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雑誌を作っていたころ072

PR誌作りに参加する

 月刊「ドリブ」の編集スタッフだったころ、デザイナーの池田枝郎さんに誘われて、あるパソコン誌の編集部に遊びに行ったことがあった。廣済堂出版が出していた「月刊RAM(ラム)」という雑誌である。当時はパソコンの黎明期で、インターネットはおろか、フロッピーディスクもまだ普及していなかったから、パソコンの知識を得るのは紙媒体が中心だった。

 NECのPC8001、8801、シャープのMZ80B、日立のベーシックマスターレベル3、富士通のMicro 8、沖電気のif800あたりが人気機種で、ユーザーはおもにゲームで遊んでいた。

 そのころは市販のアプリ(当時はプログラムとかソフトと呼んでいた。ソフトバンクはその流通業から身を立てたのだ)を買うよりも、雑誌に掲載されていたプログラムを打ち込み、動かして楽しむのが主流だった。BASICや機械語で書かれた長いプログラムを1文字の間違いもなく正確に打ち込まないとちゃんと動かない。しかも、少し打ち込むごとにこまめにセーブしないと全部がパーになってしまうことがある。あのころのパソコン趣味には忍耐力が必要だったのだ。

 そのためパソコンユーザーにとってパソコン誌は、貴重な情報源であると同時に新たなアプリの供給元でもあった。そのため、書店の棚はあっという間に各社が出すパソコン誌で埋め尽くされた。それ以前は趣味の雑誌の王様といえばクルマ雑誌だったのだが、それがパソコン誌に取って代わられた。

 アスキーの「月刊アスキー」、工学社の「月刊I/O(アイオー)」が双璧で、それに続いて電波新聞社の「月刊マイコン」が存在感を持っていた。遊びに行った「月刊RAM」はその次の4番手くらいの存在だったと記憶している。

「月刊RAM」の編集部は楽しかった。編集長の森さんはつかみどころのない人だったが、人当たりのいい遠藤さん、坂本さん、郷内(ごうない)さん、紅一点の小和田久美子(現在は高橋久美子)さんたちと遅くまで歓談した。そして、「ドリブ」の仕事が忙しくないときに「月刊RAM」でアルバイトをすることになった。

 その機会はあまり多くなかったが、登場したばかりの任天堂ファミリーコンピュータ(いわゆる「ファミコン」)でマリオブラザーズ(スーパーマリオの前のゲーム)を大笑いしながら遊んだものだ。

 そのときの人脈がのちのち役に立った。坂本さんはやがてサイエンスライターとして独立し、同業者としてお互いに切磋琢磨する存在となる。郷内さんはパズル作家として有名になり、PHP研究所から本を出すときに編集者として組ませてもらった。高橋久美子さんには校正やテープ起こしの仕事を手伝ってもらっうようになった。

 あるとき、坂本さんから仕事仲間を紹介してもらった。カメラマンの岡崎秀美さん(男性)と編集者の山口澄子さんである。その2人が新しくスタートするPR誌のライターを探していたので、坂本さんがぼくを紹介してくれたというわけだ。

 新しいPR誌というのは、台湾のコンピューターメーカーであるエイサー(Acer)の日本国内向け媒体だ。年4回の季刊で発行するのだという。ただし予算があまり潤沢ではないので、8〜12ページを1人のライターが書く必要があった。そこで、ある程度パソコンに詳しく、インタビューでも資料からの書き起こしでも対応できるライターとして、ぼくに白羽の矢が立てられたということだった。

 本当は坂本さんこそ、この仕事にうってつけなのだが、あいにく他に抱えている仕事があったので、ぼくに譲ってくれたのだろう。まことに友というのはありがたいものだ。

 エイサーのPR誌「Tell Acer(テル・エイサー)」はそれからほどなくしてスタートした。創刊0号では、日本メーカーの製品では見たこともない、きらびやかなノートパソコンを特集した。欧米のどんな製品とも違う、尖っているけれども嫌味のないデザインは、やがてこのメーカーが大きな存在感を持つようになることを予感させた。


「tell acer 0号」表紙。


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