中曽根元総理を偲びながら、山尾志桜里が語ったこと。
本日、『令和3年度 中曽根康弘会長を偲び、新しい憲法を制定する推進大会』にお招きいただき、国民民主党憲法調査会長としてスピーチをしてきました。スピーチ全文をここにnoteします。
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スピーチ全文
国民民主党憲法調査会長の山尾志桜里です。
今日は、推進大会へのお招きありがとうございます。
先日、いま司会をされている柳本卓治先生からこの本をいただきました。
中曽根康弘元総理の言葉とその本質的な物事の捉え方を、柳本先生ご自身がまとめられた御本です。
せっかくの機会ですので、ここから感銘を受けた2つの言葉をひきながら、改憲議論のあり方について考え方をお話させていただきます。
まず何よりうなずいたのは、「国政の一番の基軸は憲法問題であり、この本流の仕事をできるだけ早くやるべし」という言葉です。
ともすれば私のところには、「今じゃない」「もっと大切なことがある」「憲法よりコロナ対策だ」というご意見も来ます。
でも、コロナ禍という緊急事態に、国家権力と国民の関係をどう規律するかということは憲法でしか語れないことであり、まさに今やるべき大切な本流の仕事です。また、国を守り人権を守るという観点から対中政策を転換すべきときに、憲法上自衛権をどう位置付け規律するかは、まさに今やるべき本流の仕事です。
そして、本流の仕事であればこそ、やり方として王道を選択すべきです。
緊急事態条項が憲法にあればいいというものではない。自衛権も憲法に「自衛隊」と書けばいいというものではない、ということです。
たとえば、日本の緊急事態法制は武力攻撃事態・緊急対処事態・災害や原子力緊急事態・そしてパンデミックによる緊急事態と区別できますが、それぞれ法制度にはばらつきがあります。宣言や解除の主体が内閣であったり、内閣総理大臣であったり、政府対策本部長であったりします。国会の関与も、承認を必要とするものもあれば、報告にとどまるものもあります。措置についても柱となる総合調整機能のほか、個別に緊急政令が認められているものもあります。こうした制度に横ぐしをさして、緊急事態には、いかなる手続きで誰にどこまでの権限行使を認めるべきなのか。どう規律することが日本と言う国家にとって最も適切だと日本国民は考えるのか。この国民的議論を具体的に始めるべきです。そして、その議論の土台を作る責任は国会議員にありますので、私も早々に試案をつくって提起したいと思っています。
また、自衛権についても小手先でない本質的な議論が必要です。自衛隊を書くだけで何も変わらないと言うやり方は、問題の核心である9条2項との矛盾を解消できず、少なくとも王道とは言い難い。「自衛権」は「戦力」にあたり、その権限行使は「交戦権の一部行使」にあたる、ということから逃げてはいけないと思います。その上で、手続要件と実体要件のもっとも本質的な要素はなんなのか、しっかり議論し、必要な範囲で憲法に明記すべきです。国会議員が真剣に正直に国民に説明すれば、国民の良識は必ずついてくる、と私は思います。
もうひとつの言葉は「主体性の回復とは、日本が、自分で、私は何だ、と決めること」という言葉です。日本と自分、日本と私、ともすれば「公と私」「国家と国民」というふうに対峙されがちなこの関係性を、どう捉えて、とんとんとんと並列に並べてお話しされていたのか、その深い意図を、もし伺う機会があればぜひお尋ねしてみたかったです。
浅学ながら思うのは、この「日本」とか「自分」とか「私」というのは、死者も含めた国民とその国民が形作ってきた国家を意味しているのではないかと思います。
よく憲法は「国民が国家権力をしばるもの」と言われますが、「権力を生みだす」のも国民だという点は見逃されがちです。そう考えると、国民と国家を対立関係だけで捉えるのではなく自同性にも目を配るべきであって、そのときの国家とは、日本の歴史と文化を形作ってきた死者も含め国民がおりなす共同体なのではないかと思います。
そういう議論を、憲法議論、改憲議論として提起していきたい。
そのためには、国会で憲法審査会が開かれなくては困ります。今国会は国民投票法7項目が成立してよかったね、ということでは余りにハードルが低すぎる。
ぜひ、今日の場のように、国民の側から国会議員に対して憲法議論を提起し、鼓舞し、前進させるような取り組みを進めて頂きたい。私たち国民民主党もしっかり応えていきます。
本日はありがとうございました。