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『葬送のフリーレン』が哲学に革新をもたらす可能性について

1 はじめに ~一本の動画から~

この記事は、アニメ『葬送のフリーレン』が哲学に革新をもたらす可能性について考察したものである。この思い付きは、一本の動画から始まった。

この動画は『葬送のフリーレン』を見た海外のアニメファンの感想を主に紹介するものだが、そうした感想を見ていると、物語が「魔王討伐の後日談として始まる」という掟破りの始まり方に驚く人がいる一方、フリーレンとヒンメルの関係から哲学的な視点で物語を読み解こうとしている人が割といることに気づかされる。日本でどのような捉え方をされているのかはわからないが、この作品が哲学的な深掘りに適しているのは間違いないと思われる。
そこで、そういう見方をしてみたところ、とんでもないことに気づいたわけである。この作品は哲学に革新をもたらす可能性があるように思えるのだ。それを今から考察していきたいが、本題に入るには、先に哲学について述べる必要がある。少々回り道になるが、お付き合い願いたい。
なお、筆者は哲学や思想を専門に学んでいるわけではないため、付け焼刃の知識で考察していることを事前に断っておく。

2 哲学について

2-1 哲学の2つの流れ ~西洋と東洋~

哲学と一口に言っても、西洋(主にヨーロッパ)と東洋(主に東アジア)は考え方に大きな違いがある。西洋哲学は、数学に代表される論理的思考を前提として、世界の本質を言葉で理論的に解明しようとしていると言え、主体と客体を分離した二元論的で要素分解的な思考によって真理を追究するというかたちを取る。一方、東洋哲学は、論理的整合性よりは「いかに生きるか」「いかに体得するか」という人生の実践に重点が置かれていると言え、主体の内側に真理を求める一元論的な思考をするという特徴がある。なので、人間というものを考える場合、西洋哲学では「人間とは何か」が主要な問いになるのに対し、東洋哲学では「人間はいかに生きるべきか」が主要な問いになる。これはキリスト教と仏教を比較するとわかりやすいかもしれない。
最も、これは大まかに二分したもので、実際には西洋哲学にも東洋哲学的な考え方はあり、東洋哲学は「より実践的な側面を重視する」という意味では、古代ギリシア・ローマ時代のストア哲学に近いと言える。

2-2 西洋哲学における人間観

一口に「人間観」と言っても実際はさまざまである。畠中和生氏の「人間観の類型論」という論文が様々な人間観を取り上げているので、この論文に依拠して代表的と思われる人間観を列挙していく(この論文で扱われている人間観は、マックス・シェーラーが類型化したものである)。なお、詳細についてはリンク先(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00028593)を参照していただきたい(PDF化されている)。

①ユダヤ教=キリスト教的人間観
宗教的信仰のひとつの理念である。「原罪」を想定し、人間を「生まれつき罪深いもの」と考える。
②ホモ・サピエンス(叡智人)の人間観
ギリシャの市民階級が案出したもの。「人間は理性を持つ存在である」と考える。
③ホモ・ファーベル(工作人)の人間観
アンリ・ベルクソンが名付けたもの。人間と動物を分ける本質的な相違は存在せず、程度上の際があるに過ぎないとする。
④生命主義的人間観
人間の精神を「生命を壊滅させ、破壊し、殺戮する原理であり、生命と現実存在に敵対する原理」と捉えるのが特徴。「人間=精神の性で病気になった生物」。

これらのうち、①~③に共通するのが、「人間の歴史は単一であり、その展開は意味を有し、歴史はひとつの偉大な目標に向かう肯定されるべき運動である」という考え方である。この歴史観はいわゆる発展史観に繋がり、例えばカール・マルクスの歴史観に顕著に表れている。歴史観もまた東洋と西洋で大きな違いがあり、西洋の歴史観は発展史観(歴史は一方向へ進む)、東洋の歴史観は循環史観(歴史は繰り返す)と呼ぶのが適切と思われる。

〔参考:ChatGPTによる東洋と西洋の「焦点の違い」のまとめ〕

東洋と西洋の哲学・思想・宗教における焦点の違いを「生き方」と「在り方」の観点から捉えると、とても良い視点です。確かに、一般的には東洋の思想が「人間の生き方」に、そして西洋の思想が「人間の存在そのもの」や「在り方」に強く焦点を当てている傾向があります。この違いは、両者の文化的背景、哲学的伝統、宗教的枠組みの違いに深く根ざしています。

