文章を読んだら映像が浮かばなきゃいけないの?
こんにちは!
先日こんなツイートをしてたので、それについて書いてみます。
この話題の発端は声優の緒方恵美さんのTweetです。
緒方さんは、声優の演技として『青い空、白い雲』という文章が与えられたら、脳裏に「どのような空に、どのような雲が」という光景をありありと思い浮かべてから口にするようにしていると。
しかし(仕事の現場なのか指導の場なのかはわかりませんが)「最近の子はただ読むだけ」で、「想像してというとポカーンとしちゃう」という経験をされたみたい。
それを踏まえて「言葉の向こうが読めない人が増えている」と嘆いてらっしゃいます。
僕が引用リツイートしたTweetはそのあと
と続きます。
文字から映像や光景を「想像できない」人ははたして「声優の仕事や演技の仕事はできない」のかという。
いちばん上に貼り付けたツイート通り、僕自身は「文字をそのまま文字として読む」人間です。端的に言えば、文字から風景や情景を思い浮かべるのがとっても苦手です。めちゃくちゃ一所懸命、思い浮かべようとすればできますが、映像を脳内に具現化するのに使う集中力が多すぎて、先の文章を読むことができなくなっちゃいます。
J・R・R・トールキンの「指輪物語」や「ホビットの冒険」も読みましたが、トールキン特有の仔細な風景描写も、僕にはあんまりピンとこないので、どんな地形なのかーとか、そのキャラクターがどんな服を着ているのかー、みたいなところは大抵読み飛ばしちゃってます。
そういう具体的な風景描写ってトールキン文学のいちばん面白いところの一つと言ってもいいぐらいだと思うんですが、僕はガンガン読み飛ばしてきました。それでも面白いもんね、トールキン。
他の小説を読んでいても、例えば登場人物の服装とか容姿についての記述が多い箇所は、読んでてつまらなく感じちゃうので読み飛ばしちゃうことが多いです。
でも、そういう「映像的」な情報って作品にとって重要な要素であることも多いじゃないですか。なので、「あ、この作品にとって服装とか大事そうだな」って感じると僕はそこの記述を「文字情報として」読んで、文字として記憶しています。
浅葱色の着物、とか、着古されてしわくちゃの柔道着、とか、ヴィクトリア朝風の青いシルクのドレス、とか書いてあったりしても、それを脳内で映像化して映像として記憶しておくことがめちゃくちゃ大変です。
だから「浅葱色」「柔道着」「青いシルク」というのを文字としてキャッチしておいて、必要であればその情報をあとで脳内から引っ張り出してきます。
もちろん、「浅葱色の着物」を全く脳内に想像できないかというとそんなことはないんですけど、「色」の再現はけっこう難しくって、想像するにしても白黒映画みたいな、グレーがかった感じになります。
知識として、浅葱色というのはどのような色なのかは知っているし見たこともあるので、「浅葱色の着物」というものがまったくどういうものかわからないということではないのです。頑張れば思い浮かべることができる。
でも、その「浅葱色の着物」を着た登場人物がそのまま、そのあとの筋書き通りに歩いたりしゃがんだり、棚の上から箱を下ろしたりする場面を「動画という映像」として想像しながら読むことができません。ほぼ不可能に近い。
この、文字を文字のまま読む状態を説明しようとするのはとっても難しいのです。だってそのまんまなんだもの。文字を文字のまま読んでいるだけ。
それでも僕は本を読むのが好きだし、大好きな小説もたくさんありますし、こうやって文章を書くことも好きに育ちました。
でも、こうやって考えてみると思い出すのは、例えばローラ・インガルス・ワイルダーが書いた「大きな森の小さな家」のシリーズなんかを子どもの頃に読んだ時にはかなり、挿絵に助けられていた気がします。
文字を読んだらその光景がバーっと無限に脳裏に浮かびあがる方が読書にハマるのはよくわかるんですけど、僕は全然そういうタイプじゃないのに本好きになったのですから面白いものですね。
さてさて。
そんな「文字を文字のまま読む」僕、「文字から映像を想像することがとてつもなく苦手」な僕はいま現在、俳優としてお芝居の仕事をしています。
緒方さんは声優さんですが舞台の仕事もされています。僕は声優の仕事はしたことがありませんが、舞台の仕事をメインに活動をしています。
ひとつのTweetを取り上げて、それだけである人の考えてること全てを推測できるわけはないので、緒方さんの書いたものに反対したいわけでも噛みつきたいわけでもありませんが、僕としては「思い浮かべられなくても俳優の仕事はできるっぽいよ」ということを僕なりに書き残しておきたいと思います。
もし、僕のように「文字から映像を思い浮かべることが苦手」な若い人の中で、「演技の仕事をしたい」と思っている人がいるとしたら、「文字を文字としてしか読めない」山野が俳優の仕事をしている事実が、なんらかの助けになるかもなぁと思うのでっ。
ところで、「書かれている文字や文章から具体的に何らかの映像を思い浮かべる」というアプローチは、演劇の中では多分、リアリズム的な手法に分類されるのではないでしょうか。
僕たちが生活している世界と同じような光景、同じような物理法則がはたらいている世界の物語を表現するのがリアリズムです。
