
菟田野から

国の始まり大和の国、郡の始まり 宇陀郡、宇陀の始まり菟田野。とうたわれた 菟田野という町に、この秋から私は住んでいる。

町の案内板に従って一応そう書いてはみたものの、上のフレーズは歌の文句として認めてもらうには、あまりに語呂が悪いそれであるようにも思える。「宇陀の始まり菟田野町」とでも言ってみたなら、とりあえず七五調のテイはなしているし、修正された痕が見受けられる上の看板にも、昔はおそらくそう書かれていたのだろう。だが悲しいかな、宇陀郡菟田野町という町は、今では地図上に存在しない。2006年に合併されて、もうずっと長いこと、「宇陀市」の一部になっている。

町村合併に伴う地名の変更というのはことほどさように味気なく、また暴力的なものだ。人間の名前がそうであるのと同じように、地名というものはいいことから悪いことまで引っくるめ、その土地にまつわる歴史を丸ごと背負い込んでいるからこそ、「かけがえがない」のである。その歴史をいとも無造作に「なかったこと」にして、単なる記号としての意味しか持たない雑な新地名を濫造してみせる行政当局のやり口というものには、個々の人間が番号で管理される未来のこの社会の姿が暗示されているような気がして、心底うすら寒い気持ちにさせられてしまう。

とはいうものの、そんな風に考えてみるならば、今の奈良県に暮らしている私たちが持っている「自分は奈良の人間だ」という「思い方」自体、どうなのだろうという気がしてくる。郷里を離れてまた戻ってくるまでの約20年間、どんな土地にいても私は自分のことを「奈良県民」であると思い続けて生きてきたわけではあるけれど、19世紀に明治政府が廃藩置県というものに着手するまでの二千年近く(あるいはそれ以上)に渡る長い間、自分たちは「ヤマトのウダ」の人間であると思い続けてきたのが、この地域に暮らす人々の「アイデンティティの持ち方」に他ならなかったわけであり、「奈良」などというのは行って帰ってくるだけで三日もかかるような、山の向こうの別世界に属する町の名前のひとつにすぎなかったはずなのである。

それにも関わらず今の時代にこの県域に生きる人々は私も含め、宇陀や吉野のどんな山奥に暮らしていようと、他県の人から出身を問われたら「奈良です」と答えることに何の躊躇も感じないのが普通になってきている。「宇陀市」や「葛城市」といった耳なじみのない新地名と同様、最初は全く便宜的な記号としての意味しかまとっていなかった「奈良県」という地域名も、今ではすっかり「歴史性」を身につけてしまっているわけである。

だとすると、人間というのは自分も含め、暴力によってねじ曲げられた歴史にも、割と簡単に順応できてしまう生き物なのだろうか。といったような頼りない感情がこみ上げて、ともすれば情けない気持ちにとらわれてしまうのだけど、歴史というのは暴力によって「なかったこと」にされることはありえても、「消える」ものでは絶対にありえないものだと思う。

「なかったこと」にされた歴史は、「消える」のではなく、「トゴる」のである。

「トゴる」というのは「かき混ぜてもかき混ぜきれない 澱が液体の底に沈殿してゆくこと」を表現した奈良県方言の動詞なのだけれど、他に言い換えがきかない気がするので、今後もしばしば使わせてもらうことにしたいと思う。

奈良(県)という土地にはそんな風に、誰からも記憶されていないにも関わらず存在することだけはやめていない何十世紀分もの歴史の澱のようなものが、至るところでトゴっている。盆地の底に、山々のヒダに、谷川の筋に、林の木々の下に、雲になって空へと帰るすべを持たないまま永遠に地べたを彷徨している濃霧のごとく、あらゆる場所で歴史がトゴっている。そのことを私は、小さい頃から身体で感じ続けてきた。

