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【幕間】前鬼小仲坊訪問記
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天理教という宗教の「立教」に関する考察をまとめあげてからこのかた、私の筆は止まってしまっている。次に書くことが決まっていないわけではないのだが、新しく調べなければならないことがあまりに多すぎるのである。何から手をつけて行けばいいかが定まるまでは、おいそれと集中的な作業に踏み込むわけにも行かず、結局なにひとつ始めることができないまま、天理市の南の方に出かけて行っては、中山みきという人が子どもの頃に見ていたであろう風景を眺めるだけで、貴重な休日を空費してしまうことが、このかんずっと続いている。
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今までの天理教が「中山みきの教え」であるとして人々に説いてきた教えの多くの部分は、彼女の長男の秀司という人を中心とした教会組織の手によって、明治政府におもねる形で作りあげられた虚構に他ならなかった。ということが、次第に明らかになってきたわけではあるのだけれど、人のついたウソを暴くような文章ばかりいくら書いてみても、それで幸せになる人はどこにもいないのである。中山みきという人が本当に人々に伝えようとしていたことは、それならどういうことだったのかということこそが、明らかにされなければならないと思う。この風景の中で育った彼女は、どんな風にして自分の思想を培っていったのだろうか。
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彼女の実家から南に30分ほど歩いたところにある、柳本の町中の旧街道の交差点には、「真面堂」と呼ばれる建物が立っている。唐傘のような形のこの建物の正式名称は「五智堂」といって、大日如来を象徴する中心の心柱の四面には、東西南北の順番に阿閦如来、無量寿如来、宝生如来、釈迦如来をあらわす梵字がそれぞれ彫り込まれており、全体で密教で言うところの「金剛界五仏」をかたどった建物になっているのだという。幼い頃の彼女には、見知らぬ人々が行き交う街道沿いの東屋のようなこの建物の軒下で、あるいは旅の山伏から、あるいは地元の若い学僧から、聞かされるこの建物の由来や、そこからさらに踏み込んだ金剛界曼荼羅や胎蔵界曼荼羅の成り立ちをめぐる話に、目を輝かせながら耳を傾けていたような、個体史の一コマが存在していたのかもしれない。そういったことを想像する。
後年の彼女の教えの中に繰り返し登場する「かんろだい」という言葉は、信仰や礼拝の対象としての「ものの名前」ではなく、ひとつの「概念」ないしは「世界観」として受けとめるべき言葉なのではないかと私は思っている。そして彼女の世界観には、真言密教や修験道における「マンダラのイメージ」が明らかに大きな影響を及ぼしているというのが私の感触である。「立教」と呼ばれる出来事に先立つ40年間の人生の中で、彼女はどのようにしてそのイメージを自分のものにして行ったのだろうか。それを、知りたいと思う。
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ところで、私の高校時代のワンダーフォーゲル部の友人に、今では山伏をやっている男がいる。大学を卒業後に務めた大手の仏具店で営業をやっていた時に、得意先のお寺の修験者の人から「山伏になりませんか?」と声をかけられたのがきっかけだったのだという。世の中にはいろいろな人生があるものだと思うが、それを「ご縁」であると感じて正式な得度を受け、週5でサラリーマンをやりながら熱心に「お山」に通い続けている彼氏の気持ちが、同じように山が大好きな私には、何となく分かるような気がしている。
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もっとも自分がどうして山というものに魅力を感じるのかということを改めて問われたならば、自分でもうまく答えられる気がしない。その辺の事情は彼氏の方でも同じだと思うのだが、「山伏になる」という決断をして以降の彼氏にとっては、山に登るという行為は「山伏になる」という決断を通してしか得られない「意味を持つ行為」へと、変化を遂げているわけなのである。人間が生きること、また生きようとすることにそもそも意味はあるのか、という問いに対し、「意味などない」と喝破したのが釈迦であり、その「悟り」の境地に至るために修行することを勧めたのが、仏教の教えの出発点だったと私は理解している。けれども人間が「信仰」を持つこと、ないしは「信仰」を求めることは、それとは裏腹に、「意味などない」かもしれない人生に「意味を求め続けること」に他ならないのではないかという印象を、同級生だった彼氏の背中からは、受ける。
