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セーラームーンとプリキュアの根本的相違
1 はじめに ~ChatGPTとの問答から~
それはひとつの思い付きだった。
1月末の全国的な荒天で体調を崩し、2月初めの寒波でそれが悪化して、未だに回復の兆しがない。
自律神経に不調があるためか、頭が冴えていても身体が倦怠感などで動かせなかったり、身体は自由に動かせても頭の働きが鈍っていて本すら読めない時があったりした。そういう時、浮かんできた疑問をChatGPTに検証してもらったりして遊んでいたのだが、プリキュアの深掘り考察をしていた時に下記のような思い付きがあった。
【質問】
セーラームーンとプリキュアを対比した場合、前者に神話・叙事詩的な雰囲気(物語の中の戦い)、後者に史伝的な雰囲気(実際のできごととしての戦い)がある気もしますが、どうでしょうか。
それに対するChatGPTの回答はこうだった。
セーラームーンは「神話・叙事詩」的(運命と宿命の戦い)
プリキュアは「史伝」的(今を生きる少女たちの戦い)
セーラームーンはアーサー王伝説的、プリキュアは幕末志士・戦国武将的
プリキュアの戦いは「歴史の中の英雄」的であり、日本の歴史観に近い
表にするとこうなる。
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ChatGPTがおおよそ「答えらしいもの」を提示してくれているのだが、これを自分の言葉でまとめ直して記事にしてみたい。その目的は、ChatGPTが簡潔にまとめた内容に、具体例を付加して充実させる必要があると思われるからである。
2 セーラームーンからプリキュアへ
2-1 少女戦隊ものの系譜
『美少女戦士セーラームーン』の成功以来、少女戦隊ものはひとつのジャンルとして確立した。その系譜を大まかにたどると、「セーラームーン→ウェディングピーチ→東京ミュウミュウ→ぴちぴちピッチ→プリキュア」となるが、この辺りはピクシブ百科事典によくまとめられた記事があるので、詳細はそちらを参照していただきたい。
この少女戦隊ものについては前史として「バトルヒロインもの(女性が主人公のバトルもの)」があり、それと『聖闘士星矢』に代表される戦隊ものが結びついて完成したらしい。その過程で重要な役割を果たしたものとして、特撮ドラマ「東映不思議コメディーシリーズ」が挙げられるという。
いわゆるバトルヒロイン(戦う女性)を、日本では特に主人公がティーンエイジャーであることが多いところから「戦闘美少女」と呼ぶのが一般的で、『リボンの騎士』を嚆矢とし、『キューティーハニー』や『ラ・セーヌの星』などが挙げられる。戦闘美少女については斎藤環先生の研究があるので参考にしていただきたい。
戦闘美少女そのものが興味深いテーマだが、本題から外れるので、それは別の機会に譲って先を急ぐ。
セーラームーンの成功以後、おおよそ2000年代に入って少女戦隊ものの制作が盛んになるが、そこで従来の低年齢層向け作品(プリキュアなど)と高年齢層向け作品(『戦姫絶唱シンフォギア』など)に分岐する。しかし、それは少女戦隊ものが一ジャンルとして市民権を得たことを意味すると考えていいだろう。
2-2 時代の変化と少女戦隊ものの変化
アニメの放送スタート時期でいうと、セーラームーンからプリキュアまでの間に約10年の開きがある。この間にも社会の変容はあり、それがセーラームーンからプリキュアへ至る少女戦隊ものの発展の流れに影響を与えている側面はあると思われる。
そのあたりの社会変化をChatGPTにまとめてもらったところ、次のようなトピックが浮かび上がる。
1. 「男女雇用機会均等法」の強化(1997年改正)
1986年に施行された「男女雇用機会均等法」が1997年に改正され、企業に対してより厳格な男女平等の義務が課されました。
