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「教祖絵伝」を読み直す 6/25 「立教」再考その2 秀司は何に恐怖したのか

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天理教という宗教は、「中山秀司という人の足痛」から始まったということが伝えられている。この「秀司の足痛」を治すために行われた「寄加持」をきっかけに、その母親の中山みきという人に「神憑り」が起こり、「元の神·実の神」と名乗る「神」が「世界いちれつをたすけるため」に「みきを神のやしろに貰い受けたい」という要求を発したのに対し、彼女の夫の善兵衛という人がこれを受諾したことから、天理教の歴史は始まったのだという。このことは天理教の人々の間では「常識」となっている話であり、「天理教教典」にも「稿本教祖伝」にもそのように書かれていることは、言を俟たない。

しかしながら、前回までの記事でつぶさに検証してきたように、天保9年旧暦10月26日という日に「立教」と呼ばれるに値する出来事が「あった」ということの事実性は争えないにしても、「寄加持」の最中にみきさんに「神憑り」が起こったというのは完全な作り話であり、かつその話を「作った」人間は、物語の当事者である中山秀司本人以外には考えられないということが明らかになってきたわけである。だとすれば、「すべてのきっかけ」が「秀司の足痛」だったという話も別に額面通りに受け取る必要はないのだし、むしろ「本当の理由」は別にあったのではないかと考えることが必要になってくると思う。「寄加持」や「神憑り」が「秀司の作り話」であったとするなら、その話は飽くまで「秀司に都合よく」作られていると考えるのが当然だからである。

そもそも天理教の教えでは、「病気」というものは「神さん」からの「手引き」なのだということが言われている。「神さん」は、人間に罰を与えたり苦しめたりするために人間を病気にかからせるわけではない。「神さん」からの「貸し物」である人間の身体は、それを使っている人間が「心の使い方」を間違えると壊れてしまうようにできているため、そうなる前に人間にそれを知らせてくれる「メッセージ」として「病気」はあるのだ、という教えと言うか、発想があるわけである。私が「天理教の教え」という言葉を使う時は、それを「中山みきという人の教え」と区別するためであることが多いのだけど、このことに関しては彼女自身も間違いなく同様のことを語っている。ただし、天理教という宗教はそこから何歩も踏み込んで、子どもが「障害児」として生まれてくるのは親の心がけが悪いからだ、といったような文字通りの差別的迷信をごく最近まで公然と「教えて」いたりもしたのだが、中山みきという人本人はそういったことは一言も語っていないということは、付記しておきたい。

大和の国の庄屋敷村に、どんな病気でも治してくれる「生き神様」がいる。そんな噂を聞きつけて、藁にもすがる思いで各地からやってきた人々に対し、中山みきという人はまず「神が引き寄せたのやで」という言葉をかけていたということが、伝えられている。そして、「この道は、たすかりたいでは、たすからんのやで」ということを教え、そもそも人間というものはどのようにして「始まった」のかということをめぐる「元始まりの話」を歌うがごとく語るがごとく話して聞かせ、「人をたすけたら、我が身がたすかるのやで」と教えていたということが、伝えられている。それだけのやりとりで実際に病気が治ってしまった人々が数え切れないほどいたのだそうで、「本当かよ」と疑ってかかる人がいても全然おかしくない話であるとは思うのだけど、私自身は自分の経験に照らして、そういうことは確かにあったのだろうな、と思っている。「人たすけたら我が身たすかる」という「テーゼ」を「信じて」みようと心に決めたら、生きることは間違いなく「楽」になるということを、私自身も「知って」いるからである。

病気を治してもらったらそれっきり庄屋敷村には顔を見せなくなってしまった人々も数多くいたことだろうが、彼女の教えに感動した人々の多くは、そこから自らも「信仰」の道に入ることを選択していった。すなわち、「我が身思案の人間心」で通る生き方を改め、「人たすけたら我が身たすかる」ということを「実践」する道に入っていったわけである。天理教の歴史を通じて、「病気」というものはそんな風に、人間に「改心」のきっかけを与えるものとして、位置づけられてきた。その意味で中山みきという人は、あなたが病気になったのは「神」があなたを「引き寄せた」からなのだ、という言い方を使っていたのだろうなということが、推察される。