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「信仰心」というものは、実際に繰り返し山に登る行為を通して初めてその中から芽生え育まれてゆくものなのであって、初めから「信仰心」を持って山に登ろうと考える人などは、いないと思う。そして「山に登るということ」は、詮ずるところ「生きるということ」と同義のことに他ならない。私自身は中山みきという人とこれだけ長い時間をかけて向き合いながらもいまだ「信仰」を持つには至っていない人間なのだが、彼氏の姿に触れていると、人間の心に「信仰」というものがどうして生まれてくるのかということについて、様々なことを考えさせられてしまうのである。
山伏たちの間では、大峯·熊野の山々をそのまま空海が日本に請来した「両界曼荼羅」の世界に見立て、その中に自分を投じて修行するということがおこなわれているのだという。マンダラというものは、きょうびの時代、画像検索でもしてみれば誰にでも見ることができるし、また誰が見てもマンダラはマンダラであるわけなのだけれど、そこには「正しい見方」というものが存在しているらしく、その「正しい見方」が私にはよく分からないのである。上のリンクの記事の方は、たぶんnoteの世界では一番そのあたりの事情をよく理解しておられると私が思っている方で、マンダラの「意味」というものを「わかって」おられればこそ、この方には「新しいマンダラを次々に生成する」ということができておられるのだと思う。もっともこの方はそもそもの初めから「意味とは何か」という深遠なテーマをめぐってnoteを書かれている方なので、「意味がわからない」などという俗人めいた感想を私が吐露してしまったらやる気を削ぐことになってしまうのではないかとヒヤヒヤしてしまうのだが、何しろ中山みきという人には「マンダラの意味」というものが確実に「わかって」いたはずなのに私がそれをわからないでいたのでは彼女の伝記などいつまで経っても書けないではないかということで、最近ではこの方の書かれたnoteばかり、毎日寝落ちするまでいつまでも眺めているようなことが、続いている。とはいえそれを「美しい」と思うことはできても、やっぱり「意味」はわかってこないというのが、正直な気持ちである。
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山伏の彼氏ならそういう「マンダラの見方の基本」みたいなことも、一通りはわかっているのではないかと思ってあるとき聞いてみたところ、「確かに師匠からいろいろ教わっていることはあるが、部外者には話せない」などと、昔は一緒に冴えない高校生をやっていた間柄であるにも関わらず、いっぱしなことを言う。彼氏に言わせるならば大峯の山々には一木一草に至るまで、様々な神仏が宿っており、「あの岩には文殊菩薩が」「あの尾根には普賢菩薩が」といった口伝が細かく存在しているらしいのだが、それらはすべて、正式な「先達」について山に登った修行者たちに対してのみ、現場現場で教えてもらえる秘伝の範疇に入っていることであるらしく、軽々しく人に漏らしていいような話ではないらしいのである。当時から女人禁制だった大峯山はもとより、奈良盆地の外側の世界さえほとんど知ることなく終わったはずの中山みきという人は、それならどうやってそういったことを「勉強」できたのだろうか。きっと、男性には伺いしれないぐらいの「苦労」があったに違いなかったはずだろうと思う。
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とりあえず、わからないならわからないなりに、自分でも山を歩いてみれば何かがつかめるのではないかといったような気持ちから、最近は彼氏の後ろにくっついて歩くことが続いているのである。
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奈良盆地周辺には、いつから始まったことかは知らないが、男の子は15歳になったら先達者に連れられて大峯山に登ってきて初めて一人前のオトコと見なされる、といったような通過儀礼的な慣習が、古くから存在してきた。奈良市で育った私の周りでは、既にそんな話を聞くこともなくなっていたのだが、高校に入ってから知り合った磯城郡出身の同級生が通っていた中学校では、20世紀末の当時においても男子は大峯の山上ヶ岳へ、女子はその隣の稲村ヶ岳へそれぞれ学校から修行に行くという「伝統」が連綿と生き続けていたという話を聞かされて、歴史の分厚さに唸らされた記憶がある。公式の天理教の歴史の中には全く出てこない話ではあるけれど、ことによると中山みきの長男だった秀司という人や、また彼女の高弟だった人として知られている仲田儀三郎さん、辻忠作さん、飯降伊蔵さんといった面々も、若い頃にはそれぞれの形で山伏に連れられて大峯山に登拝した経験を持っていて、その「下地」があったからこそ、彼女の教えを「自然な形で」受けとめることのできていた側面があったのではないか、といったようなことが想像される。
