退屈の先に見えるヒトの本性『暇と退屈の倫理学』

パスカル、ニーチェ、ガルフレイズ、モリス…名前を耳にしたことがある思想家・活動家を暇と退屈の間を走り抜ける中で出会いを演出してくれる本書。哲学書だからといって身構え、準備し過ぎることはない。その道のりは含蓄溢れ、順序よく進んでいけばすんなりゴールにたどり着ける。今年読んだ本の中で、一番印象に残った一冊である。

論述を追っていく、つまり本を読むとは、その論述との付き合い方をそれぞれの読者が発見していく過程である。本書は暇と退屈について述べてきた。しかし、同じことを同じように説明しても、誰もが同じことを同じように理解するわけではない。

「人が旅するのは到着するためではなく、旅行するためである」

ゲーテの言葉を引用するが、著者も警告しているように結論だけ焦って読めば、幻滅する。論述のプロセスを味わうことが本書の愉しみ方だ。そのスタートである問いは「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」である。ゴール、つまり結論は「人間であることを楽しみ、動物になることを待ち構える」だ。この2つの間をつなぐ論述のダイナミックな旅は「人間は考える葦である」で中学校の教科書に登場したパスカルからはじまる。

「ウサギ狩りにいく人はウサギが欲しいのではない」

人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求め、自分が追求する気晴らしの中に、幸福があると思い込んでいる。すなわち、「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違え、その事実に思い至らないために熱中できる騒ぎを求める。自分自身はどうだろうか。就職して、企業に勤め続ける退屈に耐えられなかった。だからベンチャーを立ち上げて、気晴らししている。そして仕事に熱中し、その先に幸福があると思い込んで、自分をだましている、いや、だます必要があるのである。思い当たる節があり、つい惨めさを感じずにはいられない。だが、パスカルは言う。その取り違える構造そのものを指摘する人こそもっともおろかな者だと。

気晴らしにおいて重要なのは、熱中できること。熱中できることには負の要素が必要だ。確かに、起業はリスクという負の要素があるからこそ、熱中できる。それは苦しみにも似ている。要するに起業に参画している僕はパスカルに言わせれば「退屈する人間」で退屈から逃れるために苦しみや負荷を求めている愚か者なのだ。パスカルの明快すぎる議論にタジタジしてしまう。まだまだ、第一章の途中である。

どうやって退屈と向き合うのか?という問いに、第二章以降、玉石混交の中、向き合う方法を切り開いていく。人類史から定住が絶えざる退屈との戦いの狼煙を打ち上げ、暇を生きる術を有閑階級に学び、暇なき退屈をもたらす疎外を語り、生物学者ユクスキュルの環世界から退屈を論じ、ハイデッガーの退屈論を分析していく。

退屈論の最高峰ハイデッカーは「なんとなく退屈だ」という深い退屈にたどり着く。そして、ハイデッカーは「決断」によって「なんとなく退屈だ」の声から逃れることができると結論づけた。しかし、その決断は決断後の主体を退屈のループに導いていく欠点があると著者が論及していく。その欠点とは、決断後の人間の状態を洞察すると、決断した人間は「なんとなく退屈」な状態を逃れることができるが、決断した内容の奴隷となり、決まったことをただひたすらに実行し、退屈の無限ループに入り込んでしまう。

まだまだ、紹介したくなるがここまで。本当におすすめの一冊だ。本の冒頭がこちらのブログで読めるので、ぜひ目を通してほしい。

----------------

暇つぶし、だけど退屈と言えば、ゲームを思い出す。オンラインゲームに疎く触れたことがない僕には衝撃の事実ばかりで唖然とさせられた。未来が好きになる一冊。

革命を目指してはいないが、社会総体の変革を目指しているとタイトルからは意外なところにたどり着く『暇と退屈の倫理学』。資本主義に亀裂を入れることは、政権を転覆させようとする従来の革命とは異なる方法を見いだすこの本を思い出した。

学びや教育関係の本の購入にあて、よりよい発信をするためのインプットに活用します。