そうした見地に立った時、天理教の歴史として語られている物語の中で、「秀司の足痛」に対してだけは他の「病」一般と「違った位置づけ」が与えられているように感じられることが、私は気になって仕方ないのである。「お道」の原則を踏まえるならば、「秀司の足痛」は何よりも中山秀司という人自身の「心得違い」を改めさせるために、「神」から送られたメッセージであると解釈するのが基本であることだろう。ところが「立教」をめぐる伝承においては、「秀司の足痛」は「神」が「三千世界をたすける」ためにみきの身体を通して「おもてにあらわれた」という「聖なる出来事」の一環として描かれているだけであり、秀司本人の日頃のおこないとは全く無関係なところで起こったことであるような話になっている。この話を虚心坦懐に聞いた人は、「神」が秀司に足痛を起こさせたのは周囲の人間に「寄加持」をやらせるためであり、その場を借りて自らが人々の前に姿をあらわすため、だったというような印象を当然受けることだろう。私自身もそう感じていたし、だからこそ何と理不尽な話なのだろうと思っていた。自分の存在を人々に認めさせるために、何も悪いことをしていない秀司の足を痛めつけるなんて、いくら「神」のやることとはいえ、秀司がかわいそうではないか。という印象を、子どもの頃から感じ続けていたのである。

けれどもその「寄加持」をめぐるエピソードのすべてが、秀司という人本人の「作り話」であったとしたなら、話は全く違ってくることになる。

「神が出た」のが「夜」の出来事だったという「おさしづ」、言い換えるなら飯降伊蔵という人の証言を踏まえるならば、その正確な日時は天保9年10月23日の午後10時頃だったことになり、その時にはみきさんの前に、善兵衛さんと秀司という二人の家族を除いては他に誰もいなかったはずなのである。前回の記事はそのことを中心に書かせてもらったわけなのだが、それが事実だったとするならば、「寄加持」の場でみきさんに「神憑り」が起こったとする「立教」をめぐる伝承は、正にその事実関係を隠蔽するために作られたものだったと考えることが必要になってくる。「神」が「衆人環視の場」でなく「親子以外に誰もいない密室の空間」で「あらわれた」のだということを、後の信者さんたちに知られることは、秀司という人にとって明らかに「都合の悪いこと」だったのである。

「神が最初にあらわれた時のこと」を信者さんたちの前で「ありのままに語る」ということが、秀司という人には最後まで「できなかった」のだと思われる。「神」が最初にあらわれたのが「親子以外に誰もいない空間」だったのだとすれば、秀司本人はその時「神」とどんなやりとりを交わしたのかということが、問われないわけに行かなくなる。それを「問われる」ことが、秀司という人には耐えられなかったのだと思う。そのてん、「寄加持」という「衆人環視の場」で、「世界いちれつをたすけるため」という一般的理由のみを掲げて「神がおもてにあらわれた」のだという話にしてしまえば、自分が最初に「神」から何を言われたかという核心的な問題は、スルーしてしまうことができるわけなのである。同時に、「神から意見されたこと」を受けて秀司自身は何らかの「改心」を果たしたのかという問題も、「最初からなかったこと」にしてしまうことができるし、そもそも秀司自身は「神を信じる気持ち」を持つに至ったのか至らなかったのかという、信者さんたちとの関係においては超重要な問題も、スルーしてしまうことができる。そうやって問題をスルーすること、言い換えるなら「自分が問われる立場に立たされることから逃げ続けること」に、秀司という人が膨大なエネルギーを費やし続けたのは、結局この人が最後の瞬間に至るまで一度も「改心」することがなかったからなのである。私は、そう考えている。