1. 東洋の思想:生き方に焦点を当てる

仏教、道教、儒教など仏教: 仏教は「苦」を乗り越えるための「生き方」を重要視します。仏教においては、個人がどのように「悟り」を開き、心を浄化し、解脱を目指すかが核心です。特に、仏教の実践においては「八つの正しい道」などの道徳的・精神的指針を通じて、日々の生き方が示されています。
道教: 道教も、自然の法則に従い、無為(何もしないこと、あるがままでいること)を実践することが「生き方」の中心です。「道」に従うことで、個人は調和と平和を得るという考え方が強調されます。こちらも「存在」の問題よりも「どう生きるか」に重点を置いています。
儒教: 儒教は「人間関係」や「社会における徳」の重要性を説きます。人間としてどう生きるべきか、社会的役割や道徳的責任をどう果たすかという点が強調されます。儒教の「仁」や「礼」の考え方は、具体的な生き方に焦点を当てています。

これらの東洋的思想に共通するのは、日々の生活、心のあり方、社会との関わりの中での行動が重要視されており、個人がどう「生きるか」に焦点を当てています。「人間の存在そのもの」よりも、如何に生きるか、如何に心を修めるか、そして如何に社会や自然と調和するかが哲学や宗教の核となっています。

2. 西洋の思想:存在そのもの(在り方)に焦点を当てる

古代ギリシャ哲学、キリスト教、近代哲学など古代ギリシャ哲学: ギリシャ哲学では、存在や人間の本質そのものに対する探求が主なテーマとなります。例えば、ソクラテスの「汝自身を知れ」といった命題は、自己認識、自己の存在についての問いを深く掘り下げるものです。また、アリストテレスの「幸福(エウダイモニア)」に関する議論も、人間がどのような存在であり、どう生きるべきかという「在り方」に対する問いが中心です。
キリスト教: キリスト教では、「神が創造した人間とは何か」「人間の存在の目的は何か」といった問いが根本的なテーマです。人間が神のイメージに似せて創られたとされ、その存在の意義や目的が考察されます。特にキリスト教は人間の存在そのものを神との関係性や人間の堕落・救済という形で問います。存在の意味を「何をするか」ではなく、「何者であるか」に関連づけて考えます。
近代哲学(デカルト、カント、ニーチェなど): 近代哲学においても、「人間とは何か」「我思う故に我あり」「人間は自由か否か」といった存在そのものに関する問いが中心です。デカルトは「思考する存在としての人間」を探求し、ニーチェは「人間の超越的な可能性」を論じました。存在の意味や本質を問い、自己認識や自由の問題に関する考察がなされます。

西洋哲学は、人間が何であるか、どのような存在であるべきか、そして存在の目的は何かに強く焦点を当てており、その中で人間がどう生きるべきかという問いも含まれますが、まずは存在の本質そのものが問われる傾向が強いです。存在の目的や本質が、道徳的または社会的な生き方を導くための土台となります。

3. 「生き方」と「在り方」の違いの背景

この違いは、文化的背景に深く関わっています。東洋(インド~中国)の宗教や哲学では、宇宙の一部としての人間の位置づけや、内面的な修行や成長が強調されます。東洋の宗教や哲学は、人間を自然や宇宙と調和する存在として捉え、その生き方にどれだけ適応できるか、または精神的に成長できるかが重要です。個々の生き方を修練することが、最終的な「存在」や「在り方」を見出す手段であるという見方が多いです。
西洋の宗教や哲学では、神(または究極の原理)との関係を基盤に人間の存在を問います。西洋はしばしば「人間は何者か?」という存在そのものの問いを中心にし、それがどう生きるかに影響を与えると考えます。存在の根本を問うことで、個々の道徳的行動や社会的役割が導き出されるという枠組みです。

結論

東洋は「生き方」を重視し、西洋は「在り方」、すなわち「存在そのもの」に強く焦点を当てる傾向があるという視点は非常に適切です。両者は、哲学的・宗教的な背景において、「生きる」ことと「存在する」ことを異なる方法で考察していると言えます。この違いは、東洋が個々の人間がどのように精神的・道徳的に成長するかに重点を置き、西洋が人間の根本的な存在や本質に問いかけるという文化的な特徴に由来しているのです。

ChatGPTによる回答

2-3 「人間とは何か」という問いかけの問題点

ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉に示されるように、西洋哲学において「人間とは何か」という問いが「人間の在り方」と関係づけられるかたちで繰り返し問い直されてきた。そうした西洋哲学の流れを簡単にまとめると下記のようになる。