これにより、女性のキャリア形成の意識が少しずつ変わり始めました。
「女の子だから◯◯しなければならない」「お嫁さんになるのが幸せ」という価値観が揺らぎ始めた時期。
2. バブル崩壊後の価値観の変化(1990年代~)
1991年のバブル崩壊後、日本社会は「豊かで安定した未来が約束される」時代から、「個人でどう生き抜くか」を重視する時代へと変化。
それまでの「専業主婦モデル」が揺らぎ、共働き世帯が増加。
少女漫画やアニメのヒロインも、「運命に導かれるお姫様」より、「自分で道を選ぶヒロイン」が求められるように。
3. 2000年代の「ジェンダー平等」意識の広まり
2000年には「男女共同参画社会基本法」が施行され、政府も女性の社会進出を積極的に支援。
メディアでも「強い女性」「自分の意志で行動する女性」を描くことが増加。
「戦うヒロイン」像も変化し、「王子様を待つ」存在ではなく「自分で戦う」スタイルが主流に。
間を飛ばしてセーラームーンとプリキュアを比較すると、次のようになる。
○セーラームーンの場合
「恋と運命」による成長(タキシード仮面との関係が重要)
女性らしさを強調(ロマンス、ドレス、変身後の華やかさ)
「守られる存在」から「戦う存在」へ変化する過程が描かれる
○プリキュアの場合
戦いが「日常の延長」にあるため、運命ではなく意志で戦う
「女の子だから◯◯しなければならない」という枠組みが少ない
恋愛要素はほぼなく、仲間との友情や使命感が重視される
「姫」より「騎士」に近いスタイル(特に『ゴープリ』)
この過渡期にあたると思われるのが『東京ミュウミュウ』で、その特徴として下記の点が挙げられる。
市井の少女が、突然、何の脈絡もなく戦闘に巻き込まれる
戦わなければならない理由が自分の存在意義とリンクしている
戦いの目的が宿命にあやつられた結果ではなく、自分たちを守るため
東京ミュウミュウの場合、一種の改造人間になってしまっているうえ、敵を一掃しないと能力が消えないので、役割を終えると能力が自動消滅する(場合が多い)プリキュアと違って気の毒だが、「戦いが日常の延長上にある」という点でかなりプリキュアに近いと言える。
おおざっぱにまとめると、「ジェンダー観の変化と、フィクションに求められるものが変化した結果、女性像も変化し、少女戦隊もののスタイルにも変化が生じた」となるだろうか。
3 セーラームーンとプリキュアの根本的差異
すでに「はじめに」において結論を用意しているが、セーラームーンとプリキュアの違いに具体的に踏み込んでみよう。
3-1 セーラームーンの特質:神話・英雄叙事詩的
『美少女戦士セーラームーン』は、原作者の武内直子氏が「宝石商の娘・高校時代に天文部に所属・占星術を嗜む」という経歴を持つため、宝石・天体・占星術の知識がふんだんに盛り込まれた綿密な世界設定が特徴のひとつである。そのことからギリシャ・ローマ神話的な要素も多く含まれており、作品の雰囲気そのものが神話や英雄叙事詩的である。特に、ストーリー展開の過程で徐々に明かされていく「宿命」と、「宇宙規模の最終決戦」にその要素が強く見られ、北欧神話の「神々の黄昏(ラグナロク)」を彷彿させる。
3-2 プリキュアの特質:史伝的
一方、プリキュアはどうかというと、『魔法つかいプリキュア!』など世界観を丁寧に作り込んだものがある一方、比較的緩い世界観の者も多く統一されていないが、各作品に共通するのは、「主人公たちが不可抗力で戦闘に巻き込まれる」ことと、「主人公たちの戦いが日常を守ることを目的としている」ことが挙げられる。プリキュアを求める側からすると、自分たちの存亡がかかっているわけだが、プリキュア当人からすれば、「自分たちが戦わないと日常生活に支障が出る」から戦うということになる。この点は、視聴者に「何気ない日常の大切さ」を教えてくれる要素でもあるが、不可抗力に翻弄されながらも「自分たちが何とかしなければ」という意思で自発的に戦いに身を置いているキャラクターが多い点は幕末維新期の志士たちを彷彿させる。これを適切に表現するために「史伝」という言葉を思いついたが、史伝とは下記の意味である。要するに歴史叙述である。