その意味において、「稿本教祖伝」などを通じて語り伝えられている「立教」にまつわる伝承には、この秀司という人にとって「神」というものがどういう存在であったかということが、非常に「素直に」描き出されていると言っていいのだろう。この人にとって「神」というものは、一貫して理不尽な理由で人間に苦しみを与えてくる存在であり、人間に対して無理難題とも言うべき理不尽な要求ばかりを突きつけてくる存在であり、それに逆らえば一層ひどい目にあわされるという、「恐怖」の対象でしかなかったのだろうな、ということが、「立教」にまつわる伝承からは実によく伝わってくる。同時に彼氏は自分のことを「かわいそうな人間」に思えて仕方ない人だったのだろうということも、うかがえるような気がする。

そしてこの「恐怖」は、天理教という宗教に入信するにあたって「別席」で漏れなくこの話を聞かされてきた一人一人の信者さんたちの心をも、深々と支配するものであり続けている。別のところでは、「神さん」というものがどんなに「親心」にあふれた「やさしい」存在であるかということを、中山みきという人の事蹟を通じて様々な形で聞かせてもらっているにしても、根本的なところで「神さん」というのは「逆らうと何をされるかわからない恐ろしい存在」であるというイメージが、この「立教」にまつわる逸話を通じて、信者さんたちの胸には植えつけられてしまっている。天理教という宗教が、中山みきという人の教えに感動し、「自分も人だすけに生きたい」という「内から出た気持ち」で信仰に励む人たちによって「のみ」支えられているものであるならば、私だってそこに参加させてもらうことに、やぶさかではない。けれども実際には、「逆らうと何をされるかわからない」という「恐怖」の気持ちだけで「信仰」にしがみついている人たちの方が多いぐらいではないのだろうかということを、実感させられずにいられない現状がある。

しかしながら、中山みきという人の身体を通じて「おもてにあらわれた」と伝えられている「神さん」は、本当にそんな風に「理不尽で恐ろしい存在」だったのだろうか。そして「理不尽で恐ろしい存在だから黙って素直にその意思に従う」といったような「信仰」のあり方は、果たして「信仰」の名に値するものなのだろうか。そんなものは「服従」の一形態にすぎないはずだと私は思う。中山みきという人は。あるいは「神は」と言い換えてもいい。そんな風に「自分に服従すること」を、人々に対して、本当に求めていたのだろうか。

秀司はそれを、求めていたかもしれない。「自分だって服従させられたのだから、他の人間も服従するのが当然だ」という、「正義と公正を求める気持ち」と呼べないこともないようなエネルギーにもとづいて、他の誰よりも強烈に「神への服従」を人々に対して求めていたということは、ありえたかもしれない。けれども「神」は、言い換えるなら中山みきという人は、自分が最初に「神」として姿をあらわした相手であるところの自分の息子である中山秀司という人に対してさえ、「自分に服従すること」などは、決して求めていなかったはずだと私は思う。

それなのに、秀司という人はその「神」を、「恐怖」の対象としてしか「感じる」ことができなかった。「悲劇」はそこから始まったのだと思う。この「行き違い」を出発点に、中山みきという人の教えは現在に至るまで、決定的にねじ曲げられた形でしか伝わらないことになってしまったのだと私は考えている。「教祖の教えにかえれ」とは、天理教の歴史が始まった瞬間から一貫して叫ばれてきたことであり、ある意味では今現在天理教の中にいる人たちの「全員」が、心からそれを望んでいると言っても過言ではない。しかしながらその「教祖の教え」が、いつどのような形で「ねじ曲げられた」のかをめぐる認識は、それを主張する人々の間でも様々に異なっている。ある人は中山みきという人が亡くなった瞬間から「変質」は始まったという立場をとっているし、ある人は「本席」さんこと飯降伊蔵という人が自分の後継者に指名していた上田ナライトという人が教団から不当に扱われたことを「転換点」だったと指摘しているし、またある人は1925年から1967年まで42年間にわたって「二代真柱」の地位についていた中山正善という人が一番いけなかったのだと主張している。けれども中山みきという人の教えが「歪んだ形で伝えられてしまうこと」は、彼女の在世時どころか、「立教」の瞬間からすでに開始されていたことだったのだという見解を私は取りたいと思う。私にとって、彼女の伝記を書くということは、そうした「歪み」を解きほぐし、中山みきという人が本当に人々に伝えたいと願っていた「神の思い」というものを、再び明らかにするための作業に他ならない。そのためには、玉虫色の伝承に頼ることなく、「ものごとの正確な事実関係」を明らかにすることがどうしても必要なのである。