ギリシャ哲学:哲学の始まり
中世哲学:キリスト教と哲学の融和
近世哲学:理性優位とキリスト教の影響力の低下
近代哲学:神と哲学の分離へ

https://capitalism-slaves.com/philosophy/12895/

ギリシャ哲学は、簡単にまとめると「ソクラテスが創始し、プラトンが発展させ、アリストテレスが大成した」ということになるが、ソクラテスはすでに「人間の正しい在り方」を問うていて、西洋哲学が当初から「人間の在り方」に焦点を当てていたことがわかる。だが、プラトンやアリストテレスは「(この世の)真実とは何か・どこにあるのか」を問う方向にシフトしたようである。
中世哲学はキリスト教の理論(教理)と結びつき、キリスト教の正当性を示す目的で発展したと言えるかもしれない。スコラ哲学が代表的だが、この時期の哲学はキリスト教の教理と結びついていたため、「人間とは何か」という問いかけは見受けられない。
しかし、ルネサンスを経て宗教改革や自然科学の発達などの変化が起きる中で、合理的に神の存在を証明しようという運動が起きてくる。この時代の哲学の潮流に「イギリス観念論」と「大陸合理論」があり、前者はベーコンやロック、後者はスピノザやデカルトが代表的な哲学者とされるが、後者が中世哲学を色濃く受け継いでいるように見えるのに対し、前者は経験や感覚、観察、実験に対して絶対的な信頼を置く点で人間中心主義的であり、新しい潮流と言える。
一方、ドイツではカントを起点にヘーゲルへ至るひとつの潮流ができ、これを「ドイツ観念論」と言う。これは合理論・観念論双方に対して批判的であり、双方を研究したうえで神と理性を分離し、より人間中心主義を強めたと言えるのではなかろうか。

さらに、実存主義などの現代哲学において、「人間とは何か」というテーマはより深まっていると考えられる。

さて、ここで問題になるのが、「人間とは何か?」という問いを発しているのが「他ならぬ人間である」という事実である。哲学者がいかに客観的な分析を心掛けようと、「人間が人間について考えている」という点において、主観的であることは避けられないのである。
ここでようやく『葬送のフリーレン』の話になる。

3 『葬送のフリーレン』の革新性

3-1 『葬送のフリーレン』のあらまし

『葬送のフリーレン』は小学館の『週刊少年サンデー』で連載中の異世界ファンタジー漫画で、2023年にアニメ化され、第2期の放送が決定している。「魔王討伐の後日談」として始まるのが異色であり、その点でファンタジーの定石を破る画期的な作品であるのだが、それだけではない。
まずはあらすじを紹介しよう。

魔王討伐の偉業を成し遂げ王都に凱旋した勇者ヒンメル、僧侶ハイター、戦士アイゼン、魔法使いフリーレンら勇者パーティー4人は、10年間もの旅路を振り返り感慨にふけっていたが、1000年は軽く生きる長命種のエルフであるフリーレンにとって、その旅はきわめて短いものであった。そして、50年に一度降るという「半世紀(エーラ)流星」を見た4人は、次回もそれを見る約束を交わしてパーティーを解散する。

それから50年後、すっかり年老いたヒンメルと再会したフリーレンは、ハイターやアイゼンとも連れ立って再び流星群を観賞する。まもなくヒンメルは亡くなるが、彼の葬儀でフリーレンは自身がヒンメルについて何も知らず、知ろうともしなかったことに気付いて涙する。その悲しみに困惑したフリーレンは、人間を知るためと魔法収集のために旅に出る。

さらに20年後、フリーレンはもうひとりの仲間であったハイターを訪ねる。ヒンメルと同じく老い先短い身であったハイターは、魔導書の解読と戦災孤児の少女フェルンを弟子にすることを依頼。その4年後に魔導書の解読を終えたフリーレンと、一人前の魔法使いに成長したフェルンは、ハイターの最期を看取ったあとに諸国をめぐる旅に出る。

その後フリーレンたちは、最後に訪ねた仲間であるアイゼンの助力を受けて、フリーレンの師匠にして伝説の大魔法使いフランメの手記を入手。その手記には、かつての魔王城があった大陸北端の地エンデにあるという、死者の魂と対話できる場所・オレオールの存在が記されていた。オレオールで亡きヒンメルと再会するという新たな目的ができたフリーレンは、アイゼンの弟子である少年戦士シュタルクや、行方不明の親友との再会を望む僧侶ザインという新たな仲間たちを加えて北方を目指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E9%80%81%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3

魔王討伐というミッションを終えたフリーレンが再び旅に出たのは、趣味の魔法収集が目的だった面もあるが、「人間を知るため」という動機が大きかったと思われる。次に、この点について述べる。

