”町”のヒーローのために~生活の中のヒーローたち~
0.ヒーローと「世界」、ヒーローと「町」
ヒーローものの、いわばお約束として登場するのが「世界征服」という言葉だ。多くのヒーローもので、敵役はこの言葉を目的と掲げてきた。
もちろん、ヒーローものがパロディされ始め、それすら一種の定番となってから、もはやその言葉は陳腐なものになった。だがそれでも、敵役の目的は「世界」や「人類」といった言葉と密接に結びついていた。世界の破滅、人類滅亡――もちろん、平成ライダーのような例外も多いが――それに立ち向かうヒーローの目的も、当然ながら「世界」や「人類」を守ることになっていく。
ここで指摘したいのは、私たちのヒーローものについての前提が、「世界」や「人類」などのマクロな視点と強く結びついているということだ。「世界」や「人類」を滅ぼそうとする者と、それらを守ろうとする者の戦い。そうした構図で私たちはヒーローものを捉えがちだということだ。
一方で個々のエピソードで描かれる事件は、物語の山場を除いて、世界の命運には直結しない、人々の生活を脅かすミクロなもののことが多い。しかしやはり、物語の大枠は「世界」や「人類」といったマクロな視点の想像力と密接に結びついている。
こうした前提があるからこそ、例えば先に挙げた平成ライダーは、新たなヒーローもののあり方として鮮烈に映ったわけだ。戦いの理由を個々の人間の内面に求め、個々人の人生や生き方と戦う理由を結びつける。そんなミクロな視点が、ヒーローもののあり方を一気に塗り替えた。
しかし、ミクロな視点のあり方は、必ずしも平成ライダーのように、正義や世界、人間をシビアに捉え、それを突き詰めるだけではない。明るくコメディに、人間の生活の中にヒーローを位置づけることもできる。それでこそ描ける人生や生き方もあるということだ。
ここではそのキーワードとして、ヒーローものと「町」を取り上げてみたい。「世界」と比べてみれば、「町」とはずいぶん小さなものに見えるだろう。しかし、この後詳しく見ていくが、「町」を軸にヒーローものを見ていくことで、ヒーローに、そして「町」に求められているものが浮かび上がってくるのだ。
1.ご町内の平和と安全~『美少女仮面ポワトリン』~
『美少女仮面ポワトリン』は、ごく普通の女子高生・村上ユウコが初詣に行った近所の神社で、神様からこんな言葉とともに美少女仮面ポワトリンとしての使命を託されるところから始まる。
持病の治療のためにイタリアの温泉に行ってしまった神様から、半ば押しつけられるようにして美少女仮面ポワトリンとなったユウコが戦うのは、ご町内の平和を乱す奇妙奇天烈な犯罪者たちだった。
もはや説明不要の感も強いが、『美少女仮面ポワトリン』とは東映不思議コメディシリーズの第11作目だ。前々作『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』および前作『魔法少女ちゅうかないぱねま!』に続く、美少女路線の第3作にあたる。
そもそも不思議コメディシリーズ自体が、主人公たちの周りで起こる珍騒動を描いたものばかりである。そしてこの『ポワトリン』は、本格的なコメディ路線のヒーローものの元祖といえる作品なのだ。
先に述べたとおり、ポワトリンが戦うのは基本的に犯罪者たちである。中盤からは暗黒世界の帝王・ディアブルが登場し、ポワトリンを幾度となく苦しめるが、基本的には人間の悪人たちが多い。ギャングや怪盗はまだわかるが、他人の宿題を奪って勝手にやり始める宿題強盗勉強くんや、お彼岸に墓参りをしない子どもを襲うお彼岸ライダーなど、他のシリーズでは絶対お目にかかれない超個性的なキャラクターも揃っている。そして彼らが現れるのが、決まって「ご町内」というわけだ。
この「ご町内」とは、どこか特定の町を想定しているわけではない。そもそも「ご町内の、そしてついでに宇宙の平和と安全」という言葉自体が、「世界」や「人類」といったマクロな視点に対するパロディ的な意味合いが強い。だがここで注目すべきは、「ご町内」が「世界」の対義語として――つまり、マクロな視点に対するミクロな視点の象徴として現われていることだ。冒頭で述べた通り、「世界」のアンチテーゼとして「個人」に焦点を当てたのが平成ライダーである。「ご町内」はそれと少し異なり、ある一定の広がりが含意されている。