し‐でん【史伝】
1 歴史・伝記として伝えられた記録の総称。
2 歴史上の事実に基づいた伝記。
[類語]伝記・評伝・伝・立志伝・武勇伝・列伝・本伝・外伝
簡単にまとめると、セーラームーンは文学(神話・英雄叙事詩)の中の英雄、プリキュアは記録(歴史)の中の英雄的であると言える。特に後者は「プリキュアになる以前は市井の一少女にすぎなかった」「生まれつき何らかの宿命を背負っているわけではない」という点で等身大のキャラクターであり、その点も歴史上の英雄に近いと言えよう。
4 ヨーロッパと東アジアの戦う女性
セーラームーンは背後にギリシャ・ローマ神話や西洋占星術の影響が見られるので、キャラクター造形や世界観設定がそもそもヨーロッパ的である可能性が高い(おそらく意図的であろう)。一方、シリーズごとに世界観がリセットされるプリキュアは「プリキュアオールスターズ」の世界観も含めてそこまで枠組みが強固でない場合が多い。その一方で「浄化」という表現や世界観の背後にあるアニミズム的要素(特に『ヒーリングっど!プリキュア』や『わんだふるぷりきゅあ!』はそれが顕著)など、極めて東アジア的な作りになっているように思われる。それを補強する材料として、ヨーロッパと東アジアの戦う女性像を見ていきたい。
4-1 ヨーロッパの戦う女性
ヨーロッパの実在した戦う女性として、ジャンヌ・ダルクとブーディカが挙げられる。
①ジャンヌ・ダルク
フランス東部のドンレミ出身で、出自は農家である。当時、フランスはイングランドとの長い戦争(百年戦争)のただ中であったが、「神の啓示を受けた」ジャンヌは軍人としてフランス軍に加わり、フランスの各都市を取り返し、シャルル7世の戴冠を成功させるなどの功績を挙げた。しかし、ブルゴーニュ公国の捕虜となったのちにイングランドへ引き渡され、異端として処刑される。このあたりの経緯は高山一彦先生の評伝が詳しい。
ジャンヌが戦いに身を投じたのは「神の啓示を受けた」ためであり、その点は「宿命によって戦いに身を投じる」セーラー戦士たちに近いと言える。
②ブーディカ
ブーディカはイギリスのノーフォーク地方を治めていた女王で、ケルト人イケニ族の族長であった。タキトゥスらがまとめた記録によると、紀元60年頃、ローマ帝国に対して反乱を起こし、イングランドにあったローマ植民地を次々と攻略した。その勢いに押された時の皇帝ネロは軍の撤退を決断したとも言われるが、最終的にワトリング街道の戦いでブーディカは敗れた。
元々、イケニ族を治めていたのはブーディカの夫であるプラスタグスだった。しかし、ローマ帝国の植民地となっていたイングランド地域の部族長ら(同盟領主)の地位は不安定なもので、「王の称号は本人のみ有効で死亡すると消滅する」という規定のために地位の世襲ができず、後継者はその都度認可を受ける必要があった。プラスタグスは自分の死後、ローマ皇帝をブーディカとの間に生まれた二人の娘との共同統治者に立てることで、王国の平安を維持しようとした。ところが、プラスタグスが亡くなると彼の根回しは無視されるどころか、遺言を逆手に取られ、王位と財産の半分はローマ皇帝の物とされた上で娘たちへの相続は無効と一方的に解釈されてしまい、それを口実に王国は征服されたがごとく帝国に編入されてしまった。これがブーディカの反乱に繋がるが、タキトゥスやディオは、これをローマの財政官たちが負債返済を目的に暗躍した結果だと伝えている。
