雑誌を作っていたころ002
平凡社に入社
卒業目前になるまで、就職が大変なことだとは思っていなかった。
というより、真剣にそのことを考えていなかったのだろう。なんとなく、なるようになって、どこかの会社員におさまる。そんなふうに漠然と楽観視していたような気がする。
しかし現実は甘くなかった。「ホメイニ師」という名前が連日新聞に登場するようになり、その騒動はやがて第二次オイルショックとなってこの国を揺さぶった。
「来年は理学部卒は採らないよ。即戦力の工学部ならともかく、理学部は研究職だから」
会社訪問でそう聞かされ、理系の就職が困難であることを思い知った。
「オサムちゃん、就職どうなった? わたしね、出版社受けることにしたの。それで、感想文出さなきゃならないから、一緒に本屋さんに行って選ぶの手伝ってくれる?」
友人の妹で、彼女だったり、友だちだったりした敦子が電話してきた。気晴らしに池袋の芳林堂書店に出かけた。
彼女が受けたいという平凡社は、日本屈指の百科事典を出版している会社だ。よく「平凡パンチ」の平凡出版(現マガジンハウス)と間違えられるが、まったくの別会社だ。凡人社という社名だった平凡出版が、「書籍は出さないから『平凡』の文字を使わせてくれ」と頼み込んできて了承したと聞いた。
彼女に池波正太郎のエッセイ集『散歩のとき、何か食べたくなって』を選び、自分用に宇宙科学の本を手に取った。なぜだかわからなかったが、受けてみたくなったのだ。
彼女は書類選考で落ち、ぼくには筆記試験の案内が届いた。
「読んでみるとおいしそうで、よだれがたれそうになりました」の繰り返しである彼女の感想文では、そうなっても仕方がない。何度もそのことを指摘したのだが、
「思った通りに書かないと、わたしの文章じゃない」
と、取り合ってもらえなかった。
試験会場には、驚くほどたくさんの学生がいた。どこかの試験と重なっているのかと思ったが、すべて平凡社を受ける人たちだった。あとで聞いたが、応募者は3000人、筆記試験を受けた人は1000人だったという。合格したのはぼくを入れて4人だったから、すごい倍率だ。それを知っていたら、受けなかったと思う。
研修期間中に労組の人が来て、
「会社が用意しているポストは、百科事典、雑誌、広告、製作だ。お前たちがどこに配属になるかは、課長たちの綱引きで決まる。ま、がんばれよ」
と言った。
なぜそんなことがわかるのか不思議だったが、どこでもいいと思っていた。
内定していたのは3人だった。東大の男は内定を蹴ったそうだ。「大学院に行く」と言ったそうだが、本当かどうか。
ともあれ、3人はすぐに仲良くなった。京大の林屋、慶大の内田、それに学習院のぼくだ。
居酒屋でお互いがどこに配属されるかを予想した。
労組の人が言っていた職場を自分たちのプロフィールに当てはめてみたのだ。
林屋は東洋史専攻だったから、きっと百科だろうと予想が付いた。
内田は勝手に雑誌だと思い込んでいた。
ぼくは広告研究会だったから、きっと広告部だろうと思った。
だが、全部違っていた。
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