僕と姉ちゃんの8日間
5月21日(日)21時21分に姉ちゃんが亡くなった。
享年39歳。人生100年時代で考えるとその半分も生きていない。あまりにも早すぎる。今僕は東海道本線の小倉駅から東京駅まで向かう新幹線に乗っている。乗車時間は5時間弱。ここ1週間で感じた姉ちゃんにまつわる全てを忘れないためにも、新幹線の中で記録しておく。
5月14日(日)、母から「姉ちゃんが今年いっぱいもつかどうかわからない」というLINEが届いた。
3年ほど前から姉ちゃんは癌との闘病生活を送っていた。胃がんから始まり、全身に転移、最後は白血病寸前だったそうだ。本人は自宅に帰りたかったようだが、肋骨が折れてもう動くこともできず、入院生活が続いていた。
様子を見に帰ろうと、6月1日と2日に有給休暇を取った。僕がまっさきに思ったのは、「娘に姉ちゃんを覚えていてほしい」ということだった。娘は一度だけ姉ちゃんに会ったことがあるが、その時はまだ1歳だったので何も覚えていないだろう。娘を連れて実家に帰ろうかと思ったが、病院で面会ができるのは18歳以上ということで、結局一人で帰ることにした。
5月18日(木)、母からのLINE。「今日、主治医から話があり状態が悪く、自宅に帰れることはないみたいです。状態が悪いです。」とのことだった。とにかくすぐに帰ろうと思い、じゃらんで往復のフライトを即予約、大きめのリュックに2泊3日分の着替えを入れて5月19日(金)の夕方のフライトで実家に戻った。
この日、娘の幼稚園の用事でたまたま午後休を取っていたので移動に支障はなかった。幼稚園の用事は妻に任せた。フライト中は、姉ちゃんとのLINEのやり取りを見て涙が流れた。「私の姪、前にあったときは人見知りで抱っこさせてくれなかったね」とか「最近は全てのことに意味があるって思うようにしてるんだ」とか。
山口宇部空港に着いたのは19時50分ごろ。実家の最寄り駅までバスで向かう途中、祖母から電話があった。「お菓子とか食べ物を送ったよ」ということだった。すごいタイミングだったので驚いたが「今姉ちゃんの様子を見に実家に戻ってきているよ」と伝えると「そうなんだ」という反応だった。どうやら祖母はまだ姉ちゃんの状態について知らないようだった。
最寄り駅に着いたのは21時ごろだった。この日は実家に戻らずじゃらんの旅行パックでビジネスホテルを取っていたのでそちらに泊まることにした。宿付近の居酒屋でビールを2杯とオリーブのピクルスを食べた。実は2カ月前に祖母の1周忌で実家に帰っていた際もこのお店でビールを飲んだ。店員さんが僕のことを覚えていてくれたのは少し嬉しかった。ビールを飲んだ後、繁華街のラーメン屋でネギが山盛りのラーメンを食べ、少し散歩をして宿に戻り風呂に入って寝た。
5月20日(土)、8時頃に目が覚め、散歩がてらビジネスホテルから実家まで歩いて帰った。お腹がすいたので激渋の喫茶店に入りモーニングセット550円を食べた。激安だ。さらに歩くと護衛艦あきづきが港に停まっていたので写真を撮った。
昼頃に母の車に乗って姉ちゃんが入院している病院に行った。姉ちゃんは2カ月前に会ったときよりも確実に痩せていた。姉ちゃんの顔を見た瞬間に涙が出た。薬で朦朧としているのか、あまり話が出来なかった。
姉ちゃんは眠そうであまり話もできず、これ以上病室にいてもできることがなく、一度家に戻ることにした。母が姉ちゃんに付き添っている間に読む本を買いたい、ということだったので一緒に駅前のショッピングモールまで行った。自分はそのままショッピングモールから家まで歩いて帰ることにした。午前中に見たあきづきの中を見学できるようだったので、覗いてみることにした。デカい。デカいというだけで圧倒される。艦内を歩いていると、カレーの匂いがした。