このあたりから、ブーディカは自発的に決起したようにも見えるが、以下の記述から彼女の意思で反乱の指導者に立てられたわけでもなさそうであり、彼女もまた不可抗力に翻弄された女性戦士であったと言える。
イケニ族はトリノヴァンテス族など近隣の部族とともに蜂起し、ローマへの反乱の口火を切った。彼らは、トイトブルク森の戦い(9年)でライン川北部からローマを追い出したケルスキ族の王子アルミニウスや、やはりガイウス・ユリウス・カエサルのローマ軍を追いやった彼らの祖先の故事に倣おうとしたと思われる。ディオによると、反乱軍のリーダーに選ばれたブーディカは、懐に忍ばせた野ウサギを逃し、それが走り去った方向から吉凶を占う儀式を執り行って、ブリタンニアの勝利の女神アンドラステへ祈りを捧げたと伝わる。(後略)
4-2 東アジアの戦う女性
東アジアの戦う女性として、中国の秦良玉、ベトナムの徴姉妹、日本の巴御前が挙げられる。
①秦良玉
秦良玉は明代末期の女性軍人である。優れた教養を持ち、詩文の才があるなど、当時としては非常に優れた女性だったと考えられる。
現在の重慶の出身で、馬千乗という軍人の妻となり、夫とともに反乱鎮圧に尽力したが、夫は無実の罪で獄死した。その後、良玉は夫の軍を引き継いだ。
彼女が生きた時代は農民反乱が頻発し、後金(後の清)に国境を脅かされるなど、大いに不安定であった。良玉は勤皇の志厚く、積極的に賊軍と戦い、明の滅亡後も亡命政権である南明に仕え、官爵を得ている。そのことから、中国史上で唯一、正史に将軍として立伝されている。
②徴姉妹
徴姉妹は中国・東漢(後漢時代)に起きた反乱の指導者である。現在の北ベトナム地域の出身で、地域の有力な在地軍事指導者の娘であった。
当時、現在のベトナム地域は中国領であった(交阯郡)。この頃、地元領主が持っていた徴税権が東漢の派遣官(太守ら)に移っていた。そのため、最有力者であった徴則(徴姉妹の姉)が代表するかたちで徴税権の移譲を申し出、太守であった蘇定が悪政を敷いたこともあって、交阯刺史部内の郡県の有力者が賛同した。その後の経緯はわからないのだが、徴姉妹は徴税を強行しようとし、光武帝(東漢の初代皇帝)はこれを反乱と見なして馬援を総大将とする鎮圧軍を派遣した。悪天候と疫病により鎮圧は難航したが、反乱軍側にも厭戦気分が広がり、決戦を急がざるを得なくなった徴姉妹は大敗を喫した。最終的に姉妹は捕らえられ処刑されたが、その後もこの地域では反乱が相次ぐことになった。
③巴御前
巴御前は平安時代末期の女性で、『平家物語』などの軍記物語にのみ登場するため、実在したかどうかが定かではないが、伝えられるところによると木曽義仲の側室であったという。『平家物語』覚一本によると「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」とあり、強弓を使う大力の女武者であったとされる。
義仲の乳兄弟であった今井兼平とともに最後まで義仲に付き従ったが、義仲に「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と言われ、「最後のいくさしてみせ奉らん」と返すと、大力の敵将・恩田八郎をその手で討ち取り、落ち延びていったという。長門本では越後で尼になり、夫の菩提を弔ったとされる。
4-3 東アジア的「戦う女性像」の特質
さて、今挙げた「戦う女性」は、私が知っている女性でなおかつ歴史時代の人物に絞ったため、データとして提示するには少ないのであるが、おおざっぱに見るとヨーロッパの戦う女性が不可抗力で戦いに臨んでいるのに対し、東アジアの戦う女性は同じ不可抗力下にあっても自ら戦う意思を示している点に特徴があると言える。この違いが「ヨーロッパと東アジアの戦う女性像の違い」として普遍化できるかどうかは不明だが、不可抗力に翻弄されながらも自発的に戦う意思を表示している点はプリキュアにも通じる。
