何もしないをする
私の今までの記事でもたくさん書いてきたことであるが、人々は今あらゆるものに追われている。あらゆるものに取り囲まれて、あらゆるものを意識しながら生きている。
何と比較して過剰だとか、相対的な圧迫感というものは分からないが、とにかく色々な物が周囲に存在していて、それが個人的にあまりにも多いように感じる気がする。
いろんなものに囲まれることが嫌いというわけではない。ただ、無造作に自分の興味対象でない存在が目に余ると、すごくそれが気になって、最終的には邪魔だなぁと不快感を覚えるほどになる。
そういった存在を強制的に排除することはできないし、むしろそういう存在があることによって、自分の好きなことが相対的に成り立っているのだとしたら、それは逆に存在必要性を帯びることになる。
なにぶん、この世の中の大体のことには興味がある性格なので、人より多くのものに囲まれているという錯覚を覚えてしまうことは自業自得な気もする。そして、その存在性を意識してまったら最後、もう興味対象から外すことがそう簡単にはできないことも事実である。それでも今では、人生の有限性を優先して、頑張ってやらないことを作る努力はしている。
やるとか、やらないとか、そういったものの見方をしているうちは、たぶん、永久にこの喧噪から脱却することはできない。せわしない日常から距離を置いて羽を伸ばしたい。いや、それすらも億劫だ。
何もしないということはかなり難しい。
屁理屈論者にこんなことを言うと、何もしないということはそれそのものをしているので、'しない'という状態は存在しないなんて言いそうだが、それでいい。何もしないを私はやりたい。
やりたいことを、一つ一つそぎ落としていって、しなければならないという切迫からも逃げ、それをしない。今までなぜしてきたか、そういったことを考えることもしない。ただ、何もしないという状態を作る。
瞑想に近い状態かもしれないが、そんな感じと思ってもらったらいい。自分なりの何もしないを実践したい。
何のために何もしないのか?そういったことを考えてしまっているようでは、それは究極的な何もしないの状態に至れていない。
究極の何もしない、ある種の「無」に至れたのなら、その瞬間になぜか楽になるだろう。身も心も柔らかくなって、自然と生きられるだろう。
有名な言葉でシメてしまうと何もしないの目標を作ってしまう感じになるが、これは後付けの概念であって目指すべきものではないことに注意してほしい。
「柔よく剛を制す」これこそ人々が生きやすくなる道である。
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