
雑誌を作っていたころ023
取材完了
とにかく「茶の湯紀行」の取材はスタートした。ぼくは京都に行き、祇園ホテルに陣取って、この号とこれから先を固めるために、毎日いろいろな人に会いに行った。
「別冊太陽」のころにさんざんお世話になった祇園ホテルだが、じつはこの歳になるまで京都のほかの宿を知らない。修学旅行で泊まったのはもちろん別の宿なのだが、記憶がない。なぜこのホテルがいいのかと言えば、とにかく祇園や木屋町に至近であること。べろべろに酔っぱらっても、這って帰れるロケーションであることは、とてもありがたい。
京都では連日、歴史家の百瀬明治氏に会い、飲んだくれながらいろいろなアイデアを練った。京都における文壇バーである「蘭」に毎日顔を出し、ママからもいろいろな知恵を授けてもらった。とにかく、京都の文化人は人脈。ぼくの武器と言えば「元平凡社」しかないのだから、それを頼りにつながりを広げるしかない。
ホテルには毎日、取材班から電話がかかってきた。市役所の観光課から文句を言われたとか、取れたと思ったアポが取れてなかったとか。そのたびに、「とにかく本を出すために善処しなさい」と励ました。編集部という組織は、官僚社会ではない。編集長と言っても、たいした権限はないのだ。それぞれの編集者やカメラマン、デザイナーやイラストレーターが最大限の仕事をするようにお膳立てをする。そのための存在でしかない。
あんまり取材チームからの文句が多いので、ぼくは一計を案じた。
「今回の取材写真の中で、最高傑作を表紙にする。その取材チームはみんなの前で表彰する」と。
たちまち文句はやみ、各地の編集者とカメラマンのコンビは、早朝から日没までいい写真を求めて走り回ることになった。
ぼくも京都から戻り、横浜・鎌倉の取材でかけずり回る。詩人の白石かずこ氏と横浜・三渓園を取材し、道中ずっとアレン・ギンズバーグの話を聞かされた。おもしろいおばさんだった。
すべての取材が終了し、現像が上がると、ぼくは長原のひさご寿司に電話して、二階の座敷を予約した。「別冊太陽」恒例の、「ラフレイアウト」を再現するためである。「別冊太陽」は、1冊分の取材が終わると、雑誌部長の馬場さんを六階の座敷に招き、デザイナーとともにカラーページの編成をするのが恒例だった。馬場さんは青人社の社長になってから、すっかり経営に翻弄されていたので、昔に戻ってもらおうと思ったのだ。
デザイナーの池田枝郎氏と編集スタッフ、そして馬場さんが座敷に陣取り、懐かしい「ラフレイアウト」が始まった。