【原神】魔神任務フォンテーヌ編の感想
※ネタバレしかないですよ。未プレイの人は読んじゃダメです。
バージョン4.2にアップデートされ、フォンテーヌの魔神任務に区切りが付きました。
率直に感想を書きたくなったので。好きなところも、あんまり好きじゃなかったところも。
ネガティブな内容が多いです。
◯好きなとこ:人間たち
こう書くと人外は好きじゃないように見えるけどそういうわけじゃなくて、人間「たち」ってのは神、古龍、メリュジーヌ、あるいは機械も含むかもしれない。
「生き物」ではなんかおかしいし、「キャラクター」というとプレイアブルキャラが好きかどうかみたいな話になるのでそれもいい表現でなく。
フォンテーヌの全般的に、人間たち、それは人外も含めてだけど、それに関連する全般的な部分はかなり好きです。
フォンテーヌという国と都市があって、そこにいる人間および人外たちがあって、その中で魔神任務があってと。
例えば璃月なんかでは、最初の頃は「仙人の名前読めねえし覚えらんねえよ」みたいな感じだったのが、年数が経ちイベントやらを重ねていくにつれて愛着も湧いてきて、璃月という都市と人や仙人たちが好きになっている人も多いんじゃないかと。
フォンテーヌが実装されてあまり年月は経ってませんが、そんな感じです。
プレイアブルキャラたちはもちろん、モブキャラやメリュジーヌたち、そこで展開されているような国としての営みというか、そういう部分はかなり気に入っています。
魔神任務についても、そのような部分はかなり好きです。ストーリーとして様々なことが起こりました。
単に「キャラクター」という意味ではないとも書きましたが、普通にキャラクターたちも好きです。みんないいキャラしてる。
スメール編はあんまりピンとくるキャラが少なかったのもあり、その反動もあるかもしれない。スメールで一番好きなの誰だろ。ハイパシアかな。
まあ一番好きなのはモンドだけど。
◯好きじゃないとこ:超越的な要素
これはフォンテーヌ編に限った話じゃないんですが、原神はわりと超越的な要素をストーリーとして展開してきます。
超越的な要素というのは、そこにいる人間・人外そして神も含めたキャラクターたちの、行動・影響の範囲を超えた領域の存在や概念。
それはゲーム内のキャラクターだけでなく、プレイヤーを超越した要素でもあります。
ただ「人間じゃなく神の力」とかそういう意味ではありません。「多くのキャラクター・プレイヤーたちが介入できない要素」に近い意味です。
今までの魔神任務では、様々なことに立ち向かうキャラクターたちが描かれ、それをプレイヤーが体験していくという形式がほとんどです。
これらは超越的なものではありません。
モンド編では、トワリン絡みの問題(表現が雑)に風神とモンドのキャラたち、そして旅人が解決に動く。
璃月編では、主にファデュイ発端の動乱に対して旅人と璃月の人たちと仙人が協力して立ち向かう。間章では仙人や神の力を借りずに魔神と戦う。
稲妻編では、稲妻幕府と抵抗軍、さらにファデュイ絡みのいざこざがあり、それを解決する。
スメール編では、教令院の企みを草神とスメールの民たちが阻止する。
もちろんそれぞれに多くの要素があり一概には言えませんが、その国・都市で生きる者たち、人間も人外も神も含めて、そういう者たちによるストーリーだったと思います。
そこに、プレイヤーも旅人として参加しているような。そういうイメージ。
んで、フォンテーヌの魔神任務は、肝となる部分がかなり超越的な要素で片付けられてしまいました。
上に書いたように、超越的でなく内在的な、人間的な部分は好きです。
国があり、神がいて、事件が起こり、様々なことを解決していく。そういった要素は魅力的で面白かったと思います。
ただ、肝心のストーリーの根幹となるような部分が超越的なものが多く、キャラクターやプレイヤーの行動・影響の及ばないところにあったような印象も受けました。
予言は不可避に実現します。それをなんとかしようというのがメインの話なわけです。
が、それはかなり超越的なものに依るものでした。
神や龍の力でなく人間の力を使えと言っているわけではありません。
フォンテーヌの者たちの、あるいはプレイヤーの預かり知らぬところで物事は進行し、言い方悪いですが「そういうことになってた」わけです。
魔神任務の4幕までは様々なキャラクターたちによるストーリーが展開されていきましたが、根本的な部分は謎のままでした。
そして5幕でフォカロルスが登場し、「こういうことをしてました」「今からこうなります」という説明をし、
ヌヴィレットがヌッとし、
解決しました。
フォカロルスはエネルギーを溜めてたらしいです。
