うので添削をお願いしたいです!!」
先生は初対面でも快く許可してくださり、授業がない夏休みも先生のいる日に学校へ通う生活を続けました。
ちなみに受験期は「落ちたらいよいよどうしよう」というプレッシャーとストレスで激痩せしました。
しかし、ストレスがありながらも、ライバルに勝つには量をこなすしかないと思い、過去問全てを解き、受験直前には大きな自信を身につけていました。
努力報われ、合格。
中学校でトラウマになっていた受験、初めての成功体験でした。
AO入試での合格者がいないことから学校の先生達も喜んでくれ、教えてくれた国語の先生にも良い報告ができました。
大学生活編
志望校に進学し、大学でもバスケを続けようか迷っていた自分は、高校の顧問が大学の顧問に繋げてくれ、春休みの練習会に参加し、気づけばすんなり入部が決まりました。
県内でも言わずと知れた強豪校で、これまでのカテゴリーでは味わうことがなかった経験をさせてもらいました。
なんだかんだ大学もバスケ中心の生活をしていると、友人と海外旅行に行こうという話が出ました。
ちょうどコロナが蔓延する前の話。
授業の合間に空き教室で集まり、海外旅行の計画を立て、部活のないオフシーズンにタイのプーケットへ旅行に行きました。
5泊7日、ツアーで離島巡りをしたりローカルの屋台で美味しいものを食べたり。
初めての海外旅行を記念に残したいと思い、それらの様子を動画で撮っていました。
帰りの長い飛行機の中、1人で黙々とiPhoneの編集アプリを使い、カットして音楽にはめた動画を隣の席にいた友人に見せると、とても良い反応が。
僕はこのふとした出来事で動画編集にどっぷりハマることになりました。
それからプライベートでは友人と動画を制作し、SNS上に投稿する日々を過ごしていました。
そんな中、YouTubeで1人のインフルエンサーと動画制作会社を見つけ、「動画に関わる仕事をしてみたい!」と思ったのが大学3年生の頃。
TwitterのDMで代表取締役の方に「働きたいです!」という熱意を伝え、面談をしてもらえることに。
結論として今お願いできる仕事やポジションはなく、タイミング的に難しいという内容でした。
数ヶ月後、それで諦めることはなく撮影現場に帯同させてもらえないかとお願いをして、ついに行かせてもらえることに。
普段はiPhoneで撮影編集していたため、カメラの使い方も全くわからなかったが現場での立ち回り方や積極性は評価され、動画教育事業のカウンセラー(営業)を任せてもらい、その会社初めてのインターン生となりました。
大学生活後半は授業も少なく、インターンと部活に明け暮れました。
昼間はフルリモートで東京のスタートアップで働き、夕方以降に部活へ向かう。
100〜150名ほど対個人の営業を経験し、何も知らなかった田舎の大学生は自ずと対人スキルを磨いて行きました。
就職活動はせず、このまま動画制作会社に就職するという熱意だけで1年間ほど働いていたところ、事業はあまり軌道に乗らず働けないことに。
元々、業績は不安定であるため卒業時に雇用は保証できないと伝えられ、合意した上で働いていました。
インターンを辞めることになったのは大学4年生の12月、同級生はとっくに内定をもらい卒業までの余暇を楽しんでいる頃、僕は行き先が未定になりました。
同時に部活動も12月に引退し、打ち込むことがなくなり燃え尽き症候群、ストレスで過敏性腸症候群に。
僕は就職先が決まらないまま大学を卒業することになります。
終わりに
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は学生時代にフォーカスを当てて簡単に自己紹介をさせていただきました。
大学卒業後も適応障害になったり入院したりと、波瀾万丈な人生を送りますが、たくさん悩んだ僕だからこそ発信できる言葉があります。
多くの痛みを味わったからこそ、人の気持ちがよくわかるようになりました。
今ならどんなことも肯定できるし、ポジティブに変換できる力があります。
人生は悩むことも多い。
同じ境遇の人の心を少しでも軽くできるように、現在のポジティブな生活を発信します。
本記事を通して少しでもYamato.という人間を知ってもらえたらと思います。
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