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雑誌を作っていたころ032

Macとの出会い

 広尾1丁目にあった青人社の最寄り駅は、JR山手線と地下鉄日比谷線の恵比寿駅、または地下鉄日比谷線の広尾駅だった。日比谷線というのは意外に使えない路線で、六本木、日比谷、築地あたりに用事がないと、乗る機会がない。なのでぼくらはもっぱら、恵比寿駅周辺を徘徊していた。

 当時、恵比寿駅のそばに、キヤノン販売がやっている「ゼロワンショップ」があった。ぼくはどんな分野でもショールームと名の付くところが大好きなので、よく暇つぶしに遊びに行った。何度も行けば顔見知りの人ができるのは自然の成り行きで、ぼくにも挨拶をしてくれる人ができた。

 当時のゼロワンショップといえば、Macつまりアップルコンピュータのマッキントッシュを売る店だ。しかしぼくはMacを「パソコン界のポルシェ」程度にしか認識していなかったから、ひやかし以上の興味はなかった。それなのに社長を騙して総額300万円の稟議を通し、以来四半世紀以上にわたるMacファンとなった原点は、このゼロワンショップにある。

 どういうきっかけで見積書をもらうまでに話が発展したのか、今となっては忘却の彼方だが、たぶんぼくが自分の仕事の内容を事細かに説明し、対応した営業マン(まことに申し訳ないことに名前を失念している。名刺ホルダーをくまなく探せば見つかるのだが、ここで固有名詞を出す必要もないだろう)が熱意を持ってそれに対応したからだと思う。

 当時のぼくは、DTPという言葉も、その概念も会得してはいなかった。だが、持ち前の野次馬根性で印刷所に行けば工場を覗いていたから、印刷工程のネックが組版と製版にあることは知っていた。だから「Macで組版と製版ができることはご存じですよね」という言葉にころっと参ってしまった。

 パソコンで組版ができれば、写植代が軽減できるし、何よりも制作日数が短縮できる。当時の自動車雑誌やモノ関係の情報誌は、印刷所の出張校正室で原稿を書くのが当たり前になっていた。最新の情報を電話で入手し、その場で原稿を書いて、校正時に差し替えるのである。差し替えるのが前提だったから、元のページはレイアウトで枠だけができているものだったりした。

 そういうお祭り騒ぎが、パソコンの力で不要になる。これはすごいと思った。また、「4色分解」「網点ポジ」という製版作業が編集部でできるようになれば、最後の最後まで出版に責任を負う人たちでコントロールできる。「あなた任せ」の仕事が減ることで、ぎりぎりまで粘って記事作りができるのだ。

 可能性が見えた途端、ゼロワンショップ行きは「お遊び」から「仕事モード」へと変質した。
「こういうことはできるの?」
「こういう原稿にはどう対応すればいいの?」
 ぼくの質問は、かなり専門的かつ具体的なものだったはずだ。何しろ、もうそれを使うつもりでいたのだから。

 見積書はヒラのサラリーマンから見れば巨額になった。
「Mac Ⅱfx本体と増設メモリー」「21インチカラーモニター」「レーザーイメージライター」「スキャナー」「MOドライブ」「フォトショップ」「イラストレーター」「クオークエクスプレス」「イージーワード」「表計算ソフト(当時エクセルはグラフが作れなかったので、アスキーが売っている別のソフトを選んだ)」全部で300万円超。

 社長に提出した稟議書には、およそ考えられる限りの節減効果を列挙した。
「版下製作費が不要になる」
「パソコン通信でデータが送れるので、デザイン事務所へのアルバイト交通費が不要になる」
「すべての原稿が一元管理できるので、使い回しが楽になる」
「本誌で作った原稿を別冊等でそのまま使える」
「ぎりぎりまで〆切が延ばせるので印刷直しが減る」…などなど。

 機械音痴の社長が、この冒険的な投資に同意してくれた理由は、平凡社時代に電算写植の威力を学んでいたことと、学研に対して先進的なところを見せたいという見栄の二つだったと思う。そうでなければ、ぼくのような若造が「これからの本は、コンピューターで作るのが当たり前になります」などと生意気を言ったとたんに、ぺしゃんこにしていたはずだ。そういう人なのだ。

 Macが納品されてからというもの、ぼくは毎日会社に居残り、通常の仕事を終えてからMacの前でひたすら学び続けた。始発までやって帰宅し、午後1時に出社するという生活を半年続けた。そのおかげで、Macの基本からフォトショップ、イラストレーター、クオークの基礎はひととおりマスターすることができた。

 次にやったのは、自社広告の版下をMacで作ること。「ドリブ」のデザイナーのところに通い、一緒になって試行錯誤を続けた。写植では写研の文字がスタンダードだったが、Macの日本語書体はモリサワが主流。だから使う文字も気を遣わなければならない。欧文との混植で起こる問題や、モニターでは大丈夫と思えても版下にすると出てくる違和感などについても、デザイナーからたくさん助言をもらった。

 社長の気持ちを汲んで、学研の「マイコン委員会」なるサークルにも参加した。おどろいたことに学研では、まだパソコンをDTPではなく業務簡素化の道具としかとらえていなかった。なのでそこで勉強するのはデータベースの構築ばかり。不満だったが、「これなら抜けるな」と密かに思ったものだった。

 今から思えば傲慢不遜な若者時代だったが、あのころ馬鹿みたいにMacにむしゃぶりついたから、こんなロートルになっても仕事にあぶれずにすんでいるのかもしれない。編集・ライターの世界で、「参りました」と思うほどDTPに詳しい人にはまだ出くわしていない。

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