その広がりとは、すなわち主人公・ユウコの生活圏内だ。基本的にどんな犯罪者や悪党も、ポワトリン=村上ユウコの生活圏内で事件を起こす。そして例えばそれを弟たちや妹から噂話として聞くことで、ユウコは事件を察知するというパターンも多い(ちなみに、ユウコの弟は他3人の友人とポワトリンクラブとして活動しており、それゆえに犯罪者に目をつけられることもある)。もちろん、ユウコと彼らの日常は大きく異なる。地元の小学校に通っている(であろう)弟や妹と、バスで高校に通学している(第20話)ユウコとでは、生活圏の広さは大きく変わるだろう。自宅から少し離れたところまで毎日通うユウコと、自宅の周辺で過ごし、遊び回る弟たちの生活圏は、微妙に異なるに違いない。
ユウコはポワトリンとなって「ご町内」の事件を解決することで、ごく普通の高校生よりも「ご町内」と関わることになる。そしてそれは、自分の生活圏内でありながら、例えば家族を媒介とすることで広がりを持った――それも外側にではなく内側に――圏域なのだ。あくまで個人の生活圏であるから、大きな広がりではない。しかしその中にいる人々とのつながりによって、それは内側に広げていくことができる。弟たちのような愉快な家族も、珍妙な悪事を働くこともある町の人々も、あるいはユウコにポワトリンの使命を押しつけた神様もまたその広がりだ。『美少女仮面ポワトリン』の描く「ご町内」とは、そんな可能性を秘めた広がりであり、『ポワトリン』の魅力とは、そんな愉快な関係性の広がりへの憧れなのだ。
2.町の幸せ守るため~『魔弾戦記リュウケンドー』~
『魔弾戦記リュウケンドー』は、架空の地方都市・あけぼの町に現れる魔物軍団・ジャマンガと戦う魔弾戦士たちの物語だ。ジャマンガはある理由のためにあけぼの町しか襲わず、しかも人間の悲しみや苦しみ、恐怖といった感情が生み出すマイナスエネルギーを集めるため、直接命を奪うことは少ない。主人公のリュウケンドー、そのコンビのリュウガンオー、途中参戦する第3の戦士・リュウジンオーの3人は、町の人々をジャマンガから守るために戦うのだ。
ジャマンガが現れるのはあけぼの町だけであり、先に引いた台詞からもわかるように第1話の時点でそれが町の人々の認識にもなっている。そしてそれだけでなく、町の人々は魔物にある程度順応している。魔物の被害届を受け付ける警察署のロビーが市民の集う憩いの場のようになっていたり、魔物をモチーフにした商品やご当地キャラまで存在しているのだ。
ここまで魔物が生活に浸透しているのは、ジャマンガが人命を奪うことを良しとせず(マイナスエネルギーを生み出す存在がいなくなってしまうから)、物語開始当初は集団で現れて町を荒らす程度だったからこそだ。その程度だったからこそ、人々は「SHOT(リュウケンドーたちの属する組織)が何とかしてくれる」と彼らに全幅の信頼を寄せていたし、警察上層部も日和見主義でSHOTに頼り切りだった。敵役たる魔物や魔弾戦士たちも、あけぼの町にとっては生活の一部であり、犯罪への対象を警察に任せるように、魔物への対処はSHOT≒魔弾戦士たちに任せきりであった。
しかし、徐々にエスカレートする魔物の悪行に対し、町の人々も対抗しようと結束し始める。自警団を結成したり(第22話)、警察署が魔物安全教室を開いたり(第35話)、町民の間でも戦おうという意識が徐々に強くなっていく。
そして第44話「閉ざされたあけぼの町」では、Dr.ウォームがあけぼの町を魔法ドームで閉じ込めて中の空気を抜き始め、さらに魔弾戦士たちの力を封じた。空に自分の姿を映し、魔弾戦士たちに人間の姿のまま現われるよう要求するDr.ウォーム(ジャマンガにも町の人々にも魔弾戦士たちの正体は秘密なのだ)。
日和見主義な警察署長・雪村は魔弾戦士が現れるのに任せようとするが、町の人々の抗議や、セミレギュラーの幽霊・栗原小町に諭されたことで奮起。ジャマンガの注意を引こうと「私がリュウケンドーだ」と名乗りを挙げる。すると居合わせた人々も、次々に我こそはリュウケンドーと名乗りを挙げ、ついには全員揃って「あけぼの町リュウケンドー」と大向こうを切る。ジャマンガの注意がその光景に向いている隙に、小町は隣町にいて難を逃れた鳴神剣二/リュウケンドーに危機を知らせ、リュウケンドーの一撃でドームは破壊された。
