「想像力」の想像力~『ウルトラマンアーク』の多面性~
※この記事は、調布FM「本音で行こうぜ!!」2024年9月14日放送回でのトーク内容から発展させたものになります。この記事単体でもお楽しみ頂けますが、ぜひそちらも合わせてお聞きください。
1.『ウルトラマンアーク』の「想像力」
「想像力を解き放て!」
窮地に陥ったとき、ユウマの意識にウルトラマンアークはこう語りかける。逆転の途はある、自分のイメージでそれを掴み取れ!と––––
『ウルトラマンアーク』は「想像力」をテーマに掲げた作品だ。
アークの姿や変身アイテム、武器などは、幼き日のユウマが「さいきょうのヒーロー」として夢想したものだった。
想像力––––未知なるものを夢見る力––––それがウルトラマンアークの力の源だ。未知なる英雄の姿を形作り、危機においても逆転の途を見つけ出す力。
しかし、『ウルトラマンアーク』の描く「想像力」とは、それだけではない。正に「想像力」という言葉の多面性に対応するように、様々な場面で『アーク』の登場人物たちは想像力を働かせている。
この記事では、そんな『ウルトラマンアーク』の「想像力」について、現時点での考察を加えていく。そしてそれは、「想像力」という言葉の広がりを確認する作業でもある。
2.科学的想像力~SFとしての『アーク』~
第1話、物語の鍵を握るモノホーン内部に生体反応があることを知らされたとき、ユウマはまず「ネズミやリスが巣を作ったとか?」と口にする。また第3話、異常気象の調査にやってきたリンは、「やっぱり怪獣絡み?」と訪ねる通報者に「それを解明するのが私たちの仕事です」と答える。そして同行していたユウマが、該当する怪獣データがないことから単なる自然現象と判断しようとすると、リンは怪獣も自然現象の1つであり、異常気象が怪獣出現の前触れとして付き物だと諭す。
ここで注目すべきは、主人公のユウマやSKIPの面々が、異常事態において真っ先に怪獣の存在を前提としていない点だ。そもそも怪獣の存在を前提とするウルトラマンシリーズにおいて、異常事態は怪獣と結びつけて考えられることが多かったし、怪獣攻撃隊が話の中心となる作品が多い以上、登場人物たちが怪獣の可能性を真っ先に検討するのはある種当然でもある。
しかし『アーク』では、メインで登場する組織はSKIP:怪獣防災科学調査所だ。彼らは怪獣災害の発生や被害の甚大化を防ぐため、科学調査の観点から事件にアプローチする。つまり彼らにとって、科学的に考え得る全ての可能性は––––それが怪獣に関係するにせよしないにせよ––––等しく検討すべきものであるのだ。だから彼らは様々な可能性を口にし、議論して検討し、必要であれば調査・検証する。
その姿勢の根幹に関わるテーマを描いたのが、第5話「峠の海」だ。
この回ではSKIP所長・伴ヒロシの恩師・牧野博士が登場する。「想像力は翼だ!」と語り、「恐竜博士」の異名を取る牧野は、新種の化石の調査にやってきた。しかしその場所が一晩で湖になる現象が発生、SKIPは調査を開始する。原因はわからないが、怪獣の存在は確認できなかったことから、調査を打ち切ろうとするSKIP所員たちを、納得きる答えを見つけるまで調査しようと鼓舞するヒロシ。
そんなヒロシを見て、牧野はかつての後悔を語る。かつてヒロシが新種の化石を発見し、そこから推定されるとても巨大な生物の存在を、牧野は信じなかった。しかしその数年後、実際に怪獣たちが現われた。牧野は過去の経験や知識だけで判断し、若者の意見を退けてしまった自分の姿勢に後悔の念を抱く。それがきっかけで、牧野はヒロシが発見した化石の調査を今も続けていた。
そしてヒロシもまた、そのとき納得いくまで調査しなかったことを悔いていた。だからこそ今では、何でもとことんやってやろうと思っていると、牧野に語る。
