仏陀と理法についてメモ

仏法とそれ以外(仏陀と仏陀以外)を分けきることはできない

偏り・滞りのない大慈悲心(その理解・価値観)としての仏陀というのが本質的な仏陀で、仏教は仏陀の心についての理解(仏陀についての解釈)と考えられる


何も害さない滞り(苦)なく流転する心(滞りのない心)
「流転の滞り(苦)をなくす」というのが仏道で目指す心か
真に大事な心は理法(流転)としての真理(滞りない流転)であり

そのことへの理解の心
仏教ではそう説明されていると思う
仏法にはそれの説明がある

慈悲心は偏った心・不和を生む心と考えられる
仏陀の大慈悲心は柔和な心だといえる

流転という概念を柔和な心だといえる
流転に滞りがあればその滞りを不和の心といえる

大慈悲心を流転を体得した心だと言える

流転の理法が合理的な事柄なら
流転には普遍的な合理性がある
流転は普遍性の高い合理的方向性をもった概念といえる
それより普遍性・合理性の低い概念に「滞りのある流転」というのが考えられる


人は全て悪人であると言えるが、それは善の流れ(流転)でできているともいえる 流転の正当性を検証しきれないならどちらとも言い切れない
物事を分別する事にはその様な矛盾がある


流転の方向性とは、その事柄における慈悲心の方向性だと思う


物事の流れに(流れの方向に)正当性・合理性・正しさがある
それに基づいて人それぞれ異なる方向性の正しさをもった価値観がある

流転には普遍的な方向性の性質があると考えられる
流転(真理)を体得した心というのは普遍的理解の心(その慈悲心・大慈悲心)と考えられる

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