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奈良県南部の山々では、大峯山脈の稜線づたいに吉野と熊野を何日もかけて行き来する「奥駈」と呼ばれる修行が、全国からやって来る山伏の人々によって、現在でも盛んに行われている。吉野山から山上ヶ岳までの区域は、女性に対しては一貫して門戸が閉ざされてきた歴史があるにしても、まだ「大衆的」な信仰の舞台だったと言うことができるだろうが、そこから「奥」の世界は「本当の修行者」の人々に対してのみ、垣間見ることを許された領域として、あり続けてきた。中山みきと同時代に生きたその周辺の人々の間でも、山上ヶ岳から南の山々にまで足を踏み込んだ経験を持つ人は、ほとんどいなかったのではないかと思われる。けれども「阿闍梨」の称号を持ち、「大峰山の十二先達の一人」だったと伝えられている長滝村の中野市兵衛氏のような人は、確実に何度もこの道を往来していたわけである。そこから市兵衛氏が「持ち帰ったもの」が、「立教」以前の時代にこの人に師事していたと伝えられる中山みきという人の心の世界に、影響を及ぼしていなかったはずは、なかっただろうと思う。
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私が子どもの頃の奈良県には、仕事仕事の毎日で生まれてから一度も海を見たことのないまま過ごしてこられたおばあさんなど、ザラにいたし、今でもそういう方は、いらっしゃるのではないかと思う。同じように一生海を見ることなく終わったはずの中山みきという人の心の世界に、「ふぐ」や「かれい」の躍動する創世の物語…それがどういう物語であったのかということについては、別に触れたい…が、どうして生まれてくることができたのだろうということが、私は小さい頃からずっと不思議でならなかった。結局彼女は、「耳から聞いた話」だけでそうしたイメージのすべてを築きあげるしか、なかったはずなのである。
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四天王寺の石の鳥居の向こうに沈む夕陽が美しかったという大坂の海なら、今の天理市からでも丸一日歩けば、見に行くことができたはずではある。けれどもその一日を作り出す機会を終生持てなかった、あるいは持たなかった中山みきという人の心の中に描かれていた「海」は、やはり人間の住む世界を遠く離れ、吉野川の六田の渡しから五日間かけて奥駈道を歩き通し、十津川村の玉置山の山頂にまでたどり着いたところでようやく果てしない山々の彼方に遠くその姿を現す熊野灘のように、遥かな異界としてある「海」だったのではないかといったような気が、私はする。この「やはり」の感覚は、あるいは奈良で育った人間の間でしか通用しない、独りよがりなものでしかありえないのかもしれないとも思う。しかしながら私は、自分の郷里に生まれそして同じ場所で死んで行った人々が、耳でしか聞いたことのない「海」というものを「信じて」生きていたその感覚に、こだわりたいと思うのだ。それは中山みきという人が、さらには彼女の教えの初期の信者の人々が、「神」というものを「信じる」ことができていたその感覚と、ほとんど違わないものだったのではないだろうか。
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私自身は、そんなことを考えながら、山の中を歩き続けている。
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さて、ここからは私が今まで書いてきた文章の流れから若干寄り道させてもらう形になるのだが、そんな大峯奥駈道のちょうど中間地点にあたる最も奥深い山の中には「前鬼」と呼ばれる場所があり、図書館で読んだ本で初めてその名前を知った中学生の時以来、私はこの地名の響きから、様々な想像力をかき立てられてきた。長いあいだ憧れの土地だったこの前鬼という場所に、この秋、上述の山伏の友人を通じて知り合った方に案内して頂く形で、初めて訪問させてもらえる機会があったので、その時のことを少しだけ綴らせてもらいたいと思う。
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伝説によるならば今を遡ること1300年の昔、大峯奥駈道を拓いた修験道の開祖である役行者という人が、修験者たちの便宜を図るため、前鬼と後鬼という夫婦の鬼に命じて山中に里をひらかせたのが、前鬼の村の由来であるのだという。その「鬼」というのが、吉野山の吉水神社に安置されている上の写真の木像のごとく、実際に角を生やした恐ろしげな存在だったのかどうかということはさておき、史実としてこの伝承に近いことは、確かにあったのだろうと思われる。記録に残っている限りでも平安時代以降、この前鬼という村は、奥駈修行の山伏たちにとっての唯一の補給基地としての役割を果たしながら、「鬼の子孫」を名乗る五鬼童、五鬼熊、五鬼上、五鬼継、五鬼助の五軒の家によって、中山みきという人が生きた幕末の時代に至るまで、脈々と守られ続けてきた。
