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アカシック・マニ車となれ


仏陀の正体とは

お釈迦様の名で広く知られる仏陀、ゴータマ・シッタルダ。
謎に包まれた彼の方は、今でも研究が進められております。
手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-
という映画に出てくる仏陀は、見た目がモロに弥勒救世主観音の姿をしております。
アイシャドウは入れてないですが、一時期あんな感じの姿をしていました。
2011年に公開された映画ですが、作画が美しすぎる。
初めて予告編を見た時、あまりの神々しさにクラクラしました。
映像に弥勒が宿っていたのだと思います。

5次元の世界に赴けば誰でも謁見することは可能ですが(取り次ぎは必要です)物凄いカリスマの持ち主で、全身から強烈な光を放っており誰もが皆その姿を目にした途端にひれ伏します。
それが弥勒。

お前は何故、そんなことを知っているのか。
まるで会ったことがあるような口ぶりだな。
と思われることでしょう。
会ったことがあります。
仲良しさんです。
本当に霊媒が可能なら、会うくらいは出来ます。
ただ、普通の人は威圧感に押されて近くに降臨しただけで感極まって涙を流すことでしょう。
しかしながら、私は全く涙など流しませんでした。
「物凄い腰の低さだな」
というのが第一印象。
そのあとは、ちょっと抜けているトッポいにーちゃんにしか見えませんでした。

その弥勒ですが、彼は釈迦ではありません。

以前書いた気がしますが、釈迦という人物は明確には存在しないのです。
釈迦は、人生そのものを指します。
最近「仏陀という男」という本が話題になっていましたが、どうやら世間では「密教における仏陀の口から出た真の言葉」なるものを探し当てることに躍起になっているようです。
なぜなら仏教は分派が凄すぎて、原始仏教、仏陀が直接説いた概念が失われているにも等しいくらい不明瞭となっているからですね。

それは、誤りです。
本来の仏道から大きく外れた邪念の一種と言えましょう。

仏陀の言葉は、それ自体に高徳や価値があるわけではありません。
仏陀が生まれた。
その道。
思想そのものが仏陀であると考えるのが正しい。

どこどこの国のだとか、どこの派がとかそういった細かいところに囚われている時点で、仏教に傾倒する資格を失いつつあると言っても過言ではありません。

人生です。
生きた。思想が発生した。
発生から現在までの持続そのもの。
釈迦とは銀河であり、「音」なのです。
文明の成長に必須とも言える、定められた絶対的なモノ。

そも、仏陀なる人物を何から何までそっくり真似しても悟りが開ける訳ではありません。
ゴータマ・シッタルダは、とてもじゃないけれど人に誇れるような人生を送っておりません。

自分の命と引換えに母を失い、父に厳しく育てられ、当時(紀元前頃)の道楽の全てを知り尽くした後に美人の妻を娶ります。
身重の妻を横目に見つつ「哲学したいなあ。でも現行のバラモンはなんかしっくり来ないんだよね。どうにかいい考えがないかな」とか言って出家してしまいます。
当然、親族から冷たい目を向けられ勘当同然の扱いを受けます。
見目麗しく学も有り、言葉巧みに人々の心を掴む彼はあっという間に「宗教っぽい集団」を作り上げ、数人の弟子が出来ます。
しかし彼らはバラモン過激派でした。
ゴータマは悟りを開けるかな、と思い苦行に身を落としますが「やっぱ辞めた。断食くらいで真理が見えるわけないでしょ」とか言ってすっぱり断念します。
餓えて弱っているところ、スジャータという美しい娘にミルク粥を恵んでもらっているところを弟子たちに目撃されます。
また女をたらしこんでいる、修業をほっぽりだして何事かと勘違いされ、「裏切り者は出ていけ」と組織を逆破門されてしまいます。
その後、ゴータマはネパール、ミャンマーを経て中東〜インド周辺を放浪し、アフリカに辿り着きます。
そこでまた恋をし、集落に溶け込みそのまま人生を終えました。
菩提樹の樹の下で北枕で寝ていたのは弟子の一人ですね。

ゴータマは3人の子以外、何も残していません。
現在の仏教は、弟子たちが各々の解釈でバラモンを改変して広めたものです。
名前だけ独り歩きし、仏舎利(仏陀の骨)なるよくわからないものが御尊像として祀られている。

何故、そんなことになっているのでしょう。
それは、ゴータマのカリスマ性がとんでもなく凄かったからです。

「え!あのゴータマさん?カッコいいよね!いい男だし!あの人の話なら聞くわ!」
という人が大勢おりましたので、その威を借りた結果ああなったのです。

つまり、釈迦ことゴータマの中には弥勒の魂が宿っていたのです。

弥勒と言えば、釈迦が沈んだ567…年後に降臨し人類を救うとか言う第二の釈迦扱いされていますが、これは繰り返しの輪廻転生を意味しています。
弥勒は神霊界では神としては未熟で最も地位が低いとされておりますので、釈迦の修業を架せられているのです。
途方もない年月の修業を終えた暁には、宇宙の父として世界に安寧をもたらすということです。
現在は修業がほぼ終わっており、仕上げの段階に入っています。


