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自我の行く先~『シン・仮面ライダー』の他者と信頼~


1.奇妙な確信

「これ、いったいどうしたらいいんだ」――正直なところ、初めて『シン・仮面ライダー』を観終わった直後、私が抱いた感想はこんなものだった。この日を首を長くして待っていた私は、もちろん世界最速公開の3月17日の夜に劇場に駆け込み、様々な想像を膨らませながら席に着いた。そして、そんな私が目撃することとなったのは、想像とは全く異なる物語だった。

 つまらなかった、というわけではない。もちろん面白い、はずなのだ。ラストシーンの美しさにしっかり感動しながら、しかし私は、何か大切なものを取りこぼしているような気分のまま劇場を出た。そして大いに悩み始めた。数日後には、お世話になっているラジオ番組「本音で行こうぜ!!」の収録が決まっている。つまりそこまでには、この『シン・仮面ライダー』についてそれなりにトークを用意しなければならない。しかし、いまいち自分の中でこの作品についての答えが見つからない。もう一回観ないとダメだな――そんなことを思いながら、その日は眠りに就いた。

 実のところ、そんな人は私以外にも多かったのではないだろうか。「よくわからない」「感情移入できない」――そんな感想が、特に公開直後のネット上には多く見られたように思う。何ならそれがゆえに批判する声も、決して少なくはなかったはずだ。
 もちろん、「よくわからない」という感想を否定しきるつもりもない。特に本作は、庵野秀明監督の代表作である「エヴァンゲリオン」シリーズのような(というよりも、かなりな部分同一の)難解な主題の作品である。「エヴァンゲリオン」はその謎、およびテーマの難解さゆえにむしろ人気を博した側面があるが、おそらく『シン・仮面ライダー』にそれを期待した人は少なかったのだろう。事実、公開まで私もそのような作品だとは露ほども思わずにいた。

 だが私には、この『シン・仮面ライダー』については、「よくわからない」と断じて思考を止めてしまうことがもったいないように思えたのだ。そこには何か、重要なものが埋まっているという、奇妙な確信が私にはあった。池松壮亮演じる本郷猛が静かに身体を震わせる様に、安らかな表情で、遺言とともに消えていった緑川ルリ子に、そして本郷の想いとともに駆けてゆく一文字隼人の姿に、私はそんな確信を抱かずにはいられなかったのだ。
そして幸運にも、2回目を観るより早く、私はその答えに辿り着くことができた。

 ここでの議論の大元はもちろん「本音で行こうぜ!!」で話したことであるし、おそらくYouTubeや各種ポッドキャストにアーカイブが残っているであろうから、そちらも参照してもらいたい。都合4回にわたって語らせてもらったので、その中でも本当にたくさんのことを話している。

 しかし本稿では、そちらで語り足りなかったこと、そして放送以降に新たに生まれた考えを補足する意味も含めて、改めて『シン・仮面ライダー』について述べておきたい。
 そして今回、Blu-ray Boxの発売を機に、以前特撮評議会の会誌に書いた原稿を元に、さらに加筆・修正して、『シン・仮面ライダー』という作品について、今一度考えておこうと思う。

2.継承する魂

 この『シン・仮面ライダー』をあえて一言で表すなら、「継承」の映画、という言葉に尽きるだろう。
 この「継承」という言葉にはいくつもの要素が重なっている。もちろん、この映画が『仮面ライダー』(71年)のリメイクであるという点もあるが、ここで私が言っておきたいのは、この物語自体が「継承」の連鎖の物語であるということだ。

 まずは、本郷猛にバッタオーグとしての身体と、SHOCKERと戦う使命、プラーナの未来を託した緑川弘。同じように、兄たる緑川イチロー/チョウオーグの所業を止めるための策と、兄を止めたいという願いを本郷に託した緑川ルリ子。本作における「仮面ライダー」とは、本郷猛がそれらを継承した末に生まれた存在だ。
 そして本郷猛自身もまた、自身の死を覚悟しながら、その後のSHOCKERとの戦いを一文字隼人/仮面ライダー第2号に託す。本郷の死後、一度はマフラーを捨て、「仮面ライダー」をやめようとした彼は、その願いと、本郷の思いの遺ったマスクを託されることで、「仮面ライダー」として戦い続ける決意を固める。本作における「仮面ライダー」とは「継承される存在」であり、また「仮面ライダー」のヒロイズムはそこに集約される。緑川親子から本郷猛へ、そして本郷猛から一文字隼人へと継承される願いの象徴、それが「仮面ライダー」なのだ。

 一方、SHOCKERの怪人=オーグメントたちは、彼ら自身●●の幸福にのみ固執する、閉じた存在だ。
 例えばコウモリオーグは、疫病が流行することによって社会の不正が暴かれ、人類が幸福に至るための要素が示されると語り、ヴィルースの研究・開発に没頭した。ハチオーグは、環境に負荷を与えない奴隷システムこそが社会に幸福をもたらし、支配する自身も、支配される奴隷たちも幸せであると豪語した。そしてチョウオーグ/緑川イチローは、人間のプラーナ(≒魂)のみをハビタット世界という異空間に統一することで、人類を「救済」しようとした。

