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雑誌を作っていたころ087

新谷のり子の場合

「ザ・テルミー」で新谷のり子さんをインタビューすることになった。

ある年代以上の人なら「フランシーヌの場合」というヒット曲をご存じだろう。フォークソング全盛時代、70年安保で日本中が揺れていた1969年に80万枚を売り上げた曲だ。

その曲を歌っていたのが新人歌手の新谷のり子さんだった。ぽっちゃりした顔に似合わないアルトの声で、テレビにもよく出てきていた。

その後は姿を見なくなったので、よくある「一発屋」だと思っていたら、そうではなかった。なぜわかったのかというと、ご本人からインタビューでそのことを聞けたからだ。

依頼された仕事に抵触するようなことを書くわけにはいかないが、彼女は郷里の函館から歌手になることを夢見て上京し、銀座のクラブで歌いながらレッスンに励んでいた。そのクラブの常連に、「フランシーヌ~」の作詞・作曲者がいて、デビューすることになったのだった。

フランシーヌ・ルコンドというフランスの女子大生が、ベトナム戦争などに抗議して焼身自殺したのは歌詞にあるように3月30日。新谷のり子のデビューはたった3か月後の6月だ。

そのことでもわかるように、このデビューは「とんとん拍子にまとまった」話だった。しかし大ヒットの後、新谷のり子は苦悩する。彼女は歌手になりたかったのだが、実際に手に入れた有名歌手の座は、必ずしも心地よいものではなかったからだ。

70年安保闘争や成田闘争、東大紛争などで、彼女はいつもヘルメットをかぶってバリケードの向こうにいた。「闘士」というわけではない。虐げられた人の側に身を置きたいという思いが、彼女をそういう行動に駆り立てたのだ。だが、「有名歌手」の座は彼女にそれを許さない。アイドルにとって、イデオロギーはタブーなのだ。

しかし、彼女の思いはやがて、マザー・テレサとの出会いを通じて昇華していく。身体障害者のための活動、被差別部落解放運動、山谷、釜ヶ崎への定期訪問。パレスチナの紛争難民のところにも出かけた。歌が必要なところでは歌を歌い、手助けがいるところでは身を粉にして働いた。山谷では日雇い労働者のための食堂で働いた。

「あなた、新谷のり子じゃないの?」と驚く人たちもいた。かつての有名歌手がなぜこんなところで働いているのか。彼女は笑って答えなかったが、それは答える言葉が見つからなかったからだ。ぼくが思うに、「不遇の人たちの力になる」ことは、彼女にとって「ミッション」だったのではないか。

今60代の彼女は、お世辞抜きに光り輝いて見えた。それは「これが自分の道」と信じるところをひたむきに走っている人だけが見せるオーラだった。彼女がアイドル歌手の座を手放して代わりに獲得したもの。それを人は「幸せ」と呼ぶのだと思う。


誌面から

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