「努力を続ける」という事
1ヶ月で10kg痩せたのを自慢したかったので最近noteを始めてみた。
その前に練習がてら2本記事を書いてみたりもした。
周りの人に感想を聞いてみると、おおむね「努力しててえらい」「続けられるのがすごい」という反応であった。マウスを左手で使うとか、TOEICで895点とるとか、1ヶ月で10kg痩せるとか、自分で言うのもあれだが、中々できるものではないと思う。
ただやっている本人からしてみれば、そこまで頑張った感はない。左手マウスや英語学習は仕事上やらざるを得なかったのもあるし、可愛い子が周りにいれば男なら自然と体型や身だしなみに気をつかうものである。
そもそも私は自分で目標を掲げモチベーションを高くもって何かを続けられるような高尚な人間ではない。でもなんとなく続けるということだけは意識してやってきた。
1日24時間、大体3分の1は寝ているし、食事・風呂・トイレ・仕事(学校)・通勤(通学)の時間を除くと自由にできる時間は限られている。1日にできることなんか大したものではない。ただ大したものではなくても何かを「やった」のであれば「やった」という経験は自分の中に確かに残る。
例えば辞書を思い浮かべて欲しい。1ページ1ページはあるのかないのか分からないくらいとても薄い。でもそれを何枚も何枚も積み重ねていくと分厚い辞書になる。
1日にできることは大したことはない。紙1枚分くらいの薄さしかないかもしれない。でもそれを何日も何日も「やった」を積み重ね続けることによって辞書ほどの厚みが出てくる。これが努力を積み重ねるということではないだろうか。
紙1枚分の薄さなんかあってもなくても分からないだろうと思って「やらない」人は、「やった」人と比べて確実に紙1枚分の差をつけられる。たった紙1枚分の差でもこれが続くと膨大な差になる。
また「やらなかった」分を挽回するのに「大した」こと以上の事をしようとすると段々としんどくなり辞めてしまうかもしれない。辞めてしまうともうそこで終わりである。
なのでちょっとずつでもいい。毎日じゃなくてもいい。でも続けることが大事である。積み重ねることを辞めさえしなければいつかは確実に辞書は完成するのだ。それが「努力を続ける」ということではないだろうか。
今日も1ページ分積み重ねたなとか、今日は出来なかったけど明日1ページ分やろうとか(決して2ページ分やろうとは思わない)、そんなことをゆるーく考えながらちょっとずつやっていけばそのうち結果につながっていくのではないか、と私は思っている。