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俳優エピソード本「海外版ホームレス中学生」(アルゼンチン編)

※こちらの文章は、山岡竜弘のエピソードトークを書き起こしたものです。実際に話し続けているうちに、尾ひれはひれがついて、もはや原型を留めていません。当時を知っている方は個人連絡にてご指摘下さい。

※登場人物の名前は全て偽名です。これらのエピソードを集め、いずれ製本して、一冊の本にする事を目指しています。製本の際は、全登場人物をご協力下さった方々のお名前にしたいと考えています。

※映像化、漫画化したい方がいらっしゃいましたら、僕までご連絡下さい。

それではごゆっくりお読み下さい。


「海外版ホームレス中学生」(アルゼンチン編 -序章-)


南米アルゼンチンでの生活も2年間が経とうとしていたある日、日本語教師としての任期を終えようとする親に向かって、僕はこう言い放った。

「アルゼンチンに残りたい」

今、考えれば、15歳の日本人男子が一人、アルゼンチンで生活するには、それ相当な手続きがあったはずだけど、夢見がちなお気楽少年には、そんな労力を想像する余地はなく

「あのキングカズがブラジルなら、僕はアルゼンチンでしょ。」とプロサッカー選手になる夢を信じて疑わず、希望に胸を膨らませ切って、親に懇願していた。

到底プロサッカー選手になどなれまいと、分かっていたはずの両親だったけど、無鉄砲極まりない願いをひるまず頼み込んでくる少年の願いを、叶えてやろうと、奔走してくれた。

ホームステイ先や、その国において親の権利を持つ「親権(しんけん)」の所在など、滞在に必要なものを一通り揃えて、いよいよ家族の帰国を目前に、所属するサッカーチームを決める日が訪れた。

いくつもあるチームの中から選んだのは、アルゼンチンの名門サッカークラブ、ご存知の方もいるかもしれない「リーベル・プレート」のジュニアユース。あのメッシも若い頃所属する可能性があったと明言するビッククラブです。

入団試験の日、田舎町のミシオネス州から首都ブエノスアイレスに向かう車に揺れながら「南米仕込みのプレースタイルを磨いて、鳴り物入りで日本に逆輸入するんだ!」と、闘志を燃やしていました。

入団テストは、試合形式の紅白戦。冬のブエノスアイレス、配られたユニフォームに袖を通すと、ひんやりと冷えましたが、グラウンドの外で肩を寄せ合い、固唾を飲んで見守ってくれている両親を見ると、熱いものが込み上げてきました。

キックオフの笛が高らかに鳴り響き、一気に動き出すスピーディーな試合展開。活路を見出そうと、必死に声を張り上げ、走り回りますが、アルゼンチン全土、いや、ブラジルやパラグアイなんかの近隣強豪国からも、同世代の強者たちが、このテストを受けに来ており、熾烈を極めます。激戦の地に一人潜り込んだ唯一の日本人選手として、誇りを持ち、今までの全てをぶつけようとプレー。

試合終了の笛。全てを出し切りました。

ほぼラモス瑠偉の風貌をしたコーチの元に、父が合否の結果を聞きに行きます。監督が放った審査結果は、聞き慣れない単語と単語の組み合わせで出来たコトワザだったので、どういう意味だか調べようと、西和辞書を開く父。 緊張が走ります。

「なるほど。」

「なんて書いてあった?」

「コトワザだね。」

「なんて?」

「言うよ?」

なかなか答えない父に痺れを切らし、僕は父の持つ辞書に身を乗り出し覗き込みました。そこには、この辞書を作成した人が、導き出した秀逸な和訳のコトワザが記してあります。

「箸にも棒にもかからない。」

大きな不安を抱えたまま両親は日本に帰国。

こうして、所属クラブの決まっていない僕のサッカー留学が幕を開けました。

空港で、両親、兄弟に、色んな意味で想い入り乱れた涙の別れを告げた僕は、予約してあったホテルに向かいます。

フロント越しの2mはあろうホテルマンに「15歳では一人では泊まれないよ」と言われてしまいます。「予約時と話が違うじゃないか」と食い下がりましたが追い出されてしまいました。

大都会ブエノスアイレスで独り、留学初日から宿無しの大ピンチに見舞われます。

続く。

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