いまの僕らの身の回りに溢れる「演劇的なもの」のほとんどは、このリアリズムという手法で作られています。アニメや、ドラマや、映画なんか。
リアリズムの演技では、僕たちの日常の人生のように心や体が動くことが非常に重要なので、「リアル」な声の色とか、「リアル」な目線とか、「リアル」な声の大きさが、「上手な」演技の基本になってきます。
だから、そういう部分ではもしかしたら「文字から映像を思い浮かべられない」ことはハンデになるのかもしれません。
でも、演劇や演技って「リアリズム」だけじゃないんですよね。「シュールレアリズム」とか「不条理主義」とか「アングラ演劇的な手法」とか「暗黒舞踏の要素」とか「神秘主義」とか、いろいろあるわけです。
僕たちの生活圏にある演劇も、ほとんどが「リアリズム」だれど、その「リアリズム」で作られた演技の端々には、上に挙げたような「非リアリズム」の手法が紛れ込んでいるのです。
「非リアリズム」の手法の中には、例えばだけど「頭で言葉の映像を思い浮かべなくても成立する」ものがあったりします。その言葉の「音」の要素を拡張してセリフを言う、とかね。
むしろ、いまはリアリズムが(ほとんどの人にとって無意識的に)市民権を得ちゃっているから、演劇の方法がリアリズムに偏りすぎて、表現の可能性としては非常に狭いところに閉じ込められてしまっている状況だ、とも言えるわけです。ある立場からしてみたら。
僕は、文字から映像を思い浮かべることは苦手ですが、単語と単語、名詞と形容詞、主語と動詞と助詞の並べられているその関係性から、その「ことば」と「ことば」の間に漂い張り巡らされた「緊張感」や「肌触り」なんかを感知するのが得意です。
「浅葱色の着物」という文字から浅葱色の着物を着た登場人物の動きを映像として想像するのはどうしたって苦手なのですが、「浅葱色の着物」という文字から、その色の持つイメージの涼しさや淡さ、晴れやかな色ではあるけれどなにかを喪失したような心許なさ、夏に似合いそうな色だなという印象や、だったら着物の生地は絣だろうか絽だろうかという想像、帯はどんなもの、帯留めは、髪型は、かんざしは、裸足だろうか、足袋だろうか、着物に模様は入っているのだろうか、みたいな「可能性の想像」を膨らませることは得意です。
「浅葱色の着物」であることの重要さは、「撫子色の着物」であることの必然性とは全く違った緊張感を持ちますからね。「あさぎいろ」という音の響きと、「なでしこいろ」という音の響きとはまったく違って、そこから想起される身体的な印象もまったく違いますもんね。
演技をする上でもっとも大事なことは、豊かな脳内イメージを持つことよりも、豊かな身体的反応を持つことです。少なくとも僕はそう考えています。
脳内イメージを鮮明化することが、より豊かな身体反応を呼び起こすタイプならば、やはり脳内イメージをどうしたら豊かに持つことができるかを考えた方がいいと思います。
でも僕は、もっと即物的な、舞台上の環境とか、相手役や道具類との距離感とか、言葉が持っている質感とか、自分の姿勢がどんな状態かとか、そういったことにより多くの身体反応を引き出されるタイプです。
まったくイメージが湧かない言葉でも、それを自分の身体を通して、肉体の運動として口に出していれば、いずれ何かしらの身体的反応を得ることができます。
自分のお腹や肺の周りの筋肉を動かし、息を吸い、吸った息を吐き、声帯を閉じ、口の中や舌や歯や唇を駆使して、言葉という音を発する。そういうどこまでもフィジカルな、物質的な営みの中で、言葉は無限の質感と緊張感を獲得していきます。
なので、僕自身は、「文字を文字としてしか読めない」特質のまま演技を仕事にしていても、まったく不自由することはありません。
もしかしたら、「映像としてのイメージが豊かなセリフを話してほしい」と思っている演出家さんやプロデューサーさんからは評価が低いかもしれませんが、いまのところ全ての演劇関係者が僕を「使えないやつ」と思っているわけではなさそうなのでホッとしています。
こんな僕でも、使い所がゼロなわけではなさそう。
ひとつ思うのは、僕のこの「文字を文字通りにしか受け取れないが、文字と文字の間にある緊張感をキャッチするのが得意」というのはある種の特殊技能かもしれないけれど、同時に「文字を読めばありありと映像が浮かぶ」というのもかなりの特殊技能なんじゃないのか、ということです。
文章を読んで情景を思い浮かべてみましょう、って、けっこう義務教育の間に当たり前にように要求されたりしますけど、いやそれ、みんな簡単にできることじゃないから、と思うのです。僕の感覚としてはね。
僕は僕自身のこの「文字を文字として受け取る」性質を、けっこう愛しています。文字が好きだから。文字と文字のあいだに生まれる関係性に、ハラハラドキドキするのが好きだから。この文字の次に、こんな文字が置かれるのか!という驚きにいつもときめいているから。
あるいは「詩作」というのはむしろ、映像化に頼らない文字の使い方の局地なのかもしれません。言葉と言葉の組み合わせで、味わったこともないような境地に辿り着かせるのが詩のひとつの役割ですから。
あんまり「映像有利」な読み手だけを褒めてしまうと、むしろ「文学」や「演劇」の幅を狭めてしまうことに繋がるんじゃないかなあ、なんて、マイノリティの僕は思いますけどね!