怪獣という存在を経験していない世界においては、ヒロシの発見した化石から推定されるような巨大な生物は、荒唐無稽な想像と見られてしまうだろう。しかし『アーク』の世界では、現実に怪獣が姿を現わした。そしてそれと同じように、私たちの現実の世界でも、ときに荒唐無稽な仮説が科学を発展させるという。
理論物理学者・橋本幸士氏はエッセイ「SFと物理」(『物理学者のすごい日常』集英社インターナショナル新書,2024に所収)で、自身とSFの数奇な運命を語っている。橋本氏はかつて、SF作品は非科学的なところが目についてしまうから苦手だったという。しかし氏は、自身が提唱した、宇宙がある種の神経回路網であるという仮説を「まさにSFのようである」と評する。そしてそのきっかけとなった、高名な理論物理学者・南部陽一郎氏の研究セミナーのエピソードを語っている。
南部氏の最後の研究セミナーで、南部氏はある突飛な仮説を導入し、そしてそこから太陽系の重要な性質を語ってみせた。橋本氏は南部氏に、なぜその仮説を導入したのかと質問する。
目の前の現実に対して、「実はこうだったら面白いな」という突飛な仮説を導入することで、それまで想像もつかなかった事実が見えてくる。そしてそれこそが科学の進歩に繋がるのだという実感を、橋本氏は語っている。ときに硬直した常識の裏側にあるものを想像する力、それを持った突飛な仮説が、人類の新たな知恵を生み出す原動力となる。
「峠の海」のラストは、ヒロシと牧野が、事件の中で見えた怪獣の身体や性質について、楽しげに尽きぬ議論を交わす場面で終わる––––「想像力は俺たちの翼だからな!」と語りながら。目の前の現実について、様々な可能性を––––それが荒唐無稽であるかどうかにかかわらず、思いついたアイデアを議論し、答えを探す。そんな科学の根本にある想像力を描ききった「峠の海」は、優れてSF的な作品と言えるし、『アーク』のSF的姿勢の結実と言ってもよいだろう。
3.社会への想像力~他者を想う力~
そんな「峠の海」に続く第6話「あけぼの荘へようこそ」は、正に直球な形で「想像力」のある側面を––––他者の背後にある事情まで考えを巡らせる力をテーマにしたエピソードだった。
怪獣出現の兆候調査に赴いたSKIPの面々は、山中の旅館「あけぼの荘」である番頭さんと出会う。不思議な雰囲気を持った番頭さんを、シュウは宇宙人ではないかと疑い、そして事実彼がクロコ星人であることを突き止める。かつて何人もの同僚が宇宙人に騙され、命を落としてきたシュウはクロコ星人にも厳格に対処する。しかしクロコ星人は、茸狩りの途中で仲間に見捨てられ、人間の姿であけぼの荘の女将さんに拾われたといい、粗大ゴミや茸で作った宇宙船でもうすぐ母星に帰れるという。疑いを解かないシュウに反発するユウマ。さらにクロコ星人は女将さんを守るため、拾われてからずっと騙し続けたと語るが、女将さんは実は全てを知っていたことを––––宇宙人を庇うと罪に問われることを知っていて尚––––打ち明ける。
怪獣シャゴンがあけぼの荘を襲撃し、クロコ星人を母星に帰すために女将さんは身を呈して庇う。ユウマはウルトラマンアークに変身するが、複数体出現したシャゴンに苦戦を強いられる。しかしクロコ星人が母星に帰るためのはずの宇宙船でシャゴンのうち一匹に突撃した隙を突き、シャゴンの群れを撃退する。
何とか生還したクロコ星人は、防衛隊施設に移管されることになった。クロコ星人の優しさを見抜いたユウマに感謝を伝え、「想像力の差か」と自身の未熟さを省みるシュウ。クロコ星人を守るように、シュウは防衛隊の施設に共に向かっていく。
「人の身になって考え、胸の内を思いやる。そのために想像力は不可欠です」––––そして自分にはそれが欠けていたと、シュウは自身の反省を正直にユウマに打ち明ける。
人は決して他人になることはできない。だからこそ、私たちは想像することで他人の立場に立ち、その胸の内を知ろうとする。しかし時に、人はその想像力を失ってしまう––––例えばシュウのように、人が人として扱われず、命を奪われることすら不思議ではない環境にいるときに。そしてそのとき、弱き者を疑い、銃口を向けるような過ちも、人は犯してしまう。
