自粛なき世界線で
"""今月は夏休みらしいことをたくさんした。
まず、水晶浜の海へ行った。研究室にこもりっぱなしだったので、久々の太陽が体をちりちりと焼き付け、痛気持ちいいとはこのことを言うのだなと思った。
次に、自転車で琵琶湖一周をした。いわゆる「ビワイチ」というやつだ。もともと自転車で長旅をすることは好きだったので、やろうやろうと思ってはいたのだったが、中々腰が上がらず、最後の学生ということで、おもいっきって決行することにした。こちらも真夏の日光がぎらぎらと照り付けて、かなりきつかったが、湖からの風は最高だった。
そしてまた別の日には、キャンプをした。キャンプらしくバーベキューをしたり、カレーを作ったり、川沿いで水浴びをしたり、花火をしたりした。童心に帰って遊ぶことは大切だなと感じた。
直近ではフェスに行った。爆音の音楽を聴いて暴れるのはやはり快感だった。"""
こんな日記を書きたい1か月だった。もちろん、すべて筆者の脳内の妄想である。妄想するくらいは自由である。人は様々に想像をめぐらすことのできる生き物なので、現代のように発展したきたのだと思う。
だが、その想像力や妄想力が最近落ちてきた気がする。
いくつか理由は考えられるのだが、一つには、自分自身の持つ知識量が増えてきたことにあるだろう。妄想や想像は、全く未知のことや知りえないことに対して、あれやこれやと自分の知識のない部分に思いをめぐらすことにあると私は思うので、知識が増えてしまえばその分、そういった脳の領域は必然的に減るので、妄想をすることが減る。
ほかに考えられる理由としては、簡単に知識が手に入るようになったということもある。先ほど敢えて、「自分自身の持つ」みたいな回りくどい表現をした。知識は自分で持っておくものだろうと思われがちだが、現代はその必要がなくなってきている。皆さんの中にもいるかもしれないが、第二の脳を持っている人がいるだろう。と、こんな仰々しく書く必要はなかったかもしれないが、それはスマホである。いつでもどこでも肌身離さず持つことができ、どんなときもわからないことがあれば、調べることができるし、急なスケジュールや覚えておかなければいけないことなどは、サクッとメモに残すことができる、忙しい現代には無くてはならない記憶媒体である。
この便利なアイテムが、人々に妄想の隙を与えなくなった。想像をする前に全て調べてしまえば、知識は得られるようになった時代に妄想の必要性はなくなった。それどころか知識から乖離している発想は異端とされて淘汰される。妄想は逸脱すればするほどに優れているはずだったのに。
この記事を読んでくれた読者の皆さんには、ぜひ妄想していたあの頃を思い出して、また妄想にふける日々を取り戻してほしい。
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