先日、最高神は誰なの?という記事を書きましたが、釈迦より遥かにえらいのが大日如来。しかし、弥勒降臨後は圧倒的に弥勒がえらくなります。
全ての仏の道を制覇し、超越した先に最高の座が待っている。
現在は未だそこまでに至っておりません。
そも、仏様は大勢いらっしゃいますし役割が違うので誰がえらいとか言う時点で天罰が下りますけどね。
自分の中でピンときた方が、あなたの幽界での上司です。
人は皆、死後仏になります。
現界で知られる仏の名は、有名どころのソウルメイトリーダーとなります。
自分のソウルコロニーのメンバーを直感で見極め、付き従うのがbetterです。

私の場合は、その中に弥勒がいたというだけです。
他の仏様と霊媒で会話することもありますが、殆ど誰が誰だか分かりません。
例えばご不動様と一言で言っても大勢いらっしゃいますし、現在現世に転生修行中の方もおられます。

肉眼では見えない世界の話ですので、明確にご本人様確認もかなわない。
なりすましをしてくる輩もおりますし。
更に、気難しい方も少なくないです。

それはおいていて
仏陀の正体とは、仏教の道筋、仏の人生そのもの。
そう解釈するのが適切です。

マニ教について

3世紀前半にマニが創始した宗教。
古代の神秘思想であるグノーシス主義の影響をうけ、ゾロアスター教・キリスト教・仏教の要素を融合して成立した。
善悪二元論、禁欲主義、偶像否定を特徴とする。

メソポタミア文明から発生したものと言われていますが、大本はアステカです。
シュメールもそうですが、元は南アメリカからムー大陸を通ってインド・パキスタンを経由しています。
ムー大陸はハワイの西、太平洋のど真ん中に存在しました。
海底火山の活発化により沈没してしまいましたが、化石化した自然が資源として形跡を物語っております。
日本近海の太平洋海底にはとんでもない量のマンガンが存在しますが、3億年前にその辺りに農地が広がっていた証拠です。
水圧によって圧縮され、常温核融合によってケイ素がマンガンへと転素したのですね。

マニ教は比較的新しい宗教と言えます。
教義は、一言で言うと勧善懲悪。
光が闇が〜という対立思想はここから来ているのだと思われます。
光も闇も正義でも悪でもなんでもないのですが、マニの風潮的に善悪をはっきりさせるべきということで、善が光、闇が悪という固定概念が生み出されたものと思われます。
しかして、これが母体であるゾロアスターになると、光の化身の正体が諸悪の根源であるアーリマン・アンリマンユとなってしまう。
時代と土地が変わると本体が反転してしまうという巫覡です。

そもそも、光を善、闇を悪とするのは臆病者の考え方です。
光の正体は発生。
闇の正体は結果・顕在化。
たったこれだけですよ。
何を怖がるというのですか。

と思っていたのですが、先日己の心に潜む影なるものの実態に気付いて辟易したところです。
影とは、主語デカの「古い自分」と同じこと。
意味が分からないと思われるかもしれませんが、過去の自分の行いや思想の結果が影の正体、という。

めんどくさ!
過去の自分がしっかりしていないと、後々それが自分の首を締めてくる、という意味になるのですね。

それで悪者あつかいされている。
そう思うと、ちょっとしっくり来ます。
悪神などは本来存在しませんので。

話が逸れましたが、時代と土地の風土によって思想の中身が反転することは常です。

例えば、ギリシア〜ローマ経由で発生した諺
「雄弁は銀 沈黙は金」
というものがありますが
「口うるさいのは良くない。黙っているのが賢い」
という意味があります。
金は銀より価値が高い。
比較の言葉を持ち出して、優れている方を読み手に想像させています。

しかしながら、発生当初はまるで逆の意味がありました。
銀は金より価値が高かったという社会の金融事情が背景にあり、また民衆の意識も
「黙っているより、意見をきちんと言う方が良い」
という風潮が強かった為、意味がまるで真逆だったのです。

民衆の考え方が時代の流れによって変わると、意味も変化していきます。
沈黙は金、雄弁は銀
は明確な答えを述べたものではなかったので、時代の変化にマルチに対応することで名言として遺ったのですね。

で、沈黙と雄弁のどっちがいいの?
というと、あまり余計なことを言うとバカが露呈するので、沈黙を意識した方がいいです。
どうやっても人間というのは、ベラベラと余計なことを話す雄弁な気質が出てしまうのですから。