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上の写真は1915年に撮影された前鬼の集落の全景であるらしいのだが、この村を存続の危機に直面させた決定的な出来事は、「明治」の初期に相次いで発せられた一連の「神仏分離令」であったのだという。この法令によって、神道の側にも仏教の側にも定義されることのできない「山伏」という存在が一時は全面的に非合法化されることになり、修験者たちに宿坊を提供することで暮らしを立ててきた前鬼の人々は、生活の基盤そのものを絶たれることになった。かつては五軒あった「鬼の子孫」の人々の家が、一軒また一軒と宿坊を畳んで山を降りることを選択していった中、最後まで残った五鬼助家の運営する小仲坊という宿坊だけが、苦難の時代をくぐり抜け、前鬼の村の灯を現在に至るまで、引き継いでおられる。前鬼という村がそうやって守られてきたのは、どんな弾圧と逆風の時代にあっても修験道というものを守り抜こうとしてきた信仰者の方々が、それだけ沢山存在していたことの結果でもあったわけである。その歴史に私は、触れてみたいと思い続けてきたのだった。
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前鬼の里の入口は、今からちょうど1年前の2023年12月に崩落事故を起こし、半年以上にわたって通行止めになっていた国道169号線の事故現場の、すぐ北側にあたる場所だった。ここから林道に入るとたちまちケータイが圏外になってしまうとのことで、軽トラを停めて家族に「最後のLINE」を送っておく。家人が電波の届かない場所に行ってしまうというだけのことで、こんなにも心配になってしまう感覚というものが現代人にはあるが、それなら家人が見知らぬ場所へと旅立って行くのを見送る時の昔の人の心配さというのは、どれぐらいのものだったのだろうかといったようなことを改めて思う。
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林道は、池原貯水池に流れ込む前鬼川の渓流を右下に見ながら、断崖絶壁を駆け上がるようにしてぐんぐんとその高度を上げてゆく。
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林道をしばらく進むと、暗くて長いトンネルがいくつも続く区間に差しかかる。この林道が開通する以前の時代に、麓の村から前鬼の里に上がるためには、「牛抱峠」と呼ばれる大変な山道を歩いて越える以外に、なかったのだという。どうして牛抱峠という名前がついているのかというと、この峠はあまりに険しくて、オトナになった牛ではどうしても越えることができなかったため、前鬼の人々は麓の村で買い求めた子牛を抱きかかえてこの峠を越え、里についてから育てて大きくする他に、田畑を維持してゆく方法がなかったからなのだとのことで、私はそうやってこのトンネルの上の道を運ばれてゆき、二度と下界を見ることなく前鬼の里で生涯を終えていった有史以来の無数の牛たちのことが偲ばれて、ならなかった。
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水たまりの手前でブレーキを踏んだ時にルームミラーに映った光景があまりにこの世のものとも思えなかったため、思わずブレーキランプをつけ直してシャッターを切らせて頂いた次第である。
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公道としての前鬼林道は小仲坊から2kmほど下ったところで終点になっており、そこから先は五鬼助さんの家の私道になる。本当ならば外来者はここで車を停め、歩いて前鬼の里を目指さねばならないのだが、今回は案内してくださる方が同行しておられたので、ゲートの鎖を外して直接小仲坊まで車を乗りつけさせてもらうことができた。少しのことにも先達はあらまほしきことである。中山みきという人の人生にもきっと先達と呼ぶべき人たちは、存在していたことだったろう。
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そして周辺の景色にもようやく人里の気配が漂いはじめてきた。
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前鬼小仲坊である。