諭示機がエネルギーを溜めて、それで天空の島が定めたルール、七執政の構造を壊し、水神の神座を破壊できるらしいです。
そう言われたら、「そうなんですか」と言うしかありません。
諭示機、天空の島・天理、神座を破壊、権能を返す。これらは全て超越的なものです。
超越的というのは単純に神的なものというわけではなく、実際にフォンテーヌで事件に直面している人たち、そしてプレイヤーの認知・影響力を超えているという意味です。ストーリー的に。
これらの神的なものを受けて、じゃあキャラクターたちがどういう行動をするか、それをプレイヤーがどのように解決していくかというのならば、超越的ではありません。
スメール編なんかはそうでした。
アーカーシャ端末だったり神を作ったりというのは人知を超えており、詳細な仕組みをプレイヤーが理解する必要はありませんが、それを受けて、プレイヤーがスメールのキャラクターたちと共に教令院に立ち向かい、ナヒーダを救うという展開でした。
しかし、フォンテーヌ編ではストーリーの肝となる予言に抗うという要素は、全て超越的な要素によって片付けられてしまいました。
みんなで遺跡に行ってナヴィアは死にかけ、フレミネが石板見つけてきて、プレイヤーの推理要素とかあり、ヌヴィレットが謎の力で石板を読み取りみんなに説明したわけですが、別にこれらの行為によって何がどうというわけでもありませんでした。
言ってしまえば、無意味。フォカロルスがパワー溜めて神座壊してヌッとやるだけなので。
我々は「天理」というものについてよくわかってはいません。その時点で超越的なんですが、フォカロルスは「天理を欺くことでみんなを救える」と言います。
何をもって欺いたと言えるのか、裁かれるのは神じゃなくてフリーナでいいのか、予言は不可避に実現するというけど、アレで罪は洗い流されたのか。
海面の上昇は外の世界からきた鯨によってもたらされたものでした。このままいくとテイワット全滅するらしいです。
そのへんは、「そういうことならそうなんでしょう」としか言えないし、プレイヤーが介入する要素も殆どありませんでした。
一応鯨はプレイヤーが倒したけど、このゲームの敵は全員弱いし、いつものことなんで。
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フリーナが500年神を演じて云々というのが、今回のストーリーのプレイヤーが感じる印象の大部分を占めることになると思います。
雑な言い方をすれば、「フリーナかわいそう;;」みたいな。
フリーナは500年間神を演じて孤独に生きてきたわけですが、理由や計画の詳細を聞かされていません。
そしてそれは、プレイヤーにも明確には説明されていないはず。録画して何回も見返しましたが。
計画としては、「エネルギー溜めて神座を壊し、権能をヌヴィレットに返してヌッとする」です。
ですが、例えば諭示機の仕組みなんかはよく分からず、「フォカロルスが諭示機の中でエネルギーを溜めている間、表に神のフリをしている者が必要」のようです。
なぜでしょう。
フリーナは神の力、元素力などを使うことができなく、それこそマスコットやアイドル的な存在だったために、じゃあ別に神を名乗る必要もなかったんじゃないか。
モンドでは神は概念のようなものであり、璃月は年に一度姿を見せるだけ、スメールではそもそも先代やらキングデシェレトのほうが信仰されている場合も多く、フォンテーヌではまつりごとに必要そうでもないし、裁判関連もヌヴィレットによるものが大きい。
七執政て割と自由だし、天理に監視されてたりするんだろうか。もちろん神座を壊して仕組みごと変えるというのは怒られるんだろうけど、諭示機にエネルギー溜めるのもこっそりやらないとダメなんだろうか。
私なりの解釈としては、「神は信仰をエネルギーに変えることができる(これは工房のエスタブレも言ってた)。フォンテーヌは正義の国であると同時に演劇の国でもあるので、ただ公正な裁判というだけでなく演劇的な要素もある裁判、あるいはフリーナが民衆のマスコット的な立場にいることで信仰を集めることができる。そのために、フリーナに神を演じてもらう必要があった。」と。
天理も騙さないといけないらしい。神っぽい業務をしてなかったら、「あ!こいつ諭示機に力溜めとるやんけ!アカンで!」となるから、表向きの神をフリーナにさせて、天理を欺く必要があったと。
ただ、それは私が勝手に思ってることで正しくないかもしれないし、仮にそうだとしても、それは超越的なことであり、「信仰だとかエネルギーだとか諭示機がそういう設定になってて、それで神座が壊せるってことになってるのね」と思ってしまいます。