もとよりそれは奈良(県)という土地に限ったことでなく、およそ人間の住んでいる土地である限り、どんな場所にもそうした歴史のトゴりというものは、わだかまっているはずのものだと思う。にも関わらずこの奈良(県)という土地にトゴった歴史に「だけ」私が特別な何かを感じ続けてきたのは、結局そのトゴりの中のどこかに「私自身の存在と歴史」が含まれているからという、ごく個人的な思い入れからのことであるにすぎない。そのことを私は、わきまえておかねばならないと思っている。

けれどもその「トゴった歴史」と向き合い直すことは、おそらく私という人間の人生において、避けて通ることのできない課題となっているのである。

ちなみに、「国の始まり」がどうして「大和国」で、「宇陀郡」がどうして「郡の始まり」ということにされているのかということについて言うなら、宇陀というところは遠い昔、神武天皇なる架空の人物が、どこか遠い異国から奈良県を征服しに訪れた際、最初に襲撃して占領した場所だったという話になっているのである。菟田野はその時、最初の戦闘が行なわれた場所にあたっているとのことで、「古事記」や「日本書紀」といった国家の歴史書にはその顛末が誇らしげに記載されているし、それに類する事件や出来事は、何世紀頃のことだったかということまで私には特定できないけれど、確かにあったのだろうと思う。じっさい菟田野のあちこちには、そこが神武天皇の「聖蹟」の伝承地であることを示す、石碑や案内板が林立している。

けれども、そういう場所を「聖蹟」と呼びたがる人間たちの感性の仕組みがどうなっているかは知らないけれど、そこで実際に行なわれた行為というのは「蹂躙」そして「殺戮」、それ以外のものではありえなかったはずなのである。「その日」を境に日常を断ち切られてしまった人々の思いや営み、「歴史」のすべては、天皇の先祖たちの侵略行為を賞賛する石碑や案内板や神社の建物の足もとの地下に封じ込められたまま、文字として記録される機会を与えられることもなく、ただひたすらに「トゴって」いる。何千年経ってもおそらく何万年経っても、トゴり続けている。

私のシンパシーは昔から、その人たちに向けられてきた。「歴史好き」を自称する人々が好んで自らを投影したがる古代の「英雄」たちの側にではなく、昔図書館で見た戦前の国定教科書の上では「わるもの」というたった四文字で片づけられてしまっていた、その人たちの側にである。それを最初に目にした小学校高学年くらいの頃から、私はずっとそう感じ続けてきた。

それというのも、私が少年時代を過ごした同じ奈良県内の 富雄という町は、「神武東征」に最後まで抵抗して殺された「トミノナガスネビコ」と呼ばれる人の本拠地だったとされている場所で

このナガスネヒコ氏は別名を「登美毘古(トミビコ)」といったと「古事記」には記載されており、中学頃の私はもし将来自分が物書きになることがあったならこの人の名前をペンネームに使わせてもらおうと秘かに決めていたりとかしていたのだけれど

ぐずぐずしてる間に隣町に住んでいた顔も知らない同い年の人間に先を越されてしまい、ホゾを噛まされたりしてきたいろんな歴史が私という人間の中にトゴっていることの結果であったりしているわけなのだが、そんなことは別段、人に聞いてもらう必要があるような話ではない。

とはいえ、この人の書いた「ペンギン·ハイウェイ」という小説の世界には、登場人物が東京の言葉で喋っていることを別にするなら、何から何まで私が子どもの頃に触れていたのと同じ風景が広がっているもので、知らない人にはぜひ読んでみてほしいと思ったりもしている次第であることを、付記しておきたい。

いずれにせよ
その奈良県に生きた郷土の先人の一人であるところの、中山みきという人の生涯について、自分が根本的に調べ直してみたいという気持ちになったのは、そういったことが理由になってのことだったと思っている。