休憩がてらコーヒーが飲みたくなったので、あきづきが停まっていた港のすぐ近くの観光地にあるカフェに入った。甘いものが食べたかったので、コーヒーゼリーのパフェみたいなのとアイスコーヒーを注文した。二つで1890円。観光地とは言えさすがに高すぎではないか。後から店に入ってきたカップルは、メニューを見て出て行った。
カフェから実家まで帰る途中に、晩御飯を買おうとスーパーに寄った。ヒラメの刺身とトビウオの刺身とビールをレジまで持っていくと、レジのおばちゃんが「暑いですねぇ」と話しかけてきた。僕が「そうですね」と答えると、おばちゃんは僕の手に持っていたあきづきのパンフレットを見て「今日はその船が来ているの?」と聞いてきた。「えぇ、今日と明日、無料で見学できるみたいですよ」と答えた。それで話は終わったが、これが地方のコミュニケーションだよな、と思った。後から母に聞いたが、姉ちゃんは「浩司は晩御飯どうするん」と、僕の晩御飯の心配をしていたらしい。僕はもう36歳だ。晩御飯くらいどうとでもするよ。
スーパーから実家に戻る途中、小学校の頃からの友人から電話がかかってきた。姉ちゃんの容態をLINEで伝えていたので、心配して電話をかけてきてくれたのだ。50分くらい下らない話をして大笑いした。昔から知っていたが、いいヤツだな、と思った。
実家に戻り、実家で飼っているワンコの散歩に行った。このワンコは母以外とは遠くまで散歩に行かない。実家の周りをぐるっと回ったらもう家に帰りたがった。ワンコの散歩が終わり、母は病院で姉ちゃんの付き添いをしているので、誰もいない実家で(正確には犬と亀がいる)ビールと五橋のカップ酒を飲みながら山田孝之主演の『ステップ』を観た。妻を亡くしシングルファザーになった山田孝之とその娘の10年間を描いた作品なのだが、自分も娘がいるのでところどころ共感し、鼻水で溺れるんじゃないかと思うくらいに泣いた。その後、『ヴァイオレットエヴァーガーデン』の7話、10話、13話を観た。落ち込むことがあると、『ヴァイオレットエヴァーガーデン』を観て涙を流してすっきりするようにしている。ジョジョ2部のエシディシみたいな感じだ。
ビールもなくなったので、散歩をすることにした。昔住んでいた家の場所に行ったり、通っていた小学校の通学路を歩いたり。途中で真っ暗な保育園から子供の泣き声のようなものが聞こえ、こんな時間に(22時頃だったと思う)ヤバいだろうと思って保育園の前でしばらく様子をうかがっていたら、猫の鳴き声だった。どうやら猫同士で喧嘩をしていたらしい。猫でよかった。真っ暗な保育園に赤ちゃんの泣き声、軽くホラーである。
コンビニでもう1本だけビールを買って帰宅。今度は笑える映画を観ようと思って西島秀俊主演の『任侠学園』を観た。あまり笑えなかった。そろそろ寝るかと思い、布団をひいて横になったら、ワンコが布団に潜り込んできた。いつもいる母がいないから寂しいよな、と思いながら一緒に寝た。
5月21日(日)、朝起きてワンコの散歩に行った。やはり全く歩かず、10分も経たない内に家に帰りたがった。朝ごはんを食べようと、歩いて10分くらいのカフェに行った。たまごトーストとカフェラテだったかを頼み700円くらいだった。
昼過ぎから母と一緒に病院に行った。妻が「手を握ってあげたほうがいい」と言っていたので、「姉ちゃん、手を握っていいか?」と聞くと左腕をスッとあげてくれたので両手で握った。握った瞬間に涙が溢れた。姉ちゃんは「何泣いてるの?」と驚いていたようだが、構わずに泣いた。しばらくして、病室を出ようと「姉ちゃん、そろそろ帰るね」と言ったら姉ちゃんは「お前も頑張れよ、私も頑張るけぇ」と言った。その言葉を聞いてまた涙が溢れた。もう姉ちゃんは十分苦しい思いも痛い思いもして頑張ってきたのに、これ以上なにを頑張るのだろう。
