離れていても繋がっているという幻想
のっけから夢のないタイトルなので、不快に思った人がいたらここで謝罪を入れておく。申し訳ない。
今日言いたいことは、結局人は孤独だとかってことを言いたいわけではない。孤独であるどころか現代において人はむしろ人に囲まれている。一つ誤解しないでもらいたいことは、孤独と孤独感は全く別物として考えている。
孤独感について簡単に触れるならば、これについてはどうやったってぬぐうことはできない、と思っているし、人間は単一の感情だけを持って生きているのではなく、その孤独感の占める割合を小さくするために仲間との一体感、連帯感、共感といった様々な感情をバランスよく持つことが大切であると思う。
では本題の孤独についてである。いや、孤独そのものについて話すつもりはなかった。どちらかというと人に囲まれて生きてる、あるいは周りの存在を感じながら生きている、ことについてであった。
実際この話もSNSの発達した現代だからこその話として書く。
SNSがまだ発達していない時代であれば、「離れていても繋がっているよ」、なんていったセリフはキザに聞こえたとしても、感動的な気持ちにならなくはないと感じる。遠くに行ってしまった人たちと会ったり、話したりすることは簡単ではなく、実際に行動しようとすると、かなり気合が必要である。さらに普段の生活というものがせわしないものなので、何らかの大きなきっかけやタイミング、それこそ世の中のイベント事に合わせてじゃないと尚行動することが難しい。
時は流れて、今は、ネットが充実しているので人と連絡を取ることは容易である。それは友人でなくても構わない。不特定多数の人と気楽につながることができる。またネット上での友人といった新しい概念まで生まれている。
おや、離れていても繋がっているではないか。幻想どころか、より現実に明瞭につながりというものが、SNSといったネットワークによって実現しているではないか。
その感覚が幻想なのである。
SNSが発達していない時代に放たれた、例のセリフは、こういった形式的な交流を願っての発言ではないことは明らかである。あの時のセリフは心のつながりを意識してのセリフであり、それこそが本来の人と人との繋がりというものである。
SNSではそれが難しい。というかむしろ不可能である。人との交流は字面だけ、特に、ワープロで打たれた無機質な文字では1%も交流できていないように感じる。これは具体的な内容とかではなくて、心の話である。
人が相手を感じるのは、文字であればその書き癖なんかから感じる。
会話であればその情報量は多く、声、表情、呼吸、しぐさetc.
心の交流を早く居酒屋で自由気ままに行いたいものだ。