彼女が生きた時代に日本を席巻していたのは、身分差別と排外主義の貫徹こそが「正義」であると主張してやまない「尊皇攘夷」と呼ばれる思想だった。その「理想」のためには生命をかけて闘うことをも辞さないという人間がこの時代には大量に生み出され、その価値観はやがて「教育」の形をとってすべての日本人の上に押しつけられるに至り、天皇のために銃を持って外国に人殺しに行くことを「美徳」であり「誇り」であると感覚する人間が、そこからさらに大量に産出されてゆくことになる。生命をかけるに値する理想を持って人生を送れるということは、疑いもなく「いいこと」であり「幸せなこと」だ。けれども差別と排外主義の思想のために生命をかけることのどこが「いいこと」だと言えるだろうか。私には、ちっとも「いいこと」だとは思えない。

そうした時代にあって中山みきという人は、天皇も百姓も「おなじたましい」を持った人間であるということを主張し、すべての人間が倒し合いでなく助け合いに生きる「陽気づくめの世界」の実現を希求して、そのために官憲の憎しみを買うところとなり、事実上の拷問死という形で、生命を落としているのである。「大逆事件」で幸徳秋水が処刑される24年前、全国水平社が結成される35年も前のことだ。当時の日本において、「本当に生命をかけるに値する理想」のためにその生涯を使い切ることのできた、ほとんど唯一の人だったのではないかと私は思っている。

その思想は、私が育ったこの奈良県の、「神武東征」以来の血塗られた歴史に彩られてきた同じ奈良県という土地の、どこから生まれてきたものだったのだろうか。といったようなことを思う。

本居宣長、平田篤胤といった江戸時代の「国学者」たちは、それぞれに「埋もれた歴史」と向き合い直すことを通して、「今ある社会から失われた理想」の回復を「天皇制」の回復に求め、そこから「尊皇攘夷」の思想の基礎を作り上げていった。そしてその上に実現された明治維新という革命を経て、奈良県という土地は天皇の神話の「聖地」としての位置を「新しく」獲得してゆくことになる。それはある意味、奈良県という土地にトゴってきた歴史に、時の権力者層が自分たちに都合のいい仕方で「形」を与えることを通して、その「得体の知れない力」を統御の対象にしようとする試みに他ならなかった。と言えると思う。

けれども中山みきという人は、それとは違った形で、この奈良県という土地にトゴった歴史の声を「正しく」聞きとろうとしていた人だったのではないか。といったようなことを私は感じるのである。「聞きとろうとしていた」のか「聞こえていた」のか、それは私にはまだ定かではない。だがその「声」こそが、「倒し合い」の世界を終わらせて「助け合い」の世界を実現しなければならないという確信を、彼女に抱かしめた何ものかの実体だったのではないだろうか。そんな風に思えてならないのである。

そして、できることならその「声」を、自分にも聞きとることができるようになれたら。と思っているのだ。
あれも欲しい これも欲しい
もっと欲しい もっともっと欲しい
俺には夢がある 両手じゃ抱えきれない
俺には夢がある ドキドキするような
家から遠く離れても
なんとかやっていける
暗い夜に一人でも 夢見心地でいるよ
たてまえでも本音でも
本気でも うそっぱちでも
限られた時間のなかで
借りものの時間のなかで
本物の夢を見るんだ
本物の夢を見るんだ
という歌をブルーハーツというバンドが歌っていた今から30年ぐらい昔のこと、その「夢」という言葉を、私は激しく憎悪していた。「夢を見ることを強制してくる社会」のあり方に我慢ならないものを感じ、その美名のもとに競争で他者を蹴落とす生き方を人に押しつけてくる教育制度のやり口というものに、感性のすべてで抗っていた。その何から何までが、戦争と差別の上に成り立っている社会の仕組みを少年少女の心に当然のものとして受け入れさせるべく、巧妙に張り巡らされたワナの一環であるようにしか思えなかったからである。「何かになるため」に人と争わさせられるぐらいなら、何にもならないことを選ぼうとその頃の私は思ったし、基本的にこの年になるまで、その通りの人生を歩んできたつもりで自分ではいる。

けれども、郷里に戻ってきたことをきっかけとして、今の私にはそんな風に「やりたいこと」ができている。

とはいえ、その作業には恐らく大変な時間がかかりそうな予感が、今からしている。

まずは、じっくりと取り組んでゆくことにしたい。
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