病院から歩いて実家まで帰り、特にすることもないのでまた散歩をした。観光地の近くで何かイベントをやっていて、パフォーマンスもやっていたのでパフェやアイスコーヒーを買って眺めていた。次のパフォーマンスが始まるまで、ただ待っているのも暇なのでイベント会場のすぐ近くの神宮に行きお参りをした。「どうか、姉を楽に逝かせてあげてください」、賽銭を投げて、そんなことを祈った。
お参りをした後に、またイベント会場に戻ってパフォーマンスを観ていた。母から「あんたから送られてきた荷物が家に届いたみたいだけど、余裕があったら受け取っておいて」とLINEが届いた。僕が母の日に送っていたプレゼントだ(母の日はとっくに過ぎているけど)。自分で送ったプレゼントを自分で受け取るってなんだか愉快だな、と思った。
子供のころから通っていたラーメン屋でラーメンを食べて家に帰って、しばらくすると母から電話があった。「モルヒネを打つと先生が言っている」と。姉は手の施しようがなく、主治医からはもうモルヒネを打つくらいしかない、と数日前から話があった。モルヒネを打つと、打ったその日が山場でもって3日程度だと。嘘だろ、と思った。確かに楽に逝かせて欲しいとお参りはしたけども。すぐにタクシーを呼び、病院に向かった。タクシーの中で涙が溢れ、会計の時に運転手さんから「頑張ってください」と言われ、また涙が出た。「ありがとうございます」とタクシーを飛び出したが、運転手さんに下してもらった場所からどうやって病院に入るか分からず、小走りで来た道を少し戻った。
姉ちゃんのいる病室に走って入ると、祖母と叔母と母がいた。さっき帰った弟が涙目で走ってきたからか、姉ちゃんは驚いていた。姉ちゃんは、モルヒネを打つこと、モルヒネを打ったらどうなるかは知らされていないようだった。しばらくすると、主治医から呼ばれ、祖母と二人で話を聞いた。肺やお腹に水が溜まっているとか、その他何か言っていたけどあまり頭に入ってこなかった。「何か質問はありますか?」と先生に聞かれたので「モルヒネを打って、姉は苦しまないでしょうか」とだけ聞いた。「苦しさを緩和するのがモルヒネ」みたいなことを先生は言っていたと思う。
病室に戻って、しばらくしてモルヒネを打つことになった。姉ちゃんがどんな薬なのか聞いたら、母は「ちょっと強い薬」と答えていた。モルヒネを打った後に、姉ちゃんが眠い、というので、じゃあ帰るか、と思った。「次に来るときは、僕の可愛い娘を連れてくるからな」と姉ちゃんに伝えた。嘘をついた。だって次はない。僕も姉も大好きな漫画の『うしおととら』の主人公の潮が人生で初めて嘘をつくシーンがある。あのシーンも病院だったな、それと重なるな、とか考えながら病室を出た。ナースステーションの前を通った時に、看護師さんから「まだ一緒にいても大丈夫ですよ」と声をかけてもらったが、面会時間が終わりそうだったのと姉ちゃんも眠いと言っていたのでやはり帰ることにした。
コンビニで冷やしうどんとおにぎりを買って食べながらテレビを見ていたら母から電話があった。たった2文字「きて」と。またすぐにタクシーを呼んで病院に向かった。さっきタクシーを呼んだ時と違い、妙に冷静だった。病室に入ると、つい1時間前まで話していた姉の顔が、唇が真っ白になっていた。「姉ちゃん」と何度か呼んだが反応はなかった。母は「目を開けて」と泣きながら言っていた。祖母も叔母も泣いていた。
先生が姉ちゃんの心音や瞳孔を何度か調べ、5月21日(日)21時21分に亡くなったと診断された。母が葬儀場に連絡をし、23時ごろに迎えに来るという。お寺や葬儀場、火葬場の手配ができるのであれば、22日(月)には通夜、23日(火)は葬儀と予定が決まっていった。僕は22日(月)の昼のフライトで帰る予定だったし、姉の様子を見る目的で帰ってきていたので、ちょっと展開が急すぎないか、と思った。何の準備もしてきていない。通夜と葬儀に着る礼服は、急遽、叔母の旦那さんのものを借りることになった。