その夜、自分は結局役に立たなかったと独りごちる雪村の前に小町が現れ、リュウケンドーが感謝していると伝える。小町は雪村に、これからも町のために頑張ろうと伝え、2人は敬礼を交わす。
魔弾戦士たちは、愛すべき町としてあけぼの町のために戦い、そしてそこに暮らしている。素顔の魔弾戦士たちにとって、あけぼの町は正に生活圏だ。しかしそこは、魔弾戦士だけの町ではない。町の人々みんなが生活している以上、彼らにとってもそこは当然生活圏なのだ。自分たちの生活を守るために立ち上がるとき――自分にとっても、他人にとっても大切なものを守ろうとするとき、たとえ力はなくとも彼らはヒーローになる。「あけぼの町リュウケンドー」とはその一つの達成だ。
彼らは魔弾戦士を信じているが、依存してはいない。いざというときに「あけぼの町リュウケンドー」として立ち上がれる程の強さを、彼らは持っている。その強さの源は、やはり生活を同じくするということ、それゆえに同じものを守りたいと願う心の、ごく自然な繋がりだ。生活を同じくするということは、その切実さゆえに、それだけで関係性の広がりの可能性を秘めている――正体のわからないヒーローとも、通じ合う可能性があるということだ。
3.町の涙を拭う者〜『仮面ライダーW』〜
風とエコの街・風都。私立探偵・左翔太郎とフィリップは、町の人々の様々な依頼を請け負い、多種多様な事件を調査している。そしてその中には、人間がガイアメモリという小型デバイスを使って変身し、超常的な能力を駆使して犯罪を行う怪物・ドーパントが犯人のものもある。ドーパントに遭遇したとき、2人は仮面ライダーWに変身し、ドーパントと戦う。
『W』の特徴は、事件の被害者も犯人も関係者も、全て町の住民だということだ。地元の名士が裏で流通させるガイアメモリを、普通の市民が購入する。もちろんそういう層に狙ってセールスをかけているのだろう、購入した者たちはことごとく事件を起こす。それも、基本的には個々人の怨恨か、快楽に由来するもの――クビになった会社への復讐、銀行強盗、あるいは好きな女性の主演映画を勝手に作るなど――それぞれ特異な能力を持っていながら、それを個人的な動機のために使う。平成ライダーの持ち続けてきた、個人に着目したミクロな視点がここにある。
そしてガイアメモリが流通しているのは風都だけだから、事件が起こるのも必然的に風都の中に限られてくる。町の住民が町の中で起こした事件で町の住民が被害を受ける。そしてそれを、町を愛するヒーローが解決する。それぞれの人生が、生活が交錯し、物語が進んでいく。ここに、これまで見てきたような、町という生活圏――個々人が生活できる広さでしかないが、その内部に広がりをもつ圏域――に着目したミクロな視点がある。
この2つの視点は、本来相反するものではない。個人が生活していくとき、世捨て人でない限り、どういう形であれ必ずまた別の個人と関わる。それが良いものか悪いものかにかかわらず、必ず他人と関わることになるのだ。そうして出来ていく関係性の広がりこそ、私たちの生活圏の内の広がりだ。
『W』の場合、悪い広がり――恨みや妬み、あるいは行き過ぎた感情のベクトル――が話の主軸となることが多い。それはドラマの構造上仕方のないことだ。しかし人間どうしが関わるとき、関わり方はそれだけではない。親しみであったり、友情であったり、あるいは助け合うこともできるはずだ。そして『W』の場合、その象徴となるのが「仮面ライダー」なのである。
『W』作中において、物語開始当初はドーパントやWの存在は人々にほとんど知られていなかった。しかしドーパントとなる者が後を絶たず、Wの戦いが続く中で、怪物の存在と、それと戦い風都を守る戦士「仮面ライダー」の存在が風都市民の間で噂となり始める。噂を聞いた翔太郎とフィリップがそれを気に入り、それまで名乗っていた”W”という名に加えて「仮面ライダーW」と名乗り始める。『W』作中における「仮面ライダー」という名は、風都市民が自分たちの町を守ってくれる存在に向ける信頼の証なのだ。自分の住む町には、怪物もいるが、ヒーローもいる。そうした信頼も、人間どうしの関係性の一つだ。