中山みきという人は誰に対しても「やさしい人」だったということが伝えられている一方で、見る人によってはとてつもなく「怖い人」だったということが、様々な形で伝えられている。その「怖さ」というのはどういう「怖さ」だったのだろうかということを、私は長い間、考え続けてきた。いくら「怖い」といっても、当時の信者さんたちの前に座っていた彼女は「白髪のおばあさん」だったわけである。別に何をされるわけでもない。いつもイライラしているような人や、会えばガミガミと小言を言うような人には、「怖いから会いたくない」という気持ちも生まれてきておかしくないと思うが、彼女がそういう人だったといったような話は全く伝わっていないし、当時の信者さんたちは「自分から進んで」彼女のもとに足を運んでいたわけなのだ。いつもおだやかで、小さい子どもの顔を見れば必ず出ていって金平糖を握らせてやって、「この家にやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん」と歌うように口にしていたと伝えられる中山みきという人の、何が一体そんなに「怖かった」というのだろうか。

彼女と同時代に生きた人としては、たとえば大久保利通という人などは、めちゃめちゃに「怖い人」だったということが伝えられている。だがこの人は、実際に「権力」というものを保有していて、それを手にするためにどんなことでもやってきたということを周りのみんなが知っていて、自分に逆らう人間は「さらし首」にすることまでやってのけた人間だったから、「従わなければ殺される」ということで、人々は具体的にこれを恐れたわけである。そういう「あからさまに怖い人」たちが、彼女の生きた時代には、ゴロゴロしていた。みきさんのもとに「最初の信者」が訪れ始めたとされている文久年間(1861〜64)には、京都で尊攘派のテロリストに暗殺された人々が次々と「さらし首」にされている状況が隣国の大和にも生々しく伝えられていたというが、そうこうしているうちに文久3年(1863)には大和を舞台として天誅組の変というものが勃発し、藤堂藩の「無足人」の地位にあったという前川家の杏助氏や足達家の照之丞氏といった人たちも、人斬り包丁を引っさげて「鎮圧」のための人殺し作業に動員されたのではないかということが想像される。翌年の元治元年(1864)には、庄屋敷村から目と鼻の先にあたる永原村と三昧田村の境で、佐幕派と見なされた冷泉為恭という絵師が長州藩士に斬り殺される事件が発生し、首は大阪にさらされたのだが、胴体は二日間にわたってその場に打ち捨てられていたという。同年には池田屋事件が起こり、蛤御門の変が起こり、翌年には越前敦賀で水戸天狗党の浪士352名が処刑され、慶應4年(1868)には戊辰戦争、そして「明治維新」の以降には打ち続く不平氏族の反乱を経て、10年後には西南戦争である。それこそ、そこらじゅうに生首が転がっていたと言っても決して言い過ぎではないような時代に彼女は生きていたわけなのだが、そういった即物的な恐怖とは「全く異質な恐怖」を、当時の信者さんたちは彼女に対して、感じていたのだと思われる。このことは、人間にとっての本源的な恐怖というものは、暴力による恫喝など全く問題にならないようなところから湧きあがってくるものなのだということを物語っているようで、実に興味深い。

あるいは、当時の人々が中山みきという人を前にした時に感じていたという「恐怖」の内容は、人間が空の広さや海の広さ、崖から見下ろす谷底の底知れぬ深さや、霧が晴れあがった地平線の向こうに姿をあらわす山脈の雄大さなどを前にした時に、おのずとそこから一歩も動けなくなってしまうような、「畏怖」の感覚と同質のものであったのかもしれない。「神の心」は「天然自然の理」と同義であり、「神のからだ」とは「この世界のすべて」であると彼女は説いた。そのすべてを「体現」した存在として彼女が人々の前にあらわれたというのが本当だったとするなら、人々が彼女に対して大自然と向き合う時と同じような「畏敬の念」を感じていたとしても、不思議ではない。と言うよりもそれが「本当」だったからこそ、当時の人々は彼女を「神」と信じたのに違いない。