東京にいる妻に何度か電話したが、もう寝ていたのか電話に出なかった。休みの日だっだが、上司にもチャットで伝えしばらくお休みをもらいたいと連絡した。葬儀場に姉ちゃんと母と移動し、次の日以降の話をし、1時過ぎに家に帰ったと思う。ビールを飲んだような気がするがどうたったか…2時前くらいに寝て、目が覚めたのは5時ごろだった。
5月22日(月)、早く目が覚めたので、身支度を整えた後に少し散歩をした。歩いてる途中に目に映る風景のところどころに姉ちゃんとの思い出があった。「姉ちゃんここでアルバイトしてたな」とか、「あそこに見える山のアスレチックで、子供のころ姉ちゃんと遊んだな」とか、「この道、姉ちゃんと映画観るって言って大雪の日に歩いたな」とか。金髪のサングラス(正確には調光レンズ)が泣きながら歩いていると不気味だろうな、と思いながら歩いた。
家に帰って、母と葬儀場に向かった。どんなプランにするか、など話があって、「葬式ってめっちゃお金かかるんだな…」などと思った。そうこうしていると、祖母と叔母が葬儀場にきた。叔母は、礼服と革靴を持ってきてくれた。礼服を着てみると、少しサイズが大きいがちゃんと着れたので助かった。
一旦家に帰る途中、母から「姉ちゃんの祖父と父が通夜か葬儀に来るかもしれない」と言った。僕の祖父と父でもあるわけだが、我が家は33年前くらいに離婚している。ちょっとややこしいのだが、離婚後、僕は母と母方の祖母と一緒に暮らしていた。にもかかわらず、離婚後も父方の祖母や叔母(さっきから出ているのはこの二人)とはずっとやりとりがある。人に話すと不思議がられる。僕も変わっていると思う。
母は叔母(父の妹)から「自分の娘に会えるのはこれが最後なのだから、会ってもらいたい」と話があったそうだ。父は再婚しているのだが、再婚するときに再婚相手と「お互いの子供には絶対会わない」という約束をしていたらしい。父は姉ちゃんとは、おそらく30年以上は会っていないはずだ。僕は確か、小学校3年生の頃に一度だけ会っている。スーパーファミコンとアックマン2というゲームを買ってもらった。
父は、姉ちゃんが成人式の時に撮影した写真を叔母経由で見せてもらったときに泣いていたそうだ。いろんな家族があるとは思うが、父は姉ちゃんのことを忘れたことはなかったのだろうと思う。僕は父との思い出はあまりないが、姉ちゃんはあっただろう。姉ちゃんも父に会いたかったのではないだろうか。
家に着き、姉ちゃんの職場に姉ちゃんが亡くなったことを電話で報告した。しばらくしたら姉ちゃんの上司から折り返し電話があり、通夜や葬儀の日程などを伝えた。電話口の上司の方もちょっと涙声で、僕はまた泣いてしまった。僕の会社の先輩からもチャットでメッセージが届いていて、気遣いが嬉しくてまた涙が出た。
東京から妻と娘が新幹線でやってくるので、駅まで迎えに行った。あの暴れん坊の娘と二人で5時間弱、移動するのはめちゃくちゃ大変だったと思う。駅で妻と娘の顔を見て、すごくホッとしたのを覚えている。すぐに家に戻り礼服に着替え、葬儀会場に向かった。会場には既に母と祖母がいた。棺に入った姉は綺麗に化粧をしてもらっていた。純粋に、とても美人だと思った。娘に「僕のお姉ちゃんだよ」と紹介すると、微動だにしない人間を見たのが初めてだったからか、少し怖がっていた。娘は何度か姉の顔を眺めた後、「ロボットお姉ちゃん」と呼んでいた。娘からすると、動かないのはロボットなのだろうか。娘は会場の座布団を片付けたり並べ直したり、お手伝いを頑張っていた。とても可愛い。
その後、叔母と叔母の旦那さん、祖父が会場に来た。僕が礼服を借りているから、叔母の旦那さんは少しラフな格好だった。祖父とは10年ぶりくらいに会った気がする。10年くらい前、駅近くの飲み屋で飲んでいたらたまたま会ったのだ。「お前、浩司か。俺に何も言わず東京に行きやがって…」と言われたのを覚えている。いや、離婚してるから言う義理はないんだけど…と思ったような記憶がある。そんな祖父は90歳になったらしい。まだまだ元気なように見えた。「11月にまた帰ってくるから、その時にご飯一緒に食べよう」と言ったら、「11月まで元気でおらんとな」と言っていた。元気でいてほしい。
