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ふーたんの金言


それは芸術家の聖なる言ノ葉

私は禄に外出もしなければ、アクティブな活動に熱心なタイプでもありません。
現在の趣味はネット。
ネサフとも。
通信費・光熱費以外はお金がかからない、貧乏人御用達の娯楽です。
自然な流れで、Twitter廃人ことツイ廃になりました。
今はnote廃人なのかな?
廃人の領域には達していないと思います。
好きに書き散らしているだけなので。

Twitterは、今後の輪廻の環を生きる上で「不要な苦を生み出す場所」「下水道に巣食うドブネズミの縄張りのど真ん中」ということで、脱しました。
殺鼠剤も効かない、薬剤耐性持ちのドブネズミの巣です。
あんまり関わらない方がいいですよ。

とはいえ、Twitterから得た要素のひとつひとつは非常に学びが多く、皆の言うようにインターネットの叡智空間ではありました。
育児の勉強に、物凄く良かった(過去形)
既に黄金期は過ぎました。
今はちょっといまいち…。
過去の栄光のアーカイブを思い出しては心に刻む日々。
復習の毎日です。

とにかく勉強になりました。
フォロワーさん、フォロー外の皆様、本当にありがとうございました。



今回のテーマは、過去の叡智から得た学びを一つ。
某アーティストの金言についてです。

自分だけ助かりたい踊りを踊って寝るか

物凄い衝撃でした。
人格破綻者と受け取られても仕方ない言動。

メモもスクショもありませんが、強烈に脳に焼き付いている。

賛否あることは承知の上です。
正義感の強い人は、激昂するでしょう。

いつものオチ。
マワリテメクル ムナヤコト
となることを前提とし、話を進めていきます。

話を進めるだけで、皆様に勧めるものではありません。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

救済とは

救済とはなんでしょうね。
まず、己を識ることから始めます。

願望が満たされること。
希望要項が8割以上達成されること。

それが成り立って、初めてヒトは助かった、と思うのです。

このご時世ですから、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない。
いつ食糧危機に見舞われてもおかしくない。
いつ命の危険に晒されるか分からない。
など、漠然とした不安がつきまといます。

老後はどうしよう…。
お金があればなんとかなるかも。
不安だにゃ〜。

老後の面倒を見てもらう、つまり老いた将来の不安を解消させる手段の一つとして婚姻という未来を選ぶ人もいます。

子どもを作っておけば安心。
子どもが無事に就職して、また子をもうければ安心。
孫が元気に育って良い学校に行って、高収入の優良企業に勤めれば安心。
そういったことを視野に入れる頃には、自分は足腰立たなくなっているやもしれん。
できれば自宅介護がいいけど、贅沢は言えないな。
施設に入れて貰えれば、飢えて死ぬことはないだろう。
看取りは病院で。
そうすれば死亡診断書もスムーズに出して貰えるし、警察のご厄介になることもない。
遺産相続は生前贈与がいいな。
生前贈与にしても各種手続きが発生し、とにかく面倒くさいので終活には力を入れねばなるまい。
孫の就活と共に自分の終活をするくらいのペースでいけば、きっと良いようになりますね。

まさか、リア王のように王位を譲った途端に子に追放される、なんてことはないでしょう。

老王リアは、王位を退くにあたり3人の娘のうちで孝行な者に領地を与えると約束する。
甘言を弄した長女と次女に領地を与え、素直な物言いをした三女を怒りのあまり追放してしまう。
しかし、信じて頼った長女と次女に裏切られ、流浪の身となる。
やがて三女の真心を知り、他国の王妃となった彼女の力を借りて2人の軍勢と戦うも敗れ、三女は処刑、狂乱と悲嘆のうちにリア王も没する。

三女のコーディーリアは心優しい性格で、追放された惨めな父王を保護するのです。
そこで「めでたし、めでたし」として辞めときゃ良かったんですが、時代背景がね…。
英仏戦争がバックにあるので、戦乱とは切っても切れない身にあるのですね。