あるいはシリーズ屈指の変化球「インターネット・カネゴン」は、日常においてすら、私たちが周囲への想像力を欠いていることを、原典へのリスペクトを込めながら、エスプリを効かせて描いてみせた。
星元市で流通している電子通貨「ホシペイ」。市民の日常の消費活動の中心となっているようだが、最近流通量が減少し、街全体の経済活動に影響が現われていた。というのも、ホシペイアプリ内の動画配信機能で人気の完全自立型AI・インターネット・カネゴンへのユーザーの投げ銭が消費されず、流通が滞っていたのだ。カネゴンはもともと「人間の欲望」を解析するために作られたAIで、視聴者の観たい行動を忠実に実行するため、高い人気を誇っていたのだ。しかしカネゴンは消費という概念を持たず、従ってカネゴンに投げられたホシペイは無限に貯蓄され続ける。SKIPはカネゴンに「消費」という概念を教えるべく、学習データを食べさせる作戦を立てる。予想外のカネゴンの強さにアークとデータ化したユピーすら苦戦させるカネゴンだったが、最終的にアークの機転で学習データを食べ、「消費」の概念を獲得するのだった。
「金は天下の回りもの」という言葉があるように、何かの対価として支払われたお金は、また別の何かの対価として支払われていく。そうして留まることなく循環していく。その無限の循環の中で、私たちは––––少なくとも貨幣が根本にある社会の人間は––––生きている。しかしもし、お金を貯めることしか知らない存在がいたらどうなるだろうか?そんな仮想のもとに生まれたのがインターネット・カネゴンだ。カネゴンにはお金を「使う」という思考が存在しない。一方的に他のユーザーからお金を「もらう」関係しかそこには存在しないのだ。
カネゴンの開発者・銅金カナオは、カネゴンの特性の意味が理解できなかったユウマとシュウに、このように説く。
貨幣というシステムは、多くの問題点を孕みつつ、多くの社会で人間どうしの共生の仲立ちとして機能してきた。しかし問題は、貨幣というシステムはその抽象性ゆえに、「自分は他者と共生している」という事実そのものを忘却させてしまう––––ユウマやシュウが、カネゴンの問題点に気づけなかったように。
社会に生きている私たちは、必ず他人とともに––––どのような形であれ––––生きている。しかし実のところ、私たちは他人に対する想像力を失っているのではないか。他人がどのようにして生きていて、それが私の人生とどのように絡み合っているのか。私たちは、そのように絡み合う生をどのようにして維持しているのか。そのことについての関心や想像力を、私たちは失っているのかもしれない。
そして『アーク』は、そのようにして失われた想像力を––––そしてそのために見えなくなっているものを、また別のエピソードで突きつけてくるのだ。
4.逆照射する想像力~照らし合えばこそ~
第9話「さよなら、リン」は、SKIPのメンバー・夏目リンが自身の青春の憧れとの切ない別れを経験するエピソードだ。
夏目リンの古い知り合いでSKIP本部の怪獣分析班・山神サトルに、怪獣の細胞を富裕層の裏ビジネスに横流ししている容疑がかけられた。共同作戦の傍ら、山神の疑惑を調査することになるリン。子どもが産まれたばかりの山神の姿を眩しく見つめながら、懐かしい思い出を回想するリン。しかし横流しの噂の話題になったときに山神が嘘を吐くときの癖をしていたことから、リンは山神が犯人であると確信する。
リンは悲しみに暮れながら、山上に容疑のこと、そして山神の力になりたいという想いを告げる。そして横流しの協力を依頼してきた山神を囮捜査で炙り出す。逃げる山神に何とか追いつくリン。未来を生きる子どもたちのために、怪獣の能力を利用した技術を開発したい。そのために必要な資金を得るためだったと語る山神。今現実に怪獣の被害が出ていることをリンが反論すると、山神は「みんな今、目の前にあることしか見ていない」とさらに言い返す。