そうした場合、目の前の相手に対する悪意や害意など、彼女の側にはもちろん存在していない。その彼女を前にして、心の内側に恥ずるところをひとつも持っていなかった人の目には、中山みきという人の姿はひたすら美しく神々しい存在として映ったことだろう。けれども心にやましいことを抱えたまま彼女の前に立つ人は、そのやましさを丸ごと見抜かれているような恐怖にさらされて、彼女の顔を正視することさえできなかったことだろう。そんな風に、自分の前に立つ人間の心を「鏡のように映し出す」存在として、当時の信者さんたちにとっての中山みきという人は、言い換えるなら「神さん」というものは、あったのではないかということが想像される。秀司という人が「神」として自分の前に立った母親の姿に「恐怖」を感じたことがあったとしたら、それは鏡に映された自分自身の姿の「おそろしさ」におののかされたのだということに、他ならなかったはずだと私は思う。

中山みきという人が残した思想の中に、「罪」や「罰」という概念が一切存在していないことは、以前にも触れた。彼女は「神」として生きていることを自他ともに認める存在だったわけだが、自分のことを信じない人間に「バチを当てる」とか「恐怖を与えて服従させる」とかいったようなことは全く考えていなかったばかりか、そうした発想さえ持ち合わせていなかったということは、このことからも明らかである。

それならば「善」や「悪」についてはどうだったかといえば、この点に関しては彼女は極めて明確に定義している。いずれ稿を改めて詳しく論じる必要があると思っているが、端的に要約するなら、天然自然の理に従って「調和を作り出すこと」が「善」であり、「調和を壊すこと」が「悪」であるというのが彼女の思想である。彼女が説いた「神」は、天然自然の理が作り出す「調和」そのものの中に存在している。

たとえば人間の生命活動は、体温が31度以下になったら停止してしまうし、42度以上になっても停止してしまう。「ぬくみ」と「すいき(水気)」の調和がとれて体温が一定に保たれている状態の中でだけ、「神が働く」ことを通して人間は「生きていること」が可能になるのであり、「ぬくみ」が勝っても「すいき」が勝っても、神はそれ以上その場にとどまって働き続けることができなくなってしまい、「退く」以外になくなってしまう。そして、神が退いたら、人は死ぬ。このことは「神からの罰」でも何でもない。どんなに「神」が頑張ってもその「働き」が及ぶ領域から「手が離れて」しまうわけであり、そのことで一番「ざんねん」な思いをしているのは「神」自身なのである。

あるいは、人間の身体は宇宙空間に放り出されたら内側から破裂してしまうし、深海に沈められたら水圧で潰されてしまう。「つなぎ」の力と「つっぱり」の力が絶妙に調和している地上の大気圧の中でだけ、「神」は「働く」ことが可能になる。そして「神が働く」ことを通してのみ、人間の生命活動は維持されており、それをミクロな単位として包含する大自然の営みそのものも、再生産され続けることが可能になっている。中山みきという人はそんな風に、この世界をこの世界として成立させている無数の「調和」のひとつひとつの中に「神の働き」を感じとり、それこそが「ふしぎなたすけ」であると説いていたわけで、そのまなざしは自然科学者や哲学者のそれと同一のものだったと言っていいと思う。

この「自然科学上の認識」を「社会科学の領域」に拡張させて、「人間がたすけあって生きること」を説いたのが、彼女の思想の最も革新的な点だった。一人一人の人間が「我が身思案」で「他人に勝つ」ことを目的とした生き方を始めたならば、「ぬくみ」が勝っても「すいき」が勝っても人間の身体が破壊されてしまうのと同じように、人間の生きる世界はその営みを停止してしまう。一人一人の人間が「互い立て合い」「たすけあい」を意識して暮らしてゆくことを通して、人間の生きる世界を「極楽」に変えてゆくことは、初めて可能になる。そのために「悪しき心づかいを払うこと」を、彼女は教えた。それは「神様から認めてもらうため」でも「神様に喜んで頂くため」でもなく、人間が人間として「調和の中で」生き続けてゆくために、必要なことなのである。

