6,000人の命を救った外交官、杉原千畝
ロシアによるウクライナ侵攻から1年が経過。いまだ事態は収束に向かうことはなく、日々、命が危険にさらされ、多数の難民が近隣諸国に助けを求めている。
およそ80年前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救った一人の日本人がいた。政府の訓令に背き、独自でビザを発給した外交官「杉原千畝」の博愛精神をたどる。
ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始してから一年が過ぎた。理不尽な戦いに終わりは見えず、現在でもウクライナ国内では日々犠牲者が出ている。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、2023年1月時点で近隣国に逃れた「難民」は約800万人、避難をしたが国境を超えていない「国内避難民」は約600万人にのぼる。人口のおよそ35%に及ぶウクライナ人が祖国から離れることを余儀なくされている。ロシア・ウクライナという二国間の問題にとどまらず、難民を受け入れる近隣諸国の経済的問題もまた、深刻化している。
時を80年程さかのぼり、第二次世界大戦中のヨーロッパ。そこでも同じく国際的な難民問題があった。ナチス・ドイツの迫害から国を追われ、他国に入国しようとするユダヤ人たちに、各国はどのように対処するのか頭を悩ませていたのである。安易に難民を受け入れることで国内の治安が悪化することを恐れた日本政府は、日本通過ビザの発給に「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などの規約を設けた。しかし、続く戦況の中で規約を満たす者は決して多くはなく、ユダヤ人は他国へのルートを閉ざされ、ナチスの脅威にさらされていた。
そんな中、政府の方針に背き、通常なら決して入国許可が出ないユダヤ人にも独断でビザを発給した日本人がいた。外交官、杉原千畝(ちうね)である。
1940年7月、杉原が勤めるリトアニアの領事館に、他国への脱出の鍵であるビザを求めて100人以上のユダヤ人が詰めかけた。
その大半は、先述の規約を満たしていなかったが、なんとかして救いたいと思った杉原は二度、外務省にビザの条件を緩和するように電報を打った。しかし、その願いが最後まで許可されることはなかった。杉原は一晩苦悶したのち、「人道、博愛精神第一という結論を得た」とし、政府に背き、独自でビザの発給を始めた。2か月間で発給されたビザは2,139枚。ビザは1家族につき1枚必要だったことから、杉原は少なくとも6,000人以上の命を救ったといわれている。
未曾有の大戦で自身の明日も分からない中、信念に基づいた杉原の行動は誰もができることではなく、高く評価できる。まして、上層部の意向に背くことなど、当時の日本の体制を考えると生半可な気持ちではできなかっただろう。他国の領事館ではビザの発給と引き換えに法外な代金を請求していたという史実からも、杉原に関しては純粋な博愛精神のもと、ビザを発給していたことがうかがえる。
条件外の難民に対して無闇にビザを発給することは、受け入れ側である日本国内の治安悪化の恐れもあるだろう。実際、当時の警察が外務省宛に記した文書には「避難先までの旅費を持たないユダヤ人が日本にとどまっているため、取り締まりに苦慮している」とあり、混乱した状況がうかがえる。
しかし、杉原の行動は、ナチス・ドイツが行った非人道的な差別行為に婉曲的に“NO”を表明したことになるのではないだろうか。今なお現代に残る人種差別を鑑みると、杉原の「命のビザ」は後世に語り継ぐべき人類愛の精神が具現化されたものだといえ、現代の国際社会でも意義があることだと考えられる。
時を現代に戻し、2022年4月。ナゴヤドームの前では青と黄色の国旗を掲げたおよそ30人の学生たちが募金を呼び掛けていた。名城大学の稲葉教授とその学生たちが設立した「杉原千畝ウクライナ難民募金」の活動である。支援金はリトアニアに住むウクライナ難民が言葉や技術を習得するために使われる。
杉原を研究してきた稲葉教授は、その人道的な行動を評価しつつ「当時、ユダヤ人たちが救われた要因はビザだけはない。各国にいるユダヤ人からの援助金も両輪となって効果を発揮した。人命を救うにはビザだけはなく、資金や協力機関が必要だ」と語る。杉原の英断からおよそ80年、日本には今なおその強い信念が引き継がれている。
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