いつしか夕方から夜に移り、「山神と一緒にいる時間が大好きだった」と告白するリン。「忘れたよ、そんな昔のこと」と切り捨てて去る山神だったが、去り際に嘘を吐く癖をしていたのだった。
山神の動機は、怪獣の能力を活用した技術を開発する資金を得るためだった。未来に生きる子どもたち––––例えば自分の子どものような––––のために、よい未来をつくる。そのためであれば、多少の犠牲はやむを得ないと言うのが、山神の思想だ。しかし怪獣の細胞はまだ未知のことも多く、流出した場合に周辺の環境にどんな影響を及ぼすかもわからない。莫大な被害をもたらす可能性だってある。だからこそ厳重な警戒態勢が敷かれるわけだ。
しかし、そうした「現在への想像力」によって、「未来の可能性」が潰されていると、山神は痛烈に批判する。
山神の思想は、言わば現代社会––––様々なリスクに怯え、その管理に汲々とする社会––––への痛烈な批判だ。そしてそれゆえに、現代の想像力が見落としているものを、逆照射するものでもある。人間にとって未知の力をもたらしてくれる可能性を、そこに向ける想像力を犠牲にして、現在の生を成り立たせている。そうした事実を、山神の思想は浮き彫りにする。
一方で、山神の思想は、その「今」を見落としている。今、怪獣災害が発生すれば、最も辛い思いをするのは、いわゆる災害弱者––––自力避難が困難なため、災害時に被害を受けやすい人々––––だろう。そしてその中には、山神が守ろうとした子どもたちも当然含まれる。山神の思想は、自分の言う「多少の犠牲」のせいで、自分が守ろうとした存在を犠牲にしてしまうかもしれないのだ。今、その命が失われれば、彼らに素晴らしい未来が訪れることはなくなってしまう。
こうした観点に立つと、2つの想像力が互いを––––互いの見落としている部分を照らし合っているということが見えてくる。そしてそれは、このエピソードに限った話ではない。例えば「あけぼの荘へようこそ」でシュウが宇宙人の善性への想像力を失っていたように、実はユウマたちも、シュウとは反対に狡猾な宇宙人への想像力を持っていない。弱者のふりをした宇宙人が、実は地球侵略を企んでいた––––そんなエピソードも、ウルトラマンシリーズには存在している。
この2つの想像力は、互いの見落としている部分を照らしているという点で、互いに逆照射し合っている。しかしそれゆえに、その2つを1つに束ねることは容易ではない。
「さよなら、リン」では、リンと山神は互いに相容れることはなかった。だから互いに痛みを背負ってでも「さよなら」するしかなかった。それをどう乗り越えるか、それは単にそのドラマの中で描かれればよい/描かれるべきものではなく、現実に生きる私たちの想像力が答えを見つけていくべき問題だ。
5.「想像力」の想像力
このように、「想像力」というテーマを軸にしてみると、『ウルトラマンアーク』は実に多面的なアプローチで「想像力」を描いていることがわかる。そしてそれは、冒頭にも述べたように、「想像力」という言葉そのものの広がりでもある。そのような多面性を持った作品としてこれまで『ウルトラマンアーク』は展開され、そしてこれからも続いていくのだろう。
しかし一方で、全ての「想像力」に共通するところもある。それは、全ての「想像力」が「見えていないものを見ようとする力」であるということだ。まだ見ぬ科学の原理も、他者の気持ちも、あるいはそこで見落とされているものも、見えていないものの存在に気づき、見ようとする力を『アーク』は描いている。そしてそれは、ウルトラマンシリーズというだけでなく、フィクションそのものに––––架空の物語を生み出す力に、もともと備わっている力なのかもしれない。だからこそ私たちは、架空の物語に触れ、私たちに見えていないものを見ようとするのかもしれない。