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「天気が悪い中、よくこんな山の中まで来てくださいました。お風呂が沸いていますので、荷物は縁側に置いて、まずは温まって来てください。それからご飯にしましょう」。出て来て下さったのは小仲坊の61代目の当主、五鬼助義之さんだった。宿のご主人としては当たり前のご挨拶だったのだと思うが、実際にそこは本当に奥深い「山の中」で、こんな山の中でお風呂を沸かして自分たちのことを待ってくださっていた方がいたのだというそれだけの事実に、何やら胸がジーンと熱くなるのを感じてしまった。
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暖かいお風呂と温かいご飯、本当にただそれだけのことが、有史以来この山里でどれだけ多くの修行者の人々の心をあたため続けてきたことだろうかということを、改めて思った。もしも車で乗りつけるのでなく、奥駈道を三日歩いてたどり着く正規のルートでこの宿を訪れていたとしたなら、五鬼助さんの最初の一言だけで間違いなく自分は泣いてしまっていたことだろうと思う。
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前鬼の里には電話線だけは引かれているのだが、21世紀に至ってもいまだ電気は届いていない。夜の灯りは、自力で燃料を運びあげての自家発電に頼っておられるとのことである。五鬼助さんの話によるならば、たとえ5軒や6軒でも「集落」の体をなしている場所に対しては、どんな山奥であっても電気を引っ張ってこなければならない責任が行政の側に存在しているらしいのだが、第二次大戦後間もなくの時点で既に五鬼助さん一軒だけになっていた前鬼の村は他の集落一般と同じ扱いを受けることができず、「電気を引いてほしいなら自腹で架線工事をやれ」と没義道なことを言われて、それきりになっているのだという。前鬼の村を五鬼助さん一軒だけになってしまうまでに追い込んだのもまた「政治のやったこと」だったということを考え合わせるなら、何重にも理不尽な感じがしてきてしまう。
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五鬼助義之さんは1943年にこの前鬼の里で生まれた方だが、現在は大阪に住んでおられる。第二次大戦後、長きにわたってたった一人で前鬼に住み、小仲坊を守り続けてきた義之さんの叔父にあたる義价さんが1984年に亡くなられて以降、五鬼助家の子孫の方々は「通いで」この里を守りぬいてこられた。1990年代に弟さんから小仲坊の運営を引き継いだ義之さんは、月曜から金曜まで大阪でサラリーマンをやりながら、車で4時間かけて前鬼に通う生活を20年以上も続け、会社を定年退職されてからも、週末と宿泊予約のある日は必ず宿坊を開けに来るようにされているのだという。この日の宿泊客は私たちだけだったので、五鬼助さんご夫婦は本当に私たちのためにだけ、大阪から出てきてくださったのだということになる。「誰も来ない日でも見に来るんですよ」とは言って頂けたが、かたじけなさにますます頭が下がってしまった。
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義之さんのお連れ合いの三津子さんは、鳥取県のお生まれだとのことで、元々は前鬼とも奈良県とも、何らつながりを持っておられない方だったのだという。けれども義之さんが弟さんから小仲坊の運営をバトンタッチしてほしいという相談を受けた時、「やってくれるか?一緒に」という義之さんの言葉に「うん、やるよ!」と即答したという三津子さんの言葉があって初めて、前鬼の歴史は「つながる」ことになったわけなのである。女の人の生きる人生は往々にして男性のそれより遥かにダイナミックなものであるということを、こうした方を前にしていると、思う。もとよりそれは男性と女性とに社会的に与えられてきた役割の違い…それも明らかに不均等な…から生じた結果であるにすぎず、両者が生まれ持った違いということでは、全くないわけではあるのだけれど。
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食事の席で、大峯の女人禁制は「女性を危険な目に遭わせてはいけないという思いやり」から来ているのだという修験道の公式見解のような説明に話が流れかけた時、三津子さんはにこやかに笑いながらも、ピシャリと言われた。「まあ、こういうところはね。昔から男尊女卑なんです。それは、そういうもんなんです。でも、前鬼の女で、屋敷の裏から先の道に入って、深仙の宿から釈迦ヶ岳まで上がった最初の人間は、私なんですよ。そのことは、言っときますからね」。70年安保の時代に大学生をやっておられたというその頃のお姿が偲ばれる、キッパリとした語り口で、男性3人と女性ひとりで構成されていたこの日の会席者の中で誰よりも堂々とされていたのは、間違いなくこの三津子さんだった。