リア王はおいといて、現代でも生前贈与した途端に親子の縁を切ってくる子も恐らくおりますね。

嘘でしょ?
老後を考慮して婚姻を結んだ人は、なんの為にしたくもない結婚をしたと思ってんだよ!!となりますね。
それなら独身でバリバリ稼いで、頭がはっきりしている内に施設の予約をしといて(無理ですが)自分の稼いだ金を全て自分だけに注ぎ込んだ方がよっぽど良かったわ!!
とか言い出す。

しかし、そういう人に限って「自分はボケない」とか言い出すんですよ。
ピンピンコロリであると。
健康寿命=人生の寿命となる等と、根拠のない楽観視をしている。
明日トラックとの衝突事故を起こして下手に生き残って、重度身体障がい者にならないという保証はどこにあるのですか?
仕事も失い、家族もなく、介護者もおらず。
しかも、そういう人に限って普段の言動がヤバい。
「老人介護は切り捨てろ」
「介護保険は不要」
「健康保険制度を撤廃しろ」
本当に、そんなことを言っていいんですか?

先の見えない世界。
安易な発言は口にしないことです。
社会の仕組みを、というか世の中の全てを見るんです。
ざっとでいいから。
不要なものは存在しないというのが分かります。
その国・国民に見合った制度が、積み上がっている、ということがぼんやりとでも見えてきます。
なんか吠えても無駄です。
必要としている人がいることを忘れてはならない。
いつ、自分が糾弾した組織にご厄介になるかも分からんのだから。
バカにしくさった制度を図々しく貪り尽くす程、浅ましい根性だというのならそうなんでしょうけどね。
図々しさを神と崇めるズーズー教の宗徒だというのなら、知りません。
宗教の自由。

しかし、人間としてはズーズー教に傾倒し過ぎるのもどうかと思いますよ。
「貰えるものは貰っときましょ」
なんて、本当は言えないんですよ。
誰から集めたものだと思っているのです?

などと考えると、外せなくなりますよね?

自分だけ助かりたい踊り。

いやだ。
こんな、面倒くさい軋轢。
雁字搦めの世界。

みんながみんな、自分だけ助かりたい、と思ったらどうなるでしょうか。
強奪が始まると思いますか?
そういう人もいるでしょうね。
根こそぎ持っていくという行動に出る人。

でもね。
みんなが、助かりたい、ですよ?
強奪する輩を諌める人が出てくるでしょう。
やんわりと。
時に、すこし強めに。
自分の分の配分が減るやろ!と

みんなは自分は助かりたいと思っている。
誰かが助からないとなると、みんなが、が成り立ちません。

俺だけレベルアップ という作品がアニメ化されたらしいですが、どう見てもタイトル出オチです。
主人公だけ何故か強くなって無双するパターンですよね。
なんでレベルアップして強くなりたいのですか?
ダンジョンのモンスターを倒して回りたいから。
モンスターを倒せないと、生活が出来ないから。
モンスターを倒せば、実はみんなが助かります。
主人公の俺は強くなって、良い気分になれる。
他のダンジョン捜索者は、ひょんなことから命を救われることもある。
海外作品なので、ちょっと感性が合わないところもあります。
しかし、なんだかんだで自分だけでなく助かっちゃいますよね。
8割くらいは。

自分だけ助かりたい踊りですよ。
自分だけレベルアップして、謎に強くなって他者を実力で黙らせられる上に、お金まで稼げてしまう。
血の気の多い輩に喧嘩をふっかけられても、抗争は最小の被害で済みますね。
そして、レベルアップのことは伏せておきます。
嫉妬されますので。
能ある鷹は爪を隠す。