 彼らは嘯く。自身の描く幸福のビジョンこそ、人類を幸福に導くのだと。しかしそこにあるのは、他者の生命や自由を奪い、自身の望む形へと世界中の他者を変えようとする意思だけだ。そこには他者の意思の介在を許す余地は残されていない。

 この点が、ライダー達とSHOCKERのオーグメントを分ける最大の違いだ。他者から託された願いのために戦うライダーと、自己の幸福のためだけに戦うオーグメント。他者に開かれたライダーと、自己に閉じたオーグメントの戦いが、『シン・仮面ライダー』という物語の構図である。

3.「よくわからない」他者

 物語冒頭、緑川博士は本郷に「SHOCKERのオーグメントたちは、君と同等の力を持ってその力を個人のエゴに使っている。本郷くんは、人のために、多くの力なき人々のために使ってほしい」と伝える。そしてクモオーグによって殺されてしまう末期に、本郷に願いを託す――「ルリ子を頼む」と。

 クモオーグを倒した後、本郷はルリ子にそのことを伝え、「僕の身体は、先生のルリ子さんへの愛情の産物だと思う」と語る。彼はその身体が、その力が、緑川博士が誰かを――そして誰よりも、一人娘のルリ子を――想うがゆえに託されたものであることを理解しているのだ。

 そして物語終盤、K.K.オーグの凶刃に倒れたルリ子の意志を継ぎ、本郷はイチローを止めに向かう。ルリ子の復讐のためではなく、ただ彼女の願いを果たすために、である。イチローとの戦いの最中、本郷は叫ぶ――「僕には他人がよくわからない。だからわかるように自分を変えたい。世界を変える気なんかない!」

 物語冒頭でルリ子によって語られるように、本郷は他人とのコミュニケーションが得意ではない。話し方が平坦で、感情が読み取れないようにも思えてしまう。ともすれば、本郷の方が「よくわからない」人間だろう。

 だが本郷は、決してそれを良しとはしていない。彼は他人の心を――特に、その人の抱える絶望や願いを――感じ取り、手を差し伸べようとする。だからこそ、彼は緑川博士や、ルリ子の託した願いを叶えるべく、自らが嫌悪する暴力を振るう。そして、その結果自らが命を奪った相手にも、黙祷を捧げる。
 そこにあるのは、自らを開こうとする意思――そこにある他者の思いを尊重しようとする意思だ。他者に向けて自分の心を開き、他者を――「よくわからない」存在を受け入れようとする意思だ。

 先にも述べたように、オーグメントたちは多くを見ているようで、実は自分しか見ていない。例えば緑川イチローを見れば、本郷との違いがはっきりわかるだろう。

 イチローも本郷も、他者の理不尽な暴力によって、大切な人を奪われた。そしてイチローは、そのことに怯え、ハビタット世界という、誰もが自分の心を隠すことのない世界を構築しようとした。他者という「よくわからない」存在を「わかる」存在に、世界ごと強制的に変えようとしたのだ。

 そもそも他者が「よくわからない」存在になるのは、人間どうしが互いの自我で隔てられているからだ。他者も、そして自分も、自我という壁に隔たれ、互いの全てを知ることはできない。だから、時として他者は「よくわからない」存在になる。だからこそ、本郷猛は他者に苦手意識を持ち、SHOCKERのオーグメントたちは自分の幸福に閉じこもり、無理矢理に他者を従わせようとした。

 しかし、そうして他者から距離を取り、閉じこもる自我こそ、他者との関係性の中で生まれてくるものなのだ。

4.他者と自我、裏切りと信頼

 真木悠介は、『自我の起源ー愛とエゴイズムの動物社会学』において、社会生物学、動物行動学、進化生物学等の領域の知見から、人間の、生物の自我がなぜ生まれたのかを探っている。まず、動物の中でも社会的なものたちが、同種の他の個体たちとの関係の中で、それら他個体たちの行動をシミュレーションするところから「意識」が生まれてきたという。そのシミュレーションが発展し続け、シミュレーションそのものをシミュレーションの中に組み込む必要が出てきたときに、生物は「自己」を知ることになる(真木 1993=2008:118-121)。
 つまり、他の個体の行動をシミュレーションすることが生存のために必要となり、それを繰り返していく中で、シミュレーションする自分もまた、他者と同じような存在だという認識が生まれてくるのだ。つまり、他者という存在があって、それに照らし合わせることで、生物は「自己」という存在を知ることになる。自己とは、他者がいることで初めて生まれる認識なのだ。

 言い換えれば、自我とは、他者の「よくわからなさ」の産物なのだ。「よくわからない」他者の行動を予測し、その他者も含めた世界の中で生きていくために、動物は自らの知性を進化させてきた。その結果、自らもまた他者と同様に世界の一部だという認識が生まれる。そこから自我は生まれるというのだ。他者がいなければ、他者の「よくわからなさ」がなければ、翻って自我も存在しないのである。

 しかし自我とは、「よくわからなさ」に背を向け、閉じこもるためのものではない。「よくわからなさ」に付き合い、その中で●●●●生きていくためのものだ。生物がそうして進化してきたように。

