真剣に「遊ぶ」ことで浮かび上がってくる何か。納富信留『ソフィストとは誰か?』をよむ(6)。
アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。今回は、納富先生の第2部第6章「弁論の技法」と第7章「哲学のパロディ」を読みます。
摘 読。
今回は、第6章と第7章を併せて摘読する。第6章で扱われているのが『パラメデスの言明』という法廷での弁明形式による演示、第7章で扱われているのが『ないについて、あるいは、自然について』という哲学的な議論の形式を採った作品である。
『パラメデスの言明』では、敵方に内通したという罪状で訴えられた知者パラメデスが、裁判員であるギリシア人たち、および告発者オデュッセウスに語りかけるかたちをとっている。その詳細は省略するが、大仰な一般論から導入される序論、告発内容を論駁する本論、そして告発者への反論、裁判員への呼びかけ、結びという構成からなっている。そもそも、このパラメデスが無実の罪でオデュッセウスに陥れられたという英雄伝説を、読者はみな知っていた。つまり、この弁論は無実の人物が自分の無実をそのまま訴えるものとなっている。そこで展開されている理路整然とした論述にしたがえば、誰一人として「裏切り」行為を働くことはなくなってしまう。しかし、現実には敵方に内通する者もいるし、金銭や権力欲に駆られて味方を売る者は、ギリシア人に限らずたくさんいる。このパラメデスの言明は、彼の無実をあらわすものでありながら、現実には「逆説」ともなる。この理路整然とした、完璧とも映る弁論にわれわれが感じ取ってしまういかがわしさもまた、否めない側面なのである。
この作品は、ゴルギアスの弁論術の宣伝のために書かれたものと考えられる。ただ、この『パルメデスの言明』が実践的な教科書となりうるかと言われれば疑問が残る。というのも、現実の場面では抜け道も容易に見つけられるからである。そう考えると、単に弁論術の宣伝パンフレットとしてのみ、ゴルギアスがこの作品を書いたとも考えにくい。
そこで浮かび上がってくるのが、哲学を意識した論考という側面である。ゴルギアスは、この2つの側面をにらみながら「遊び」(パイディア)として描いたのではないか。当時、こういったやや誇張された言論の応酬が、劇場で観客の娯楽に供されていたことを考えると、『パラメデスの言明』もこの種の「遊び」ということができる。それを示すのが、この作品における文体である。具体的には、一つの議論を退けた後に、そのいったん否定された可能性を仮に認めた上で、さらにそこからの帰結を検討し退けていく論法としての『重層論法』、一つの命題を否定するために、その命題を含意する複数の可能性を選択肢として枚挙し、それらを一つずつ退けて、最終的に党の命題を退ける論法としての「枚挙論法」である。
重層論法に立つと、いったんは証明されたはずの真理を、別の可能性もありうるという観点に立って、さらに論じることになる。この論法は、第7章で採り上げられている『ないについて、あるいは、自然について』で大々的に用いられている。
枚挙論法は、考えられうる可能性を列挙したうえで、それらを否定していくところに特徴がある。ゴルギアスは法廷弁論という、哲学的な議論よりは厳密性を欠く場面で、最大限かつ多彩にこの論理手法を用いている。
この二つの論法が哲学的議論に援用されているのが、第7章で採り上げられている『ないについて、あるいは、自然について』である。ここでは、「最初に、何もない、ということ」「もしあるとしても、人間には把握できない、ということ」「もし把握できたとしても、隣の人に語ることができず伝えられない」という三つの命題から議論が組み立てられている。ここでの議論の組み立てが「奇妙」であるのは、最初の論証が完全に与えられたのであれば、そこからさらに「もし何かがあっても」という仮定をおいて議論を進める必要は全くないからである。
この法廷弁論であれば有効な言論が、哲学で用いられてはならないのか。ここにゴルギアスの狙いがあるとみるのが、納富の考察である。ゴルギアスにとって、学術的な議論も、法廷での論争も、哲学の学説争いも、全て「説得」による魂の操作の例にすぎない。このような言論への味方を、専門領域の侵犯として退けたり、哲学的真理の冒涜として非難することに、はたして意味があるのか。哲学の議論が一見隙間なく全可能性を尽くし、「必然的な推論」によって「真理を証明」しているようにみえるのは、それ自体が哲学のレトリックではないのか。哲学者と呼ばれる人々の言論も、ソフィストや弁論家が用いる「説得」と同じではないのか。むしろ、不十分かもしれないのに、あたかも完璧に「真理を証明」したかに主張する「哲学者」たちの議論のほうが、不誠実な、本当の(しかもさらにたちの悪いことに衒学的な)レトリックではないのか。ゴルギアスは、この『ないについて、あるいは、自然について』で提示していると言える。
