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気になる人が気にすればいい

 こだわりを持つということは素晴らしい。いや、むしろ万人に持っていてほしいとさえ思う。服や時計などのファッションのこだわりがわかりやすい。このブランドがいい、このブランドのここがいい、そういったお気に入りを持っていることは人生が豊かな象徴のようにも感じてやまない。音楽や絵画など芸術的なこだわりを持っているような人も教養高く見えたり、文化的造詣が深く見えたりするので非常に魅力的に感じる。

 このこだわりというものはしばしば細かいと形容されることがある。例えば物のディスプレイに関して、寸分たがわぬほどそろっているほうが美しいと感じている人は、整理整頓にこだわる。理路整然と物品が並んでいる様子は非常に美しいとも感じるが、他人の物にも干渉してしまった場合、それは少し嫌がられる。細かいなぁと一蹴される。

 食に対するこだわりでもこういったケースはある。この料理は○○産の食材を使ったほうがいい。このように提供されたら、こういった順番で口に運ぶものだ。このタイミングで飲むお酒は絶対にこれ。食へのこだわりというものには際限がないが、そういったことに全くこだわりを持ってない人に対してこれをすると、「そんなこと気にせず、うまいものだけ食えればいいよ」、そういって饒舌に語った食の教養はなかったことにされる。

 それは仕方のないことである。人には人のこだわりがあり、逆に全くこだわっていないこともある。全部を余すことなくこだわることは非常に細かくなってしんどいと思うことになりかねない。もちろん、あらゆる分野、あらゆる場面において自らのこだわりを持っている人は本当に素晴らしいと思う。筆者なんかはそういったこだわりには強く惹かれる体質なので、ぜひともご教授いただきたいものである。

 ここで気を付けなければならない事は、こだわりを強要してはならないということである。教養はよくても強いることはよくない。この行為は無理やり他人を自分のテリトリー下に置く行為と同義である。

 そしてこれはこだわりだけに限った話ではない。自分が気になっていること、気にしていること、興味を持っていること、それらすべてを押しつけがましく提示してはならないということである。

 ただ、そういった行為を行っているのがSNSやメディアであると思う。これはSNSやメディア自体が行っているというよりもむしろ、レコメンドアルゴリズムが原因としてあるとも思っている。どちらにせよ世の中の気にしなくていいこと気にする必要のないことを、あたかも気にしたほうが身のためだとか、気にしておかないと人生損するみたいな風に突然目の前に現れてくる。

 そういったものに出くわした際には、いやいや気にするのではなく、この話題事柄は本当に気にする必要があるのか?、私の興味の範疇の話なのかと少し自問自答して欲しい。

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