地域経済と私①~「戦争直後よりひどいよ」、100歳で他界した祖母の言葉~
社会人で地方転勤するまで首都圏育ちの純粋培養
私は、首都圏で生まれたのち、大学卒業までずっと首都圏で育ちました。身バレ防止のため今は具体的な地名の言及は避けますが、大手町から通勤電車で大体1時間程度の場所で20年以上根を生やしてきました。これが私の故郷です。
あえて”都会”と書かないのは、私の生まれ育った町が首都圏でも異例なくらい農業が盛んな地域で、同級生には農家や園芸農園の子息が多かった印象があるくらいの程よい田舎だったので、都会と書くのはやや気が引けました。もっとも、そんな故郷も開発の波にのまれ、駅前に高層ビルが建ち始めましたが。。。
地方との接点は、旅行と帰省くらい。。。
そんな私と地方の接点といえば、たまに行く家族旅行と帰省くらい。特に、私の両親は福岡県と宮城県の出身でしたので、年間1~2回程度の帰省の機会が、私にとって数少ない地域の風――親族や地域住民との交流――を感じる場面でした。でも、帰省というのはあくまで地縁・人縁があっていくものなので、そこで感じるものといえば「じいちゃん、ばあちゃん元気だったな」というレベルのもの。
殊更「地域経済が疲弊している…」などと殊勝なことを思うことは、青年期の私にはないわけです。それでも、例えば度々足を運んだ仙台市はすごく大好きな街で、学生当時から「この町に住みたい!」って思ったくらいです。今思えば、すでに地方への移住欲が高まっていたのかも???
「戦争直後よりひどいよ」、100歳で他界した祖母の言葉
そんな私でしたが、大学生だった2011年に東日本大震災が起こります(ありきたりですよね、でも真実なのでご容赦ください)。
都内の小売店でアルバイトをしていた私は、あの年の3.11に巨大な揺れを経験しました。バイト先のテレビ越しに東北の海岸を大津波が襲う映像を見たときに、大変なことが起きたと感じました。東北に地縁のないバイトの同僚は「うわーすごい、映画みたい」などとその映像を見ながら言っていましたが、私は気が気ではありません。
それもそのはず。私の親族は宮城県でも海岸線にある石巻市に住んでいたからです。その日はずっと連絡が取れず、どうなったかもわからない。石巻市内といっても海岸から5キロ近く離れていたので大丈夫だろうと思っていましたが、どうやら浸水しているらしい。そんな不安の中で、私の2011.3.11の夜は終わりました。
結局、後日談として、親族は自衛隊の力などを借りながら、近所の学校に無事避難していたとのことでしたが、家は1階部分がほぼ浸水。まさか自分の親族にもこんなことが起こるのか。。。という衝撃はありました。
この時のことはまだ沢山書きたいことがあるので別の機会に改めて書くとしますが、震災後少したってから祖母(昨年100歳で他界)と電話をした際に「私は終戦も見てきたけど、こんなにひどい状況は見たことがない。あなたたちの世代が何とかしていってくれないと。。。」と語っていたのが忘れられません。おそらく、この言葉は私の地域への思いの衝動の一つだと思います。
祖母の葬儀を終えて
昨年、祖母の葬儀のため石巻市に向かいました。前日に仙台市に入り、兄と杜の都をぶらつきながら大好きな仙台の町を満喫します。改めて大好きな街だなと思いつつ、翌日、葬儀のために三陸道を通って石巻市に向かいました。復旧・復興がピークアウトしたその街並みを見ながら、震災直後の祖母の言葉を思い出し、噛みしめていました。
既に都内のエコノミストに転職していた私にとって、この機会は「自分が生涯をかけて何をするか」を再度問い直すものでした。少し小説っぽく言うのなら、祖母がくれた最後のメッセージというものでしょうか。それはかっこつけすぎですね。
最後に、この度の能登半島地震で被害を遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?