「悪しき心づかい」には三種類あると彼女は教えている。「ほこり」「うそ」「ついしょう」である。「ほこり」とは「悪と自覚されない悪事」のことで、これが心に積み重なると、いろんな矛盾が蓄積されて、ついには心身の調和=生命活動そのものが破壊されてしまう。だからそうなる前にそれに気づいて、これを「払う」ことが必要になる。「ほこり」の種類は無数に存在するが、具体的には「ほしい」「をしい」「かわい」「よく」「こうまん」の5つが、「ほこり」であるとされている。(これに「にくい」「うらみ」「はらだち」を加えたいわゆる「八つのほこり」が説かれるようになったのは、みきという人の死後になってからのことであり、かつそれは明確に彼女の思想に反する「付け足し」だったと私は認識している)。

一方「ついしょう」はといえば、「悪であると自覚しつつも他人に強制されてやらされてしまう悪事」のことである。強い者にこびへつらう態度が「追従」という言葉からはイメージされるが、たとえば「国のやることには逆らえないから」ということで黙って徴兵検査に応じ、招集令状が届いたら進んでこれに従い、外国に行って人を殺せと言われたら殺し、それで恨みを買って自らも殺されるといったような、過去二世紀の間に無数の日本人が経験してきた「悲劇」というものは、一人一人の「ついしょう」の心がもたらした必然的な帰結に他ならないと言いうる。この心づかいを「払う」ためには「勇気」を出すしかないわけであり、「勇気」というものがどこから生まれてくるかと言えば、「真理」を学ぶことからしか生まれてこないのである。キリスト教の教えも、「真理はあなたを自由にする」と説いている。「倒しあって生きる」ことでなく「たすけあって生きる」ことこそが「本当」なのだという「確信」が生まれたら、おのずとそれに反する生き方は、できなくなってしまうものだと思う。

それでは「うそ」はというと、「悪であることを自覚した上で、自分の意思でおこなう悪事」のことである。この「悪事」には、文字通り「救いよう」がない。

これからハうそをゆうたらそのものが
うそになるのもこれがしよちか

これからは嘘を言うたらその者が
嘘になるのもこれが承知か

おふでさき 12-111

という歌を、中山みきという人は残している。人間は嘘をついてしまったら最後、自分の存在そのものが「うそ」になってしまうということを言っているわけで、私はこの言葉を、至言だと思っている。

その「うそ」を言ってしまうところにまで、と言うよりも、「うそ」に「なって」しまうところにまで、彼女の息子の秀司という人は、行ってしまったわけなのである。中山みきという人が、あるいは「神」が、このことに心を痛めなかったはずは、なかっただろうと思う。そして彼女はこのことについて終生「自分の責任」というものを、感じ続けていたのではなかったかと私は思っている。

中山みきという人は、人間の「自由な精神」というものを、誰よりも大切にしていた人だった。人間が「悪しき心づかいを払う」ことは、「その人自身の自発的な意思」にもとづいてしか、可能にならないことなのである。「人から強制的にやらされること」に対しては必ず「むほんの根」を太らせてしまうように、人間の心というものは、できている。だから彼女は「どうせこうせこれは言わん」「これは言えん」「言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」と説いた。「人に教えられて気づく」のではなく「自分の力で気づく」のでなければ、人間は自分の間違いというものを本当の意味で「改める」ことはできないのだし、またすべての人間はそのことに「自分の力で気づく」ことができるように「つくられて」いるものだという確信が、中山みきという人には、あったのである。

その意味では、どんなに自分が「正しい」と信じていることであろうと、それを無理やり他人に押しつけようとするような行為は、「ほこり」を積むことにしかならない。このことを彼女は、自覚していたに違いないと思われる。

だから、と言うべきなのだろう。彼女が「声を荒らげて誰かを叱りつけた」ような事蹟は、私の知る限り、たったの2つしか記録されていない。ひとつは彼女が晩年に弾圧を受けて櫟本分署に拘留されていた時、夜中に「神の言葉」をつぶやいていて巡査から「婆さん黙れ!」と恫喝されたのに対し、「ここにおばんはおらん!」と怒鳴り返したと伝えられているエピソードで、この時の彼女は巡査より怖かったと、獄中で彼女の介護に当たっていた孫のおひささんは証言している。そして残るもうひとつの事例が、「立教」の時なのである。

