長い目でみる(22)

一日単位でみるのか、一週間単位でみるのか、一ヶ月単位でみるのか(、、、以下続く)で、物事は変わってくる。原理主義的になると、すべての事象に対して同じ範囲で見ようとする、そっちのほうがシンプルなんじゃないかと考えるからだ。しかし、そうは問屋は卸さない。誰と一緒に過ごすかの環境から影響を受ける。

キャリアや会社においては、一日単位で報告が必要なこと、一週間単位、MTGごと、一ヶ月ごと、1年ごと、3年ごととばらばらで、それぞれに一貫性があることが望ましいが、3年を見据えた活動から、1日1日をブレイクダウンするという理想は、どこまで将来への見通しを立てたときの自分や他人を信頼できるか次第である。自分が立てた目標というのはすぐに変更できてしまう。だから、自分にとってはあてにならないことが多い。だから、誰かと立てたり、誰かに約束した目標のほうが達成されやすいと思う。この目標というものを目的にすることなく、道具として手段として考え続けることそのものは一番忘れてはいけないことだ。目標を設定したのは、そもそも何のためだったのか、それは忘れちゃいけない。

普段の生活においては、家庭内では貸し借りが暗黙に行われている。その貸し借りをいつまでに返すのか、どれだけ厳密に考えるのか、そのことを意識するのか、をレンズに家庭をみることができるだろう。返礼の頻度(例えば、家事は基本的に分担で、代わりにやってあげたら、他のことを翌日にやってあげるなど、保育園の送り迎えも)が極度に短ければ、それは公平性を意識が強いということかもしれない。いっぽう、どちらかいっぽうが負担し、それを役割としてまっとうする家庭もあるだろう。専業主婦や専業主夫はその形態だろう。

こんなことを書いているのも、長い目でみること(自分が生きている間が一番最長だとしたときに)ができなくなっているからだ。数年後もどうなるかわからないと思うと、すごい短い間隔で考えてしまっているのだ。うーむ。

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