歴史時代を通して、ヨーロッパ・東アジアそれぞれにおいて女性がどのような位置づけであったかを検討するには法制史や女性史などの視点から専門書を読み解かねばならず、今はそこまでできる余裕がない。ヨーロッパ・東アジアともに女性指導者が現れているので(イギリスのエリザベス1世や日本の持統天皇など)、必ずしも女性が男性に隷属させられていたわけではないと思われるが、日本もその影響を受けた18~19世紀の法制度下においては女性の権利が著しく制限されていたことを考えると、時期にもよるが東アジアのほうが女性の地位は相対的に高かったのではないかと考えられる。中国は各時代を通して女性の地位が低かったようであるが、これは中国特有の宗族意識とも関連するので、簡単に言い表すことができない。しかし、日本においては飛鳥・奈良時代の律令において女性の私有財産がある程度認められていたらしく、おそらく同時期においては女性の地位が他地域より高かったものと考えられる。この辺りは成清弘和先生が著書で明らかにされている。
また、平安時代中期頃にケガレ忌避観念が肥大化して、血の穢れ(月経・出産)を理由に女性が祭祀の場から遠ざけられるまでは女性のほうが神職としての地位が高かったらしく、そうした「女性の地位が必ずしも低くなかった」日本の特質が、日本のサブカルチャーにおける「戦う女性」の氾濫の根底にあるとも考えられる。
5 まとめ
この記事ではセーラームーンとプリキュアの根本的な相違について見てきた。その相違で最も際立つのが、プリキュアが「自発的に戦う戦士」として描かれている点だと考えられる。セーラームーンからプリキュアへ至る少女戦隊ものの変遷は、下記のようにまとめられる。
①セーラームーン
宿命によって戦わざるを得ない戦士たち。神話・英雄叙事詩的。
↓
②ウェディングピーチ
見かけは「巻き込まれ型」だが、セーラームーン的な要素も見られる。英雄叙事詩的だが、ホメロスが書いた史劇に近いと思われる。アーサー王伝説のイメージ。
↓
③東京ミュウミュウ
完全な「巻き込まれ型」で、戦いの目的が「世界を存亡の危機から救う」から「自分たちの日常を守る」にシフトしている。しかし、彼女たちは「やむを得ず戦っている」ようであり、不可抗力から脱し切れていない。その点はヨーロッパ型の戦う女性像と言えるかもしれない。英雄叙事詩から史伝への過渡期のようなイメージ。シェイクスピアの歴史劇的と言えるか。
↓
④プリキュア
完全な「巻き込まれ型」である。プリキュアに助けを求めた側(彼らがパートナー妖精になる)からすれば「自分たちが住む世界の存亡」がかかっているが、プリキュアとなった少女たちは、ほぼ完全に「自分たちの日常を守る」ために戦っている。特に、妖精たちが「プリキュアになってほしい」と説得する場面が描かれていることで、より彼女たちが「自発的に戦っている」ことが強固に表されており、完全に「自らの意思で戦う女性」に変化したと言える。海音寺潮五郎『武将列伝』などのイメージ。
このように並べると、国際社会における女性像の変化と、女性の意思決定権の拡充が少女戦隊ものの変遷を通して跡付けられているようにも見える。この辺りはプリキュアシリーズにおけるキャラクターの描き分けにも表れており、従来の「男らしさ・女らしさ」を守りつつも打破しているという、一見矛盾しているが理想的なキャラクター造形とチーム内の役割分担が果たされていると言えよう。
今回はセーラームーンとプリキュアの相違について見てきたが、自身の思考トレーニングという側面が強く、遊びの域を出ていない。いや、むしろ遊びの領域に留めているともいえる。この辺りは文化史やジェンダー論の視点からも興味深い議論が展開できそうだが、私にはそれを提起するだけの力はないし、むしろ負担でもある。そこで、この試論を提示することでお役御免とさせていただきたい。