さらに、ここで用いられているもう一つの論理手法である枚挙論法は、あらゆる可能性を尽くして退けるという論証の見かけにもかかわらず、その選択肢の列挙には、必然性や網羅性に多くの疑問が投げかけられる。この論理の不十分さは、ゴルギアスの失敗とみるよりも、自らの論証の穴や論法の怪しさを十分に意識しながら、それらを意識的に用いているとみるべきである。この点、納富はゴルギアスがエレア派の議論を意識して、この作品をパロディとして執筆したと論じる。つまり、ゴルギアスはエレア派に対抗する議論を提示しようとしたというよりも、無意味の域にまで達することで、全面的な破壊にまで到達したのである。
ただ、ここでゴルギアスはふざけようとしていたわけではない。破壊的な論の無意味さと、ある種の真面目さとは、理論的には両立可能である。破壊性を持ったナンセンスを意図的に論じることは、全く無意味であるとは限らない。「パロディ」とは、元になる作品をもじり、誇張し、転用することで、その価値を何らか逆転させる文学手法である。アリストテレス『詩学』第2章でも「パローディア」という語が用いられている。
このゴルギアスの姿勢は、単なる懐疑主義でもなく、むしろ哲学議論の真面目さを覆すものであった。パロディにおいては、そこで提供される内容よりも、そういった模倣を提示する営為、つまりパフォーマンスに意味が込められる。その対象となる標的は、何らかの権威を有する、社会的に一ランク上の存在である場合が多い。それを揶揄揶揄して斜にみることは、秩序や価値の転倒という政治的・社会的意味をも帯びる。そして、何よりもパロディの本質は、笑いを喚起することにある。
このパロディが持つ「遊び」や「笑い」こそが、哲学を打ち倒す「反哲学」の手法であった。ゴルギアスが提示した手法は、自らの言論によって「真理」を証明していると主張する哲学もまた、言論によって一つの「思い込み」を作り出して、相手に強制しようとする試みに他ならないという点を浮かび上がらせる。こういったソフィストの挑戦を「不健全」として頭ごなしに否定するだけでは済まされない。かといって「笑い」を逆用することでソフィストを退けることも許されない。
となると、哲学者にできることは何か。それは、おそらくソフィストの「笑い」が持つ魅力や魔力、そしてそれが隠蔽する力さえも冷静に分析し、それに対処することであろう。哲学の言論とは何か、それが追求する「真理」とは何なのかを、あらためて根源から問うことが強いられる。その意味において、ゴルギアスの論述は、私たちの内に「哲学者」ぶって居座る思い込み、「内なるソフィスト」とでも呼ぶべき者が潜んでいることを突きつけているのである。
私 見。
ここの2つの章は、きわめてスリリングである。われわれが何か言を発するときに、どこかに潜む、あるいは蟠る欺瞞をゴルギアスが露わにしてしまうことを、鮮やかに示している。ポパーが、プラトンを厳しく批判し、ソフィストの重要性を指摘したのは、彼の批判的合理主義の考え方を思い起こせば、容易に繋がってくる。同時に、批判的合理主義の議論が、ややもすると(しばしば)皮肉めいた文体になるのも、ちょっとわかってくる気がするのだ。
こういった「遊び」は、提示された(多くの場合、権威的な)言論に対する“真剣な”遊びであるといってもいいように思う。
ただ、20世紀くらいまでは「権威ある何か」というのが、そうではない何かとある程度まで截然と区別できたようにも思う。ところが、最近になって、自らの気に入らぬ何かであれば、さしたる根拠もなく「権威ある何か」のように仕立てて、嘲笑愚弄する(さらに、その気に入らぬ何かの存在そのものを滅そうとするかのような)という傾向もあるように感じるときがある。ゴルギアスの「遊び」や「笑い」がもつ毒とともに、「作法」があるのかどうか、ここも考えてみたいところである。
というのも、「遊び」はルールを逸脱するところに魅力があると同時に、まったくの無秩序を「遊び」とも言わないからである。このあたりは、ホイジンガやカイヨワなどの議論を参照しながら考えてみたいところである。
ゴルギアスが提示した「遊び」はシニカルな面を強く持っている。ただ、おそらく「遊び」はもっと多様な面を持つといっていい。滑稽性だけではないだろう。審美性を軸とした「遊び」もあるだろう。
このようにみてくると、ゴルギアスが提示した視座は、われわれの考えがいかにたやすく固着してしまうかを露わにしている点で、あらためて向き合う意義があるといってよさそうである。