しばらくすると、姉ちゃんの職場の方々が20人弱、葬儀場に来てくれた。姉ちゃんはとても慕われていたようで、ある男性は「一番尊敬している上司です」と言っていた。姉ちゃんの上司の方は「クライアントから指名のあるくらい信頼されていました」と言っていた。
姉ちゃんは闘病生活中も仕事を続けていた。仕事をしていた方が気が紛れると言っていたそうだ。実家には無印用品から仕事用の椅子と机が届いていた。未開封だったので、姉ちゃんが入院中に届いたのだろう、母曰く、リモートワーク用に姉ちゃんが購入したらしい。こんな状態になってまで、仕事をのことを考えていたのだから頭が下がる。
職場の方々の話を聞いて、仕事中の姉ちゃんのことをよく知らなかったから、なんだか新鮮な気持ちだったし、そう言ってもらえる姉ちゃんのことを誇らしく思った。姉ちゃんと10年以上付き合いがあるという女性が「よくご家族の話をしていましたよ」と言っていたので、「姉は僕のことをなんて言っていましたか」と聞いたら「『あいつ、私のこと大好きなんだよね』と言っていましたよ」とのことだった。昔からシスコンの自覚はあった。娘が職場の方一人一人に返礼品を渡している姿がとても可愛かった。
会場で母と職場の方々が話していると、入口近くに男性が立っていた。母はその男性を見るとハッとし「お父さん」と言った。実に27年ぶりくらいの再会だが、心音が高まるとか、感情が揺れるとか、そんなことは全くなかった。お、父さんだ、くらい。僕の娘を父に見せると「初孫だ」と言っていた。妻は「お父さん、あなたにそっくりね」と言っていた。その後、「お前は実家に帰ってこないのか」とか「お母さんを東京に連れて行くのか」とかそんな話した。なんとなく「父さん何歳だっけ?」と聞いたら「64歳」と言っていた。「僕は36歳になった」と言ったら「お前は37歳だろう?」と言われたので、「早生まれだから、37歳の年ではあるね」と答えると「そうか、誕生日は1月3日だったな」とボソッとつぶやいていた。僕の誕生日、覚えていたんだ。
父は棺に入った姉ちゃんを見て「親より先に逝くなんて、親不孝者め」と言って泣いていた。親になった今だからこそ、そう言った父の気持ちが少しはわかる。30年ぶりに会った娘。動かなくなった娘。同じ立場だったら胸が張り裂けているだろう。
通夜もひとしきり終わったが、「まだ誰か来るかもしれないから」と言う母を葬儀場に残し、妻と娘と先に家に帰った。マンションの1階の入り口で、風呂上りと思われる髪の毛の濡れたロングヘアの女性が誰かと電話していた。風呂上がりのギャルだ、と思った。家に入って着替えていたらチャイムが鳴った。え、こんな時間に誰だ?と思ってインターホンのカメラを覗いてみたら先ほどの風呂上りのギャルが立っていた。「私、○○(母の職場の同僚)の娘で、ワンちゃんの様子を見てこいと母に頼まれました」とのことだった。ワンコの晩御飯を持ってきてくれて、ワンコの散歩をしに来てくれたらしい。さすがに夜も遅いし申し訳なかったので散歩は僕の方でしますと伝え、ワンコの晩御飯だけ受け取った。地方ならではのコミュニケーションだな、と思った。ありがたいことだ。
母が帰ってきてビールを一緒に飲んだ。娘はワンコを追いかけまわし楽しそうだった。娘がワンコに触ろうとすると「ウゥ~」と唸っていたが、娘はお構いなしに触ろうとしていた。でもウゥ~と言われるとさすがに怖いのか手を引っ込める。それをずっと繰り返していた。そんなやりとりを眺めていて娘と妻が来てくれてよかったと思った。母と二人だったらもっと暗かっただろう。娘と妻は僕がこれまで寝ていた部屋で寝たので、僕はその日は姉の部屋で寝ることにした。姉のベッドの布団は、未だに冬用の毛布だった。暑いかな、と思ったが、意外とすんなり寝ることができた。