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ロシア革命を勝利に導いた革命家の一人であるトロツキーという人が、「文学と革命」という本の中で、「我々マルクス主義者はみな等しく歴史と伝統の中に生きており、しかもそのことを理由に革命家であることをやめた者は、我々のうちには一人もいなかったのである」と語っていた言葉を、私は思い出した。「政治」を「職業」にしている人々は、誰もが自分の正しいと信じる形で「時代を変える」ことを、自らの「職能」だと心得ている。のだと思う。けれども本当の意味で「歴史を変える」ということは、この三津子さんのような生き方をされている人にしか成しえないことなのではないかということを、私は思った。そして中山みきという人も、おそらくは、そういう女性だったのである。
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やがて酒が入り、義之さんが昔語りを始めてくださった。学問の世界では「言語島」と呼ばれている奈良県南部の山岳地帯で育たれた方だからだろうか、義之さんの語る言葉は我々奈良盆地周辺の人間が使っている京阪アクセントとは全く違った、東京のアクセントに近いハッキリとした語り口で、そのことが私に対しては、「違う世界」にやって来たのだという印象をいっそう強く感じさせた。
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「まあ、私らは、鬼の子孫なわけですけどね。鬼っていうのはもともと、農耕民族とは違う生き方をしていた民族のことだったんじゃないかと思うんです。だから昔からこういう高い山の上に暮らしていたのが、私らの先祖の生き方だったんじゃないかと思うんですね」
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義之さんの話は、自分が「鬼の子孫」であるということの説明や前置きなど一切なしに、最初からそれを前提とした形で語り出された。「鬼」なんて実際、本当にいたんでしょうか、といったような「問い」は、そうなってみると成立しなくなってしまうものなのだということが、わかった。目の前の五鬼助義之さん本人が、自分は「鬼」の子孫として生まれてきたとした上で、「鬼の立場」から「鬼の気持ち」を語ってくださっているわけなのである。自分が「人間」であるという自覚を持って生きている我々には、飽くまでも「人間の立場」からそれを受けとめて、「鬼の気持ち」というものに想像をめぐらす以外、とるべき態度を見つけようがない。「神の言葉」として「自分の言葉」を語っていたという中山みきという人と直接向き合っていた当時の信者さんたちの感覚というのは、こういうものだったのだろうかということを改めて思った。
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同時に、自分がそうした「一般の人とは違った出自」を持っていることを、隠すのではなく誇りを持って語ることができる人生というのはどれだけ幸福なものなのだろうかということを、部落差別の中で生きている人々の気持ちを少しだけ知っている私は、少しだけ思った。自分が「鬼の子孫」であることを、五鬼助さんが胸を張って語ることができるのは、前鬼の里で暮らしてきた「鬼の子孫」の方々が、歴史を通じて周辺の世界から「大切にされ続けてきた」ことの証に他ならない。すべての人がそんな風に自らの人格を尊重され、自分が何者であるのかを胸を張って語ることができるようになれたら、それはどんなにか素晴らしいことだろうかと思う。
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「それで、こんな風に高いところに暮らしておりますとね。下界のことがよく見えますでしょう。あのあたりの田んぼの色が悪いから、あの辺は今年は米の出来が良くないだろうとか、あの川はあそこでああいう形で折れ曲がっているから、あの先に住んでる人たちは水害に気をつけないといけないとか、そういう風に、下界の人たちがどういうことで困ってるかっていうことが、私の先祖のいたところからは、下界の人たち以上によく分かったんじゃないかと思うんです。それで困ってる人たちを見つけては、その人たちのところまで降りて行って、困らなくて済むように助けてあげるっていうことが、私の先祖である鬼の仕事だったんじゃないかって思うんですね。鬼っていうのはずっと昔からそういう風に暮らしてきたんだって、私たちは思ってるんです」。
