雑誌を作っていたころ048
落日
1997年7月、ぼくは社長に辞表を提出した。代表取締役専務を辞任したいという申し入れだった。
いきなり辞めては残る社員に動揺が起きると思ったので、二段階で辞めようという考えだった。
それに対して社長はこう言った。
「なんだかややこしいな。逃げるのならそう言えばいいのに」
この人には何もわかっていない。自分が作った会社から好きこのんで逃げたいやつがどこにいる。あんたが潰しかけているから、それを守ろうとしているだけなのだ。
ぼくは社長にこう聞いた。
「もし青人社を買ってくれる人がいたら、応じますか?」
それに対する答えはYESだった。ただし、条件が折り合えば。
すぐさま社内の有志を集め、以下の文書を配布して協力を呼びかけた。
それから水面下での動きが始まった。凸版印刷の部長に会い、青人社を買ってくれる会社はないか、探してくれるように打診した。東京印書館の役員にも会って、同様の依頼をした。共同印刷にも。
だが、折衝が続いているとき、寝耳に水の事件が起きた。社長が勝手に「起業塾」の営業権を知り合いの不動産屋に売却したというのだ。そんなことをされては、こちらの努力が水の泡だ。あわてて社長室に飛んでいった。
「きみはもう専務じゃないんだから、相談する必要はないだろう?」
「青人社売却の話がこれで飛んでしまいます。なぜ切り売りするんですか?」
「金がないんだよ。売れるものから売るのは常識じゃないか」
「他業種の人ならそう考えるでしょう。しかし出版社の価値はブランドや雑誌だけではありません。価値があり、売れる本を作れるスタッフと体制こそが一番の価値なんです」
「理想論はもういいよ。とにかく金がいるんだ」
その後、問題はさらにこじれた。社長が何を思ったのか、青人社の営業権を金融屋に売り渡し、その中に不動産屋に売った「起業塾」が含まれていたのだ。二重売りだ。
折しも社内は引っ越し準備でごった返していた。六本木日産ビルからABビルへ都落ちするためだ。「ドリブ」のスタッフはすでに社を去り、ワールドマガジン社の社員も姿を消していた。まさに落日そのものの状況だった。
ぼくは青人社売却の計画を諦め、自前の会社を作る決心をした。