5月23日(火)の11時から葬儀が始まった。葬儀場で流れていたBGMが新海誠監督の『秒速5センチメートル』だった。山崎まさよしの『One more time,One more chance』のアレンジだ。これまで失恋の歌だと思っていたけど、今聴くとまた別のように受け取れるな、と思った。
父は通夜だけの参加かと思ったが、葬儀にも来てくれた。なんでもたまたま健康診断で仕事が休みの日だったらしい。母や祖母や叔母は「姉ちゃんが引き合わせてくれたのかもね」と言っていた。出棺の時に、姉の頬に触ってみた。冷たい。また涙が溢れてきた。娘を抱っこしてもらいたかった。母は「お母さんって呼んで」と泣いていた。『ヴァイオレットエヴァーガーデン』の7話に「あと何千回だってお父さんと呼んでほしかった」というセリフが、10話には「お母さんがいなくなったら私はこのお屋敷に一人よ」というセリフがある。なんだか全て母と重なるな、とそんなことを思った。妻曰く、その場にいる全員が泣いていたからか、娘は不思議そうな顔をしていたらしい。母の足にギュッと抱き付いていたそうだ。母は「慰めてくれてありがとう、優しい子だね」と言っていたらしい。
火葬場までは母、祖母、母の友人、妻、娘、僕の6人で向かった。父は来なかった。これで会うのは最後かもな、とボンヤリと思った。
火葬場に着き、姉と棺を火葬炉に入れる瞬間に涙が出るかな、と思っていたが意外に出なかった。母の手を握りながら、姉を見送った。火葬が終わるまでは、他愛のない話をしていた。あまり話したことは記憶に残っていない。館内の放送が妙に癖があって、そればっかり覚えている。「お」を伸ばす癖があるのか「おー忘れ物のないように、おー集まりください」とか言うのだ。祖母の火葬もここで行ったのだが、その時もこの人が放送を担当していた。
火葬が終わり、骨になった姉ちゃんの骨上げを行った。娘は姉ちゃんの骨を見て「こわい」と少し離れた所に立っていた。つい先日まで話していた姉ちゃんがかなり小さくなってしまった。骨壺を抱え「姉ちゃん、家に帰れるよ」とか話しかけながら、マックでドライブスルーして帰った。家でチキンナゲットやポテトを食べながら「東京のより全然美味しい」と妻が言っていた。作り方は一緒だと思うが、何かが違うのだろうか。僕もポテトを食べてみたら、確かに東京で食べるものより美味しかった。地方マジックか。
夕飯の買い出しに近所のスーパーへ向かった。寿司や刺身を買ってみんなで食べた。ただのスーパーの寿司なのに、すごくレベルが高い。これが地方だよな、と帰ってきて食べるたびに思う。
テレビでソフトバンクホークスvs日本ハム戦が行われていた。姉ちゃんがソフトバンクファンで、母もその影響で野球を見るようになったそうだ。姉ちゃんは周東という選手のファンだったらしい。試合を見ていたが、めちゃくちゃ足が速い選手だった。母は試合展開に一喜一憂していた。僕は一杯酒を飲んだら妙に頭が痛くなり、顔も赤いと言われたので布団に入ることにした。妻と娘は風呂に入り、母はTVを観ていた。しばらくすると、母の泣き声が聞こえてきた。頭痛が少し治まったのでリビングに戻った。母はこれからソフトバンク戦を見るたびに姉ちゃんを思い出すのだろう。姉ちゃんは直近のソフトバンク戦のチケットを取っていたらしい。「せっかくチケット取ったのに、観に行けない」と言っていたそうだ。僕は野球は全く詳しくないが、ソフトバンク戦はいつか必ず球場で観ると決めた。