しかし、恐らくこの作品の主人公はそんなつもりは毛頭ないと思いますよ。

これらは私の勝手な考察。
正しい答えではないです。

物語というのは、内容に対する受け止め方を規制されることがあってはならないのです。
絶対にこうである、と思うのは間違い。

絶対的な答えは存在しない、という個人の意志の尊重を重視する。
それが、国語の基本です。

「まあ、そういう考えもあるよね」
それだけです。

あなたがどう思うか、何を感じたか。
それだけが重要。
布教するときは、個人の感想を織り交ぜてはいけませんし、思想を絡めてはいけませんし、本気にしすぎてはいけません。

今回の記事のテーマも、内容は過激です。
他者に触れ回ってはならない。
心の内に留めておくだけにしておくもの。

誤解を招きかねません。
「冗談でも、なんて冷たいの」
と言われ、下手すると殴られるかもしれません。

でもね。
こういうのも、あるよ、とだけ。

それが、真の救済への道の一歩です。


自己保身が基本

自己保身は基本概念です。
奴隷契約を結んでいるというのなら別ですが、現代の認識にそぐわないので保身第一。
それ故、自己保身に走る人を冷酷な人間だと受け取ってしまう人もありましょう。
自己保身という言葉を覚え、それを誰かへの糾弾の言葉に使ってしまう人もありましょう。
修羅ですね。

例えば政治家は糾弾の対象になりがちですが、第一の理由が
「俺達の税金を無駄遣いするな」
です。

政府官僚の内情が暴露されて、実は節制に節制を重ねている、ということが知れ渡っても猶「税金!それだけのお金があれば○○が出来た!」と騒がれます。
そういった訴えは、私は見ないことにしました。
無理ですよ。
努力の片鱗が見えないのですか?
そんなに言うなら、もっと出資してください、となる。
まさか、それっぽちの金額だけで、お金を出した気になっているのですか?

最終的に、リア王になってしまいますよ。

え?
信じないですって?
もういいです。
さようなら。


あまりこういう話はしたくないのですが、ちょっと外せなかったです。

自分だけ助かりたい踊りは、自己保身の現れ。

まず、自分が助からないと意味がない。


トロッコ問題に通ずる難問。
いいんですか、これで?

ガープのカッコよさを描く、とは言ってもね。

自分だけ助かりたい踊りの場合、どうします?

3人でボートに乗って、力の限り漕ぐ。
それしかないです。

え?
老人と赤ん坊を猛獣に差し出して、囮として喰われている間に自分だけ逃げるですって?
それは、自分だけ助かる正しい方法ではないですよ。
老人と赤ん坊が恨みがましい性格だった場合、いつかの世で仕返しされます。仮に二人が温厚な性格でも、老人と赤ん坊の家族が許さないかもしれない。世論が許さないでしょうし。
いつかの世で、確実に自分の安全が脅かされます。
そこまで視点を広げる必要がある、という。


途中で沈んだら仕方ない。
猛獣に喰われたら無念。
しかし、諦めてはいけない。
頑張ったけど、駄目だった。
それならしょうがない、で最終的に全員助かるのです。

しかし、あんまりこういうことを考えない方がいいです。

冥界くぐりの試練のメニューになってしまいますよ。
これは宇宙の総意ですからね。
トロッコ問題は、それについて考える人が多数存在したことで思形が思型となり精神宇宙に現実となって存在するようになってしまいました。

思いの力は、実現を呼ぶ。
いつかの世で、ワンピースのガープの最初の授業も実現してしまう。
そうして落胆するのです。
なんであんなこと、考えたんだろうって。


それは、いいですけどね。

他人を助けるにも、訓練が必要なのです。
いきなり全てを助けられない。
故に、まず自分を助ける。
少しずつ、慈善について練習します。
本当に小さなことからで。
やがて、段々と出来ることが広がっていきます。
出来ることが広がった人間は、自分が助かる可能性がグンと上がります。
まるで慈善家のようだ、と言われるようになります。