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…五鬼助さんから語られる鬼の話は、私がそれまでに聞いてきたどんな鬼の話とも違っていた。と言うよりも、「鬼目線で語られる鬼の話」というものを私は初めて聞かせてもらったことになるわけなのだが、相手のことを知ってみればこんなにも優しくて善意にあふれた存在である「鬼という他者」のことを、我々人間の側は一貫して「人間の心が通じない恐ろしい存在」であるとしか、語り継いでこなかったわけなのである。だとしたら今まで人間は、いったい鬼の何を見てきたのだろうと思った。
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少なくとも、「鬼滅の刃」というあの物語は、全面的に描き直されねばならないことになるのではないだろうか。それくらいのことを、私は思った。
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その後、こちらが喋る番になり、私は自分のことを正直に話した。天理教の家に生まれたが、戦争に協力した歴史や、差別と闘わない教義を受け入れていい気になれず、ずっとそこからは距離を置いて生活してきたこと。しかしながら、天理教という宗教の教祖として位置づけられている中山みきという人は、決して「そんな人」ではなかったはずだということに気づかされる契機があり、本当の彼女はどんな人だったのだろうということを現在は調べ直しているところなのだということ、その過程で、彼女はきっと修験道というものからも何らかのことを学んでいたはずだという関心から、今日はこの前鬼まで足を運ばせて頂いた次第であること、等々。
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中山みきという人は、「天皇も百姓も同じ魂」だという教えを説いたから、明治政府に弾圧されたのだということに話が及び、それにも関わらず天理教という宗教は天皇制に屈服して、差別を否定しないような宗教に成り下がってしまっているから、自分は魅力を感じないのだ、と私が酔っ払い気味にぶちまけたことに対し、「修験道の方でもそれは同じなんですよ。明治の廃仏毀釈の時には、何千人もの山伏が投獄されているんです」と、五鬼助さんは教えてくださった。そして、「修験道っていうのは、本来的には反体制的なものなんですよ」と付け加えられた。
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話はそこから、林実利という、幕末から明治を生きた修験者の人のエピソードへと動いた。天保14年(1843)年に岐阜県で生まれた実利行者は、25歳の時に御嶽山で出家し、明治政府による修験道への弾圧が開始されたまさにその時期に大峯山に入って、厳しい修行を行なったことで有名になり、多くの信者を集めた。「神仏分離令」に続いて「修験宗廃止令」が布告され、弾圧がいっそう激しくなって以降も、大台ヶ原での千日修行や、南奥駈道の再建など、修験道の復興の日に向けて力を尽くし、最後は座禅を組んだまま、落差133mの那智大滝の天辺から「捨身入定」を果たして、その生涯を終えている。中山みきという人もいまだ存命中の、明治17年4月21日の出来事だったとのことで、今でもこの実利行者の足跡を慕い、ゆかりの場所だった前鬼の里を訪れる修行者の方々が、多くいらっしゃるのだという。
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「捨身行」というのは決して「抗議の自殺」や「抵抗の表現」のようなものとしてあるものではなく、純粋に人々の幸せを願っておこなわれる究極の利他行為であり、実利行者が示した生き方と死に方は、まさに修験道に生きる人間が理想とするところなのだという話を、私は別なところで聞いたことがあった。むろん、それだけ聞かされても、私には「なるほど」とは思えない。「死んだらあかんやろ」という感想しか出てこないのが、正直なところではある。
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三津子さんは言われた。「でも、ここにいると、思いますよ。山伏の方々は本当にずっと昔から、世の中の人々みんなの幸せを祈りながら、この山の上を歩いて来られたんだろうなって。今日ここに来る途中の車のラジオでも、言ってたんですけどね。世界中の人たちが、自分の幸せのことだけを考えるんじゃなくて、他の人みんなが幸せになって初めて自分も幸せになれるんだってことを考えて生きるようになったら、それだけで世の中は今よりずっと良くなるはずなのにってね。私、それは本当にそういうものなんだろうなって、思うんです。それで、そんな風にして、世の中の人々みんなの幸せを祈りながら山の上を歩いてる人たちのお世話をさせてもらってきたのが私たちの仕事だったんだっていう風に思ったら、すごく納得できるような気が、私は、したんですよ」。
