第13回: 建築の “現場” 事情 (Dec.2018)
2010年に初めてインドを訪れた際、主要都市の建築現場を回る機会を得た。既に30~40階建て高層マンション数十棟を擁する大規模タウンシップの建設が各地で始まっていた。高層まで不揃いな木の棒を縦横無尽に組み上げた足場、セメントを盛った金盥を頭に乗せ裸足で歩くサリー姿の女性の行列、といったいかにもインドらしい光景も印象的だったが、想定を大きく超えた現実も目の当たりにした。
ある現場では石工がレンガで壁を積んでいた。その脇に身の丈ほどの棒を持ち姿勢良く立っている者がいる。暫く観察していてもじっと立ったまま、何をするわけでもなさそうだ。案内役の現場監督に聞けば、彼は “測る係” なのだと言う。“インドは分業制” という文字面の理解を遥かに上回る実態、レンガを積む者、モノサシを当てて数字を読む者、図面と照らして修正の要否を指示する者、周囲を掃除する者、といったレベルの分業がそこにはあった。
コンクリートの床・天井と柱がむき出しの30階近い現場では、父ちゃんがレンガで外壁を積み、母ちゃんが傍らで屑を拾い、上半身のみ薄汚れたシャツを着た幼い子どもたちが走り回っていた。安全柵も防護ネットもない吹きっ晒しで、青い空と遠くの山がよく見える。一歩余分に踏み出せば地面まで真っ逆さま、の環境だが、脇に目をやればブルーシートで囲われた一画に洗濯物が干してある。そこは彼らの仕事場、兼、住居だった。
各地の建築ラッシュに応えるべくデベロッパーは北部の農村などにバスを走らせ出稼ぎ労働者を “仕入れて” くる。構造物が与えられれば特例待遇、多くはトタンやブルーシート、ヤシの葉で作った三角屋根の下を住処とする。現場にコンクリートの躯体さえできれば、田舎から家族を呼べる家にもなる。作業が進んで棟や階が変わっても一瞬の引っ越し作業で、いつでもそこが通勤時間ゼロ秒の我が家だ。
日本の現場職人は、誰もが数字と図面を読み、尺を当て道具を使って精度を出し、身の回りの清掃・整頓をする。“多能工化” の議論は、更に営業・マーケティングや事務処理といった畑違いの役割を加えようとするもので、インドの実態とはほど遠い話。日本の職人は技能で言えば数人前、効率まで加味すれば優に十人分を超えるインド人作業者の業務を既にこなしている。
建築事業者・建材メーカーには、インドにとって革新的な日本の技術、WOW Valueを持ち込むことが “インドでシェアを獲る” に繋がる、と案内している。現場の手間を軽減する部材、一度施工すれば数十年も性能が維持される工法、ユーザーに新鮮な経験を与えるデザイン等、日本の住環境は生活の知恵が詰まったWOW Valueに溢れている。
ところが一方、インドの現場はこの通りだから、WOW Valueの現地化は避けて通れない。施工の精度や仕上げの美しさを問うまでもなく、漏水・漏電や施工ミス、指示して補修をさせれば返って周囲を壊してしまう “あちらが立てば、こちらが立たず” はお約束だ。
日本の “非熟練工” は習熟途上にある訓練生を指すことが多いが、当地は全く未経験の季節労働者に過ぎない点も決定的に違う。仕事の内容には誇りも拘りもなく “いかに楽に稼ぐか” が専らの関心である彼らに対して、顧客・ユーザーにとってのWOW Valueは響かない。むしろ彼らがいかに楽に精度高く作業できるか、“Wow Practice” を築くべきだが、拠って立つ前提を大きく異にする日印の現場環境、いかに器用な日本人でも想像力だけでこれを理解するのは難しいようだ。
以前のコラムで運動会とSports Dayは “同音異義語” だと述べた。現場作業者とWorker・Labourもその典型例だろう。基礎教育機会の欠如、厳然と残る身分制度、労働に対する意識の違い等、埋まらない溝を論じても始まらない。建築現場は日本企業・日本人がJUGAADを学び体現するよい実験場でもある。
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