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雑誌を作っていたころ029
新人採用
青人社始まって以来の「正規採用」がスタートした。ぼくは広告代理店に入稿する求人広告の文案を作り、ペーパーテストの問題を作り、学研の各部署と調整のためにかけずり回った。
それと並行して、広告部長と営業顧問のヘッドハンティングも行われていた。ぼくはそちらにはタッチしていなかったが、学研広告部から推薦されてきた部長と顧問が広告部に内定し、立風書房の常務だった人が営業顧問として内定した。
採用試験では営業部員1名と広告部員1名、それに編集部員も1名入れた。
学研から出向で来ていた「おとこの遊び専科」編集長と、「日本こころの旅」編集部員は、このタイミングで学研に戻された。「等身大ヌードポスター」の発案者であった葛西編集長はこの後しばらくして交通事故で亡くなった。学研に戻ってからは、すっかり元気をなくしていたという。気の毒な話だ。
ぼくにとって最大のイベントは、会社の引っ越しを任されたこと。広告部と営業部を抱えることになっては、長原のスーパー2階ではいかにも手狭である。そのために、馬場社長の悲願であった「山手線内への引っ越し」が実行されることとなったのだ。
候補物件は学研が借りている不動産の中から探さなければならない。いくつかの候補を見て回り、渋谷区広尾1丁目の長谷部第3ビルに決定した。広さは約50坪。家賃は上がるが、志気も上がる。ぼくは不動産屋からもらった部屋の図面をたくさん拡大コピーし、什器備品のレイアウトを始めた。
青人社最初の引っ越しは、喧噪の中に無事終了し、ぼくはすべての役目を終えて、肩の荷を下ろした。新しいオフィスは明治通りに面した日当たりのいい5階だ。それまでの商店街とはうってかわった、オフィスらしいオフィスである。でも、チンドン屋がくるたびに会議を中断した長原のオフィスが懐かしくもあった。
こうして新生・青人社は、独立した出版社としての第一歩を踏み出した。「2年で倒産」という不吉な予測は気分を重くしたが、「やってみなくちゃわからない」という半ばやけっぱちの決意で、ぼくらは未知の世界に足を踏み入れたのだ。
「神風」が吹いて、空前の好景気に全員が腰を抜かすのは、それから半年後の話だ。