「人は人を信じることで生き延びてきた」
「他人を信じることで裏切られてもきた」

『シン・仮面ライダー』より、緑川ルリ子と緑川イチローの会話

 この会話が端的に語るように、他者の中で生きていくということは、信頼と裏切りの繰り返しだ。他者に裏切られることも、残念ながらよくある話だ。他者が自分を害することを心の内で考えていたとしても、私たちはそれを完全に把握することはできない。

 しかし、以前『ウルトラマンブレーザー』の記事で触れたジンメルの議論を思い起こせば、私たちは他人が「よくわからない」からこそ信頼できる。そして、本来的に「よくわからない」他者を信頼し、自分の大切なものを託すからこそ、その信頼は尊いものとなる。そこに私たちは、喜びや、幸せを感じることもできる。

 そして、他者が「よくわからない」からこそ、わかるように自分を変えたいと願う本郷猛だからこそ、他者の信頼を受け取り、託されることで「仮面ライダー」として戦うことができる。

「あなたを信じて、あなたに託す。必ず兄を止めて。仮面ライダー、本郷猛さん」
「あなたの背中、とても心地がよかった。あなたにプラーナを預けた感じがして、とても嬉しかった。『幸せ』って何か、私にもわかった気がする」

『シン・仮面ライダー』より、緑川ルリ子の遺言

「緑川ルリ子の復讐か」
「いえ、ルリ子さんの遺志を継ぎ、望みを叶えたいだけです。復讐はしません」

『シン・仮面ライダー』より、政府の男と本郷猛の会話

 一文字隼人もまた、かつては他者に利用されることを嫌い、自分の「好き」に忠実に生きようとしていた。しかしルリ子が自らの命と引き換える形で、自分をSHOCKERの洗脳から解き放ってくれたことに恩義を感じ、本郷と共に緑川イチローの野望を阻止する。
 その戦いで本郷が亡くなった後、一文字は一度は「仮面ライダー」を辞めようとするが、政府の男から本郷の遺志を聞かされ、再び「仮面ライダー」となる決意をする。

「本郷猛から、マスクの回収と修理を頼まれていた。自分が消えた後も、君に仮面ライダーを名乗り続けてほしいそうだ」
「彼の遺志を引き継がないか」

『シン・仮面ライダー』より、政府の男の台詞

 本郷の遺志を託された一文字は、新しいスーツとサイクロン号、そして本郷のプラーナが宿ったマスクと共に、再び「仮面ライダー」となって、SHOCKERとの戦いに身を投じていく。

「俺たちはもう一人じゃない。いつも二人だ。二人でSHOCKERと戦おう」

『シン・仮面ライダー』より、一文字隼人の台詞

5.自我の行く先―乗り越えるために

 嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実の避難場所にしていないとこなんですよ。〔中略〕嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さん本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。

庵野秀明,「庵野監督カントクくんを語る」『監督不行届』,p.142

 自身のパートナー・安野モヨコが自分たちの夫婦生活を描いたマンガ『監督不行届』の単行本のインタビューで、庵野秀明監督はこのように述べている。そこで語られているのは、読者に現実を生きていく――他者のなかを生きていくエネルギーを与える作品を描く安野モヨコへの、純粋な憧れである。

 このインタビューは約20年前にされたものであるから、この当時から庵野監督の心境が変化しているかどうかはわからない。しかし、『シン・仮面ライダー』から私が感じたのは、正にそのようなエネルギーだ。

 SHOCKERの絶望の根は、確かに私たちに通じている。永遠にわかり合えることのない他者と共に生きていかなければならない――他者に傷つけられる度、私たちはこの世の不条理を嘆く。しかし、そうではないのだと、他者の切実な想いにふれ、それを受け取ろうとすることで、私たちは他者とわかり合い、通じ合うことができる。そして、他者に裏切られたことがあるからこそ、逆説的に、そう信じることが――人間の心の奥深くに望みを託すことができる。『シン・仮面ライダー』の本郷猛とは、そういう人物だった。

「絶望はお前だけではない。多くの人間が同じように経験している。だがぞの乗り越え方が皆違う。本郷は本郷の乗り越え方をすればいい」

『シン・仮面ライダー』より、政府の男の台詞

 そして、彼の生き様を通じて、彼の切実な想いにふれることで、私たちもまた、そのことを信じることができる。人間の奥深く、その切実な部分には、まだ信じるに足るものがある。それを思い出すことで、私たちは、この現実を――「よくわからない」他者のなかを生き抜かなければならない世界を生きていく力を得ることができる。

 そして、彼らを「ヒーロー」と呼び、彼らの勇姿に力を与えられる私たちにもまた、こう問い返すことができるだろう――私たちは、他者を「信頼」できているだろうか?他者から「信頼」されるような人間でいられているだろうか?


参考文献

真木悠介,1993=2008『自我の起源─愛とエゴイズムの動物社会学』岩波書店.
庵野秀明,2005「庵野監督カントクくんを語る」『監督不行届』祥伝社:139-143.

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