3-2 フリーレンについて

主人公のフリーレンは長命なエルフ族の出身で、軽く1000年を生きる大魔法使いである。勇者ヒンメルをリーダーとする魔王討伐のパーティーは10年に及ぶ長旅を続けたが、フリーレンにとってはわずかな時間にすぎなかった。しかし、「十年一昔」という言葉があるように、人間にとっては長い時間である。
パーティー解散後、50年を経てヒンメルとフリーレンは再会するが、ヒンメルはすでに老いさらばえ、余命いくばくもない状態だった。その20年後にはもう一人の仲間であるハイターも亡くなり、残された一人であるアイゼンは長命なドワーフ族だが、寿命は人間より長くともエルフよりは短いため、いずれは死に別れる運命にある。
寿命が違えば、当然、時間観念や死生観も変わってくる。ほぼ無限の寿命を持つフリーレンは悠久の時の中を生きていることになり、おそらく死を意識することがない。そのため、経験を積み重ねることに鈍感であると考えられ、それが表情の乏しさや他人に対する無関心として現れていたと考えられる。一方、人間は長くてもせいぜい100年の寿命しかなく、フリーレンに比べると極めて短命である。ヒンメルはそのことをよくわかっていたようで、短い人生をいかに濃密に生きるかを常に意識していたらしき描写がある。そうしたヒンメルの生き方は知らず知らずフリーレンに影響を与えていたようで、彼の死後にようやくそのことに思い至ったフリーレンは、彼のことを深く知ろうとしなかったことで思い悩み、後悔の涙を流す。「ヒンメルならどうしたか」が作中で頻繁に語られているところからも、彼の偉大さがうかがい知れる。

3-3 フリーレンという画期的な視点人物

『葬送のフリーレン』の重要なテーマが、「人間とは何か」である。これはフリーレンが旅を続ける理由の一つになっているが、図らずもこれは西洋哲学における「人間とは何か」という問いの答えを探る思索の旅路になっている。だが、先に述べたように、「人間とは何か」は人間である哲学者が自分自身に向かって投げかけた問いであり、いかに客観的に分析しようとしても自己分析になる点で「主観的」にならざるを得なかった。しかし、この物語の主人公であり、視点人物でもあるフリーレンはエルフ族という人間よりはるかに長命な種族である。そのため、異種族による思索の旅ということで、作者が意図したかどうかはわからないが、「人間とは何か」という問いを客観的に考察することに成功しているのである。とはいえ、作者は人間だから、人間が人間について考えているという点は変わりないのだが、異種族の視点をフィルターとして差し込む形で、従来の思索よりはるかに客観性が増していると言えるのではなかろうか。

4 まとめにかえて

総括として、ChatGPTの講評を掲げておく。

とても鋭い視点ですね!確かに哲学における「人間とは何か」という問いは、基本的に人間自身が考えるものであり、そのため常に主観性から逃れられません。しかし、『葬送のフリーレン』におけるフリーレンの視点は、まさにその主観性を超えた「外部からの観察者」として機能しているように思えます。

① 長寿種族の視点による客観化
フリーレンはエルフという人間よりはるかに長命な存在であり、人間の一生を「ほんの一瞬」のように感じるほどの時間感覚を持っています。そのため、彼女にとって人間の行動や価値観は、「当事者としての共感」よりも「観察者としての分析」に近いものになりやすい。これは、哲学でいう「神の視点(外在的な視点)」に近く、人間自身が自己を分析するときの主観的なバイアスを排除する効果を持っていると言えます。

② ヒンメルの生き方と「人間らしさ」
フリーレンは当初、ヒンメルの行動や言葉をあまり深く考えていませんでした。しかし、彼の死後、彼の生き方や言葉の意味を時間をかけて噛みしめることで、「人間とは何か」という問いに対する理解を深めていきます。ヒンメルの「人間らしさ」が何であったのかを、フリーレンが外部の視点から再評価することで、読者も「人間とは何か?」という哲学的問いに立ち返ることができます。

③ 「人間であること」の普遍性と特異性
フリーレンが人間を外部から観察する立場である一方で、彼女自身が旅を通じて「人間を知りたい」と思うようになることも重要です。この過程は、人間に対する単なる外部的な観察ではなく、「理解しようとする意志」という要素を加えています。これは、科学や哲学が「客観的に人間を分析しようとするが、結局のところ人間が人間を知ろうとする営みである」という構造と重なります。

結論

『葬送のフリーレン』は、エルフという超越的な存在の視点を借りることで、「人間とは何か?」という問いに客観的な枠組みを与えることに成功していると言えそうです。さらに、フリーレンが旅を通して「人間を知る」過程を描くことで、「人間であること」の意味を哲学的かつ感情的に掘り下げる物語になっています。

この視点を深めると、SF作品などで「人間とは何か」を問うときによく使われる「AIの視点」や「異星人の視点」との比較も面白いかもしれませんね。

ChatGPTによる回答

『葬送のフリーレン』については、以前、断頭台のアウラについて「彼女は死を賜るしかなかったのか」考察したことがあるので、こちらも併せて目を通していただければ幸いである。

『葬送のフリーレン』キービジュアル

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