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ずっと昔から、山伏の人たちは、世の中の人々みんなの幸せを祈りながら、山の上を歩き続けてきた。三津子さんがそう表現された言葉の意味を、寝床に入ってからも私はずっと、考え続けていた。自分もやっていることではあるのだが、たった一人で山の上を歩き続けるというそのことが、「世界中の人々の幸せ」と、どうつながってくることになるというのだろうか。本当に「他の人の幸せ」のために生きたいというのであれば、具体的に誰かのために働くとか、具体的に誰かのために金を出すとか、そういう風に自分の身体を使うことをまず考えた方がいいのではないだろうか。といったような、今までに数えきれないぐらいの人々がそう考えてきたであろうことと同じようなことを、私もまた考えた。
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けれども、そうした人たちは間違いなく歴史を通じて存在し続けてきたのだし、今でもなお存在し続けている。そしてそうした人たちが築きあげてきた営みがあって初めて、中山みきのような人が世に出てくることのできた条件もまた、世の中に形成されることができていたわけなのである。そのことは、見ておかねばならないと思った。そしてそれ以上に見ておかなければならないと思ったことは、中山みきという人が生きた時代には、彼女の他にも人々の幸せを本気で考えて宗教的実践をおこなっていた人々がそれだけたくさん存在していたのだという事実であり、そしてそのそれぞれの人々の思いが本物であったならば、その尊さやかけがえのなさに上下や優劣などあったはずがないのだという事実だった。
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「昭和40年代ぐらいまでは、ニホンオオカミを探してるんだって方がよくここまで調査に来られましたよ」と義之さんは言っておられた。「ああ、その頃やったら、まだ本物のオオカミの声を覚えてはる人とか、いてはったんでしょうねえ」。「そうですよ。私はもちろん、聞いたことはないんですけどね。親父なんかは、昔はよく聞いたもんだって言ってました。遠吠えするような長い声でね。ウォーーウって言うんですってね」。
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もし今この山の中で、「オオカミの声のような声」や「オオカミの糞のような糞」に出会うことがあったとしても、それが本当にオオカミの声でありオオカミの糞であるのかということを「知って」いる人がそれを証明してくれることがない限り、オオカミが今でも生きているのかどうかを知ることは、結局我々にはできない。それを覚えている人々が一人もいなくなってしまった時に、ニホンオオカミという生き物は、本当の意味で我々の手の届かないところへ行ってしまったのだということを思った。オオカミがまだ確実に奈良県の山々に生き残っていた時代に生きていた中山みきという人は、オオカミの声を知っていたのだろうかと思った。
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中山みきという人は、本当に絶妙な時代に生まれそして死んで行った人だと思うことがあって、もう一世代遅れて生まれていたならば確実に残されていたはずの写真や肉声の録音といった資料が、公式には一切残されていない。だから彼女は「神話」になることのできた最後の世代の人だったのではないか、といったようなことを考えることがある。けれどもそんな彼女の時代に思いを馳せる我々自身も、実は「ギリギリの時代」を生きていて、たぶんその時代を生きた人々の姿に辛うじて具体的な想像の手が届く最後の世代が、いま生きている我々の世代なのである。時間はほとんど残されていないのだということを改めて思った。
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私が書こうとしている中山みきの伝記のための準備作業は、これからようやく、彼女が自らを「神」と宣言して以降の時代に差しかかろうとしている。
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けれども彼女の生きた人生のことを本当に知りたいと思ったなら、私はいよいよ数えきれないぐらいの人々の人生と本気で向き合わなければならないことになるのだと思う。
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そんな課題が明らかになった、前鬼小仲坊への旅だったと思っている。
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今年は結局、ここまでしか書きあげることができなかった。2025年もよろしくお願いします。
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