フォンテーヌの人間、人外、あるいはヌヴィレットでさえそれを知らず、そしてもちろんプレイヤーも置いてけぼりです。
魔神任務の五幕の後半になって、フォカロルスに説明されるだけです。
フリーナは500年間、必死に神を演じていました。本人からすると、理由も教えられていないし、迂闊に誰かに話せばフォンテーヌは救われなくなるかもしれないので、演じ続けなければならないと感じてしまいます。
ただ、フリーナだけでなく、プレイヤーもなぜ演じ続けなければならないのかということに確証が持てていません。
諭示機にエネルギーを溜めるためには、神が諭示機に入り(?)、表ではフリーナが信仰を集めるという役割分担をしなければならなかったということだと思うんですが、そのような説明や描写がなく、イマイチ納得もできませんでした。
そのような仕組みを作ったのは、本人ともいえるフォカロルスなわけで、「そういう仕組みにしたんなら、そうなんでしょう」と。
極端な話ですが、「フリーナがケーキを食べて幸せに暮らしてたら諭示機にエネルギーが溜まる」にはならなかったのか。
いやそりゃダメだったんでしょうけど。超越的なので、我々にはわかりません。
「正義という名のもとにガバガバな裁判を演劇として愚かな民衆たちを楽しませる、こんなことが信仰になってエネルギーが溜まるなんて!しかしフォンテーヌを救うためには、これしかなかったんだ!」
みたいなのがあるんなら、まだ納得はできるのだけども。
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ボスの鯨さん。
テイワット外から来ちゃいました。じゃあもう無理じゃね?それ言い出したら何でもアリにならないだろうか。
「もともとフォンテーヌの海を支配するものであり、胎海の力・造られた人類を海に返すために襲ってきたのだ」みたいなのだったらまだわかる。
若陀龍王とかぶるけど。
それにしても、異世界のペットが来ましたて。予言も任務も関係ないんじゃないか。
鯨はクソ強かったらしい。
ヌヴィレットが古龍パワーでなんとかし、スカークが出てきてどうのこうの。
うーん、また超越的。フォンテーヌの人たち、そしてプレイヤーも置いてけぼり感が。
戦闘に関しては、まあ原神の敵はみんな弱いから強さに関してどうこう言うつもりはないですが、ストーリーボスとしてはどうなのか。
璃月でタルタリヤと戦って群玉閣を守ったり、稲妻でシニョーラと御前試合したり、スメールでスカラマシュと戦ったような、ストーリーの展開のための戦闘というよりは、ただやべーやつ来たからいつも通り戦って、殴ってたら倒せる。
ピンばあやの衝撃派があるわけでも、目狩り令を発動されるわけでも。パイモンっぽい浮遊物がいるわけでもなく。
別にめんどくさいボスにしろとは言わんけど、「元素反応が起こらない!?」「やつにはテイワットの理は通用しないのだ」とかがあるわけでもなく、普通に倒せるってのは、ストーリーボスとしてはどうなのか。
録画見直してたら古龍の力を分け与えられてたらしい。今知った。
新エリアにいた名前付きのモブキャラっぽいやつのほうが、よっぽど印象に残ったぞ。
◯雑なまとめ
みんな色々頑張ったけどストーリーの根幹にはあんまり意味なくて、神が500年前から準備してたやつを発動してヌッとやったら終わり!
うーん。どうなんでしょう。
「フリーナはこんな辛い思いをしていたんだよ!可哀想!」をやるのはいいんですが、じゃあそれに対してフォンテーヌの人たち、あるいはプレイヤーが何かできるわけでもなく。
可愛そうでした、で終わり。
モンド・璃月・稲妻・スメールのように、旅人やキャラクター、そしてプレイヤーが予言に抗うわけでもなく、旅人とヌヴィレットに「こういうことやってました」という説明があるだけ。
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好みの問題もあると思いますが、私は設定資料を読みたいわけではなく、映画のように眺めるだけでもなく、ゲームとしてストーリーをプレイし楽しんでいきたいです。
そういう意味では、私は森林書とかは好きなんですよ。プレイヤーが冒険者となり、新マップを旅しながら、自分でストーリーを進めていくというか。
ver. 3.0のときもそんな記事を書いてました。
今回のストーリーでいえば、キャラクターや旅人、そしてプレイヤーの試みによって、予言に抗ったりフリーナの救済になるような、そういうストーリー展開だったらいいんですが。
内容的にも設定的にも展開的にも、キャラクターや旅人、そしてプレイヤーは置いてけぼり感があったんじゃないかと思います。
私は、あんまりそういうのは好きじゃないです。
2023/11/10 山下