5月24日(水)、妻と娘は東京に帰るということで小倉駅まで見送った。僕はもう少し残って母のそばに居ようと思った。その日も近所のスーパーで晩ご飯を買い、ビールを飲みながらソフトバンクホークスvs日本ハム戦を観た。しばらくすると母が泣き出したが、僕は何も言わず黙って試合を観ていた。気が付いたらソファで寝ていた。目を覚ますと夜中の2時半だった。試合の途中で寝たから、5時間くらいは寝ただろうか。よくこんな小さいソファで寝れたな、よほど疲れていたんだろうな、と思いながら顔を洗い歯を磨いて布団に潜った。
5月25日(木)、10時前に目が覚めた。朝食を済ませて母と一緒に市役所へ行き死亡届などの手続きをした。昼は市役所の近くにあったレストランに行った。なんだか久々にちゃんとしたご飯を食べた気がした。
夕飯まで特にすることもなく、ネットフリックスで配信中の相撲ドラマ『サンクチュアリ 聖域』を母と一緒に観た。自分は既に一度観ていたが、母もどうやら気に入ってくれたようだった。
夕飯は相撲つながりということで近所のちゃんこ鍋屋に行った。僕が子供の頃からやっている店だから、おそらく30年以上は続いているだろう。家から徒歩2分位の場所にあるのに、入るのは初めてだった。大相撲の本場所がやっているときは、ちゃんこ鍋が1900円から1000円と半額近くになるそうだ。太っ腹である。
ちゃんこ鍋が準備できるまで、小鉢と野菜の焚き合わせをつまんでいたが、あまりの美味しさに驚いた。特にサツマイモの焚き合わせ。美味しいと思うものは多いが感動するものはなかなか出会えない。近所にこんなに素晴らしいお店があったとは、灯台下暗しである。
ちゃんこ鍋を食べながら母が「闘病中も姉ちゃんは全く甘えてこなかったけど、病院で付き添いしていた2日間は「足をさすって」「汗を拭いて」と普段とは少し違っていた。特別な時間だった」と言っていた。モルヒネを打って、僕が病室から出た少し後に容体が急変し苦しみ出したそうだ。「なんでこんなに苦しいんですか、夜に目が覚めたときに苦しいのはイヤです、薬をください」と。
僕はモルヒネを打ったあとに帰ったことを少し後悔していたけど、姉ちゃんの苦しむ姿を見なくてよかったと思った。そんな姿や声を聞いたら、ずっと頭から離れなかっただろうから。でも、どんな思い出でもいいから、見ておいた方が良かったのかもしれない、という気持ちも少しだけある。
締めのうどんも食べ終えて帰宅後、しばらく家でボーッとしたあとにお気に入りのラーメン屋に行くことにした。母に「まだ食べるの」と驚かれたが、次に地元に帰ってきたときにお店がやっている保証はどこにもない。行けるときに行っておくべきなのだ。
ラーメンを食べる前に、クラフトビールを出しているお店で2杯ビールを飲んでから向かった。今回は醤油ラーメンを食べたが少し後悔した。明らかに豚骨ラーメンの方が美味しい。次に来たときは必ず豚骨ラーメンを食べよう、と思った。
帰宅すると、母は既にベットに入っていてうつらうつらとしていた。僕も顔を洗い歯を磨いて布団に入った。
そして今日、5月26日(金)。駅まで母に送ってもらい、カフェで朝食を食べて12時31分の新幹線に乗った。新幹線の中でこの文章を書いていたが、結局書き終わらずに、21時38分現在、布団の中でスマホで打ち込んでいる。母は疲れが出たのか38℃の熱が出たらしい。おいおい、僕が帰った直後かよと非常に心配である。
今回の事態を全く予期せずに帰省したので、なんとも目まぐるしい8日間だった。でも、思いがけず祖父にも父にも会えた。姉ちゃんが繋いでくれた縁、と思うようにする。
闘病のさなか、全てのことに意味がある、と姉ちゃんは言っていた。姉ちゃんからは物理的にも色々プレゼントしてもらったが、今思えばこの言葉が僕にとっては何よりも大切なプレゼントな気がする。姉ちゃんがいなくなったのは寂しいし悲しいけど、僕には愛する娘がいるし、この言葉を味わいながら健康に生きていきたいと思う。
さて、この週末で疲れを取るために、日曜日はマッサージと温泉に行ってこよう。