だとしたら、「病のもとは心から」という中山みきという人の思想が現実世界の検証にさらされた正にその最初の瞬間において、彼女は秀司という人との向き合い方を、明らかに「間違えた」のだと私は思う。彼女の中には文字通り、「たすけたい一条の親心」しか存在していなかったはずなのである。危ないところに行こうとしている子どもを怒鳴ってでもハタいてでも引き止めようとするその「親心」のままに、「悪しき心づかいを払うこと」を彼女は秀司に対して、激しく迫ったのだと思われる。けれどもそのことは、彼女の思いに反して秀司を「恐怖で屈服させる」結果をもたらしてしまい、かつそのことと同時に、秀司の胸に一生消えない「むほんの根」を植えつけることにつながってしまった。このことを彼女は、生涯後悔し続けたに違いなかったはずだと思う。

中山みきという人は「失敗から学ぶこと」のできる人だったし、どんな挫折に直面しても「自己批判してやり直すこと」を恐れない強さを持った人だった。だから、と言っていいと思う。恐怖で人を屈服させようとするような「同じ間違い」を、私の知る限り彼女はそれから二度と繰り返していないし、また「病のもとは心から」という自らの信念についても一切これを曲げることなく、それで実際に数え切れない人々の心を苦しみから救いあげることにも成功した。けれども自分の行ないが秀司という人の心を「いがめて」しまったことに対する責任というのは、消えるものではない。そのことをめぐっての彼女の「責任の取り方」が、「立教」から32年後に開始された「おふでさき」の執筆作業という形で示されているのではないかと私は考えている次第であるわけなのだけど、それについて詳述することは次回の課題にさせてもらいたい。

「立教」のきっかけとなった出来事のひとつとして「秀司の足痛」が存在していたということそれ自体は、事実と言っていいことなのだろう。このことをめぐってよく引用されるのが、「おふでさき」の中で最も初期に書かれたとされている

これまでのざんねんなるハなにの事
あしのちんばが一のさんねん

これまでの残念なるは何の事
足のちんばが一の残念

1-31

という歌である。「ちんば」というのは足に「障害」を持った人に対する差別的呼称であるが、それを使う人間が「障害者」に対する差別意識を持っていれば、どんな「言い換え」をしようとそれは差別語になる。ここでは原文のまま紹介させてもらった。何しろこの歌は、秀司という人の「足を痛めた」ことについて、親神様がどれほど心を痛めていたかということを示すものであるという文脈で、引き合いに出されることが多い。

けれども、秀司が死んだ年の前年にあたる「明治」13年に書かれた「おふでさき」の15号には、

このはなし四十三ねんいせんから
むねのざんねんいまはらすてな

この話43年以前から
胸の残念 今晴らすでな

15-81

ということが書かれている。「立教」の年にあたる天保9年から43年間にわたってずーっと「残念」だったことが、中山みきという人の胸には、あったということである。その「残念」を「今こそ晴らそう」と言っている。この「残念」が、「秀司の足痛」という物理的現象のことを言っているとは、私には思えない。明らかにこれは、43年間にわたってずーっと「心得ちがい」を繰り返してきた秀司という人の「心のありよう」が、「残念」であると言っているのだと私は思う。

そしてそのように考えたなら、「足のちんばが一のさんねん」という上に紹介した歌も、決して「秀司が足痛を起こしたこと」を「残念」だと嘆いているわけではなく、むしろ秀司その人のことを、この「ちんば」め、と差別語をあえて使って呼び捨てで罵倒した上で、「おまえのことが残念なのだ」と激しい感情をぶつけている歌であるようにしか私には思えなくなってくるのだが、「それはさすがに言いすぎではないか」と感じる読者の方のほうが、今の段階ではまだ多数派なのではないかと思われる。だから話は飽くまでも順序を追って、進めて行くことにしたい。

何はともあれ次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。