そして翔太郎やフィリップは、探偵として事件に立ち入り、そうした人間どうしの関わりに踏み込み、被害者を救い、犯人を倒す。そこで彼らにも新たな関係性が広がる。犯人からすれば恨まれるかもしれないが、被害者や関係者からは事件を解決した探偵として――そして場合によっては「仮面ライダー」として――信頼を向けられる。そしてそれこそが彼らの仕事であり、生活なのだ。『W』とは、人間の生活の――人間が生活していく中での関係性の広がりの――縮図なのである。
そしてシリーズのクライマックスを飾った劇場版『仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ』では、傭兵集団・NEVERによって風都が占拠されるという、風都を揺るがす大事件が発生する。その首魁・大道克己が変身する仮面ライダーエターナルと戦い、窮地に陥ったWに、風都市民は祈りを向ける――「負けないで、仮面ライダー」と。その祈りは風となり、Wを奇跡の姿・サイクロンジョーカーゴールドエクストリームに進化させる。風都市民の信頼や祈りを力に変え、Wはエターナルを打ち倒す。Wの戦いを見守る風都市民――その中に、かつてWが解決した事件の関係者たちも映し出される――Wがこれまで生活の中で広げてきた関係性が、追い詰められた彼らに力を与え、彼らを助けたのだ。
この事件の後も彼らは戦い続け、放送開始から15年経った今でも漫画作品『風都探偵』として『W』の物語は続いている。
今でも『W』の本質は変わらない。町の人々の依頼を受け、事件を解決する。町の人々の生活とともにあり続ける彼らの生活もまた、今も続いている。
4.ヒーローと「町」、ヒーローと「生活」
ここまで「町」というキーワードから3つの特撮作品を見てきた。しかし本当に重要なのは、この3つが「町」を舞台にしていることというよりもむしろ、「生活」を描いているということだ。「町」は言わば、「生活」を描くための舞台装置だ。
特撮作品の――もっと言えば、物語の主題になるのは「事件」だ。一般的な意味の「事件」はもちろん、恋愛やあるいは戦争も、日常とは異なるという意味での「事件」である。
しかし、人間の人生にあるのは「事件」だけではない。むしろ大半を占めているのは「生活」だ。そして人生の大半を占めているからこそ、「生活」は取るに足らないとすら思える。それゆえに、「生活」は人間の歴史においてあまり物語の主題にはならなかった。とりわけ特撮作品は基本的に「事件」を描くものだ(「戦い」も立派な「事件」だ)。だからこそ、そこで「生活」が描かれるとき、逆説的に私たちが「生活」に求めているものが見えてくる。「事件」などなくても楽しめるような――「生活」そのものが「事件」のような日々を、私たちは求めているのではないか。
この視点に立つとき、「町」を舞台にしていなくとも「生活」を描いた特撮作品はまだまだ挙げられる。私も以前記事を書いた『星雲仮面マシンマン』や『ポワトリン』も属する東映不思議コメディシリーズ、その元祖とも言える『がんばれ!!ロボコン』、近年で特筆に値すべき作品としては『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』……枚挙に暇がない。
私たちが憧れる愉快な「生活」を手に入れる方法――それは、自分の生活圏の中で他人との関係性を広げていくことなのではないか。『ドンブラザーズ』のテーマが「人の縁」だったことを思い出してもよいだろう。生活の中で、自分以外のものに目を向け、そしてそれらに自分を開いていくこと。それは案外難しいことではないのかもしれない。彼らもまた、同じところに暮らし、「生活」するものたちなのだから。
私たちは自分の生活圏の中で他人と関わることで、それを如何様にも広げていくことができる。そして自分の生活圏を豊かにしていくことで、私たちは自分の「生活」を愉快に、豊かにすることができるのだろう。「町」に生き、「生活」の中にいるヒーローたちは、そんなことを私たちに教えてくれている。
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