「まんが おやさま」と「教祖絵伝」
中山みきという人の「公式」な伝記としては、天理教本部から出されている「稿本天理教教祖伝」がある。が、正直に申し上げて、全く心に響いてくるところのない本である。この本を読んでも、中山みきという人が「どんな人」だったのかというイメージは、一向に湧いてこない。
読み物として面白くなくても、そこに「事実」が書かれているのであれば、「史料」としての意味はあると言えるだろう。だが、初めからいろいろ細かいことを書いても仕方がないのでここでは詳しく踏み込まないが、「事実と全然違うことが書かれている」ということに関しても、この本には「定評」がある。
それにも関わらず、天理教の立場から中山みきという人について何かを書こうとした場合、この「稿本教祖伝」から逸脱する内容を書いてしまうと必ずその筋から批判を受けることになってしまうため、信者の方が教祖への思いを綴った個人的なエッセイから、真面目な研究者の方の綴った学術論文に至るまで、「事実でないこと」を下敷きにした関連文書ばかりが、量産されている現状になっている。と聞いている。
私の知っている「天理教の先生」は、「稿本教祖伝を読んで信者になった人間など、天理教には一人もいない」と断言しておられた。「ひたむきに人助けに生きる一人一人のようぼく(信者のこと)がいて、その一人一人の姿に存命の教祖の姿が垣間見えるからこそ、世間の人は中山みきという人は偉い人だと感心もしてくれるし、興味も持ってくれるのだ」とその先生は語るのだった。
なるほど天理教というのはそんな風にして世の中に広がっていった宗教なのだろうな、と私自身も自分につながる人たちの姿を見るにつけ、納得させられる部分もある。しかしそうやって「興味を持ってくれた世間の人」にお勧めすることのできる本が、その人自身にも全く感情移入することのできない「稿本教祖伝」しかないのだとすれば、天理教の先生をやっていくということはずいぶんしんどいことなのだろうな、と同情せずにはいられない気持ちになる。
これから全く新しい「中山みきという人の伝記」を書こうとしている私であるわけだが、ゼロから書き始めるというわけにはやはり行かない。下敷きとなる資料が、どうしても必要になる。しかし、ただでさえ面白くない「稿本教祖伝」を何度も何度も読み込んで、その内容を重箱の隅をつつくように検証して、といった作業で当面のnoteの記事を更新して行くのは考えただけでも気が滅入るし、読んでくれる人が増えてくれる見込みもないだろう。と思えてならない。
それで私は、考えたのだが、自分と中山みきという人との出会いはそもそも前回の記事で触れさせてもらったように、「教祖100年祭」の熱気で身の回りが沸きかえっていた1980年代、毎月母の実家に回ってきてくれる教会の会長さんが「おみやげ」のように置いて行く「天理少年」と「天理時報」に連載されていた、「まんが おやさま」と「教祖絵伝」を通じてのことだったわけである。それを読み直すことから始めてみるというのは、どうだろうか。
実は私の知人に、「まんが おやさま」の作者、とみ新蔵さんと知り合いの方がいて、その方を通じて「noteで先生の作品を使わせて頂きたい」とお願いしてもらったところ、快諾してくださったとの返事を得た。そんなわけで次回からは、読者のみなさんと一緒にこの作品を読み直してみることを通して中山みきという人のイメージを再構成してゆく作業に入って行くことにしたい。
ちなみに今回の記事のタイトル写真は、某教会から発掘された「天理少年」の1987年4月号の表紙である。およそ宗教雑誌と思えない攻めた絵柄のデザインに、80年代の息吹を感じる。この頃、「まんが おやさま」と一緒に連載されていた「宇宙人ピッコロ」とか「ピーマン共同体」とか、覚えている人は私の他にどれくらいいるのだろうか。
サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。