しかし、その頃には本人は自覚なし。
慈善?
そんなつもりはないのだが?
自分だけ助かりたいだけだが?
となります。

不思議でしょ?
でもそうなんですよ。

自分だけ助かりたいのにね。
下心も、いつの間にか抜けちゃった。


すてがまり という戦法が一時期話題になったようです。

敵陣に数人を残し、命の限り戦わせて足止めさせ、その間に本陣が逃げる、というトカゲの尻尾切り作戦です。

非道に見えましょう?
画像の通り、島津です。

非道に見えるかもしれない。
しかし、本人たちは納得して行っています。

「おやっどさんのお役にたて仕るんば、よろこんでその身をさいいだし候」
漫画の豊は、いくんば薩摩弁ばおかしか、と言ってますが。
訛過ぎ。
仕方ないですね。

おいば所詮巧妙餓鬼んちょよ
おじどんや親父っどさあになれん
じゃっじゃどん
やつは違あ
信長なあ
おいがすてがまりばすろ
ノブがかんず潮目ばかええ
そんたまあ
とびはねばすうわい

と言うでしょう、と本人が申しております。
親父っどさあ なんですよ。
親父殿様、と丁寧に丁寧を重ねるのが、鹿児島弁。

捨て奸は、最後の切り札です。

最終奥義という意味ではないですが

戦国の世、生き残りの為にどうしても取らねばならぬ苦渋の決断。
故に。がまり などと略すほど気楽には使われていません。
捨て奸と、ちゃんと言います。
命を捨てるなんてとんでもない。
義弘公はそう思いながら、必死の攻防戦の末に仕方なく行いました。

皆に訊ねて、覚悟のある者だけ募って。
あまりに優秀な人は、周囲が止めました。
「おまあはやるがある」と。
お前にはまだやるべきことが残っているだろう、と。
故に、負傷者、実力及ばず今後郷の役に立つには力不足であるという者が、捨て奸の足止め役を買って出たのです。

次元の高い、自分だけ助かりたい踊りでした。
誰が踊ったの?
足止めを自分から買って出た人。
義弘公は、違う場面で踊ります。


歴史の一頁を垣間見るのは良いですが、ドリフターズのこのシーンは私は覚えがありません。
「あ、豊が出てる」
くらいしか見てなかったです。

「豊が信長を信じて、自ら足止めを買って出ているのか。主人公やな。廃棄物のみんなが仲良くなったんだなあ」と。
島津のすてがまり戦術は流してましたね。
かごんま弁、よう分からん、と。
歴史モノは殆ど流し見です。
そこから文化を学ぶとなると、2〜3回読み直しをしないとたどり着けない。
それと、ドリフターズの漫画は絵が派手で、少しとっつきにくい所がありますね。

つまり、ひっかからないんですよ。
すてがまり には。
薩摩人の戦いか、とだけ。

これ即ち、その次元を抜けているということになる。

気になるワード。
気になる事件。
全て、その時の自分が学ぶべきもの、となります。

新知識を得た。
レベルアップ!な快感は得られないかもしれません。
カタルシスといいますが。
少し待つと、また追加で答えのおかわりが来るかもしれない。

これが、ヌーソロジーの幅化に繋がります。
全体を見るか、一部を見るか。

戦国時代を生きた義弘公の意志を無視して、作戦だけ見るか。
九州人への偏見で見るか。
などですね。

更に言うと、一時期ヌーソロジーサロンで話題に上がっていた、エヴァンゲリオンに出てくるカシウスの槍。
それに関係してきます。
あれはなんだったのか?と。

新劇の破のあとは観ていないのでハッキリしたことは言えません。
ただ、あれは「個々の持つ正義感」という解釈を当てるとしっくり来ると思います。
槍を使う人間の意志。
本編を観ていないので、解説は出来ません。


ここまでくると、自己保身とは?と悩まれると思われますが、やるっきゃないんですよ。
自分の認識に合わせた救済が訪れます。
それが、自分だけ助かりたい踊り。


まじかよ…。
まじです。

みみにはちまき
ラッタ ラッタ ラッタラ

あしにあかぐつ
ラッタ ラッタ ラッタラ


うさぎとねこ
どっちが本当の意味で助かるかな?


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。


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