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雑誌を作っていたころ090

広告研究会創立50周年記念誌


NHK「おかあさんといっしょ」でかつて一世を風靡したアニメのコーナー「こんなこいるかな」のキャラクター作者である有賀忍さん。この方はぼくがかつて所属していた学習院大学広告研究会の大先輩である。

実はこのクラブが創部50周年を迎えるころ、OB会で「記念誌を作ろう」という機運が持ち上がった。クラブの記念誌は「ラ・レクラーム」という名前で現役の執行部が引退して4年生になったら作るものだった。

だがその伝統はいつしか途絶え、ぼくらの後には1号しか出ていない。それをOBの手で復活させ、創部50周年記念号としようという計画なのだった。ぼくはOB会の役員会にいたので、当然のように編集責任者となった。そしてその号の表紙を、恐れ多くも有賀大先輩にお願いしていたのだ。

「こんなこいるかな」は、我が家の子供たちも喜んで見ていた。有賀先輩からどんな表紙が届くのか楽しみだったが、非常にシックで奥行きのある原稿だった。しかもレイアウト済みで編集者がいじる余地は残っていなかった。

有賀先輩は10歳以上も年上だが、原稿のファイルはきちんと作成されていて、何の問題もなかった。さすがはプロである。原稿を眺めていて、あらためてすごい人にノーギャラで仕事をお願いした自分の厚顔無恥ぶりに震えがきた。

作った記念誌はB5判無線綴じ144ページのボリュームだ。表1は有賀先輩が作成し、表4は第1期の坂本先輩の会社、冨山房インターナショナルの広告原稿がすでに手元に届いていた。これらだけが4色ページで、残りの表2、表3、本文は1色だ。

編集制作で問題となったのは、圧倒的に編集者が不足していることだった。書き手はスポーツライターの李春成くんや教育関係の著書がある山本紫苑さんといった頼れる後輩がいるし、「広研50年史」のとりまとめは、リサーチ関係が得意な品田潤子さんたち後輩諸氏にお願いした。だが、それらの材料を誌面に加工するのはぼく一人だった。

思えばこの雑誌の編集制作に先立つこと33年前、「ラ・レクラーム」の「Vol.8」をぼくらの代で作ったのだった。あのころは雑誌作りのイロハも知らず、必死で原稿用紙を(もちろん手書きで)埋めていた。あのころはタイプ印刷で誌面を作っていた。その時のことは「雑誌を作っていたころ001」に書いた。

それがDTPに進化したおかげで、一人編集部でもかなりのことができるようになった。そのおかげで、学生時代よりはクオリティの高いものが作れる。こちらもプロのはしくれだから、学生時代に作ったものより見栄えが悪かったら、立場がないのだ。ある意味ではそれがプレッシャーではあるのだ。

かつて作った雑誌の表紙イラストは、わが代の委員長だった若井公一くんの作品だった。彼はその後電通に入って局次長まで出世した。50周年記念号にはぼくらの代で見開き広告を出稿することになったが、その細目を打ち合わせるために彼と久しぶりに会った。卒業してから何かをコラボするのは初めてのことだった。

考えてみるとこの記念号は、ぼくにとって念願の「1人出版社」をついに実現した出版物といえる。執筆こそ李春成、山本紫苑という2人の後輩であり業界でのプロである人物の協力を仰いだが、編集はすべてぼく1人でやりとげた。プロのクオリティの雑誌がDTPを使えば1人で作れるという事実を確立した仕事となった。


表1と表4

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