マニ教に話を戻します。
マニ教は既に滅びつつある思想であり、チベット圏に僅かにその形跡を遺すだけと言います。

しかし、東南アジアの仏教圏では「マニ車」という仏具が存在します。
身口意の象徴の一つといいます。

身口意とは、やること(身)、言うこと(口)、思うこと(意)。
中心的教義に三密加持があり、この3つの身口意を一致させる修行。

三密加持とは、衆生と仏とは本来同一であり
衆生が身に印を結び (身密)
口に真言を称え (口密)
心に本尊を観じる (意密)
が実現する時、それがそのまま仏の三密と相応して仏の加護を受け仏と同一となるとされること。

要は、仏様のマネをすれば仏となれますよ、という修業です。

ただ真似をするだけでは仏界でブイブイ言わせられるほど登り詰めるのは不可能であり、ちゃんと心が入らないと意味がないよ、という。
そういうのが上座部、小乗仏教の考え方になります。
「本気でやれ、行を積めば積むほどよいのだ」
と。
しかし、修業はやってみれば分かりますけれどなかなか身になりませんし、実感が湧かない。
でも、みんなの真似をして取り敢えず組織に属して仏の心を学ぼう、というのが大乗仏教です。
帰属の入口的な。

マニ教そのものはマイナーになりつつあるのに、マニという言葉がそのまま使われているのは不思議ですね。

摩尼とは、仏教の教えの中にある宝石みたいなキラキラした考え方、という意味。
思想そのものが宝なのですね。

なんだかんだ、全体そのものが「仏教」であるのです。
派閥対立も激しいですし、日々新しい宗派が生まれでてはいますが。

繰り返すようですが、これらのことから広まった思想・そのものが仏陀である、と思うのが自然です。
そして、仏陀は喧嘩を望んではおりません。
生老病死の苦から民衆を救いたいと思ったことからの出家でしたので、そのように教義のことで大喧嘩されては本末転倒というものです。
あんまり喧嘩が過ぎると、虚空蔵菩薩様に怒られちまいますよ。


マニ車とは

マニ車は転経器とも言われる仏具です。
本体にマントラが刻まれ、中にベアリングが仕込まれていて風が吹くと音がなります。
その音にマントラの力が宿り、聞くだけで功徳が得られる、というものです。

正直、密教に興味がない人間からすれば
「お経が書いてあるガラガラ?そんなもん振って意味あんのか」
と否定的な感情を抱くことも少なくないと思います。
私も初めてマニ車の存在を知った時、ちょっとガッカリしました。

しかしながら、少しずつ学びを得ているうちに、マニ車も必要だな、と思うようになってきました。

マントラや経を死ぬほど奏上し続けること。
それが何より大切な、仏道の本領域です。
自らがマニ車になるくらいの勢いで念仏を唱え続けないと、身口意の真髄が身につかないという。

しかし無理がありますので、たまの休みにマニ車を回すのも良いでしょう…とも。


そも、なんの為にマントラを奏上する必要があるのかというとですね。
中身チャランポラン人間から脱する為です。

バチクソ厳しい人間になり、やがて柔和な態度を取るようになり、人間性としての密度を上げていく。

その為に、厳しい連続読経に耐えうる精神力を身に着けねばならない。
惑うこともありましょう。
しかし、書いてあるマントラ、中身は本来人道を説くものですが、意味を理解できなくてもヒトとしてあるべき姿へ正す真言を背筋を伸ばして奏上し続ける。
真面目に、ふざけることなく、場面場面で的確な切り替えが出来る、そんな人間になることが仏の道の第一歩なのです。

それが出来るようになれば、マントラの真意が理解できるようになれば、意識的に奏上し続けなくてもよくなります。
考え方そのものが「経」となり、口から自然にマントラが出てくるのですね。
会話そのものに、言葉の一つ一つに功徳を得られるような輝きが滲み出てくる、という意味です。
それこそが摩尼である。
マニ車のようにカンペがなくても、本物の仏となれる。
そういう象徴なのです。

アカシック(天空の、天上の)マニ車となれ。
というタイトルは、自身が仏、それ以上の存在となれ、という目標を書いたものです。

お経は難しい

以前、経典全般について否定的な記事を書きました。
それは未だ私の中でnosさいころじー の考え方が芽吹いていなかったときです。
現状の難解な事象群に腹を立て、「もっと分かりやすく、分かろうとする努力をせんか!」といろんなことにNGを出しまくっていました。

結果的に、「まあ、全は全だよね」という考えに落ち着き、難解とされる経典類もよくよく読み込んで文字の中に潜む次元の高低を見極めていけば「それもアリか…。これで完成体か…」と思えるまでになりました。

智の深度を上げたと言いますか。
そうやって次元上昇が適うのです。
理解。
それしかありません。

しかしながら先の記事にある3つの歌は、伝統に則った経典や真言に負けないくらい人道を説いた、非常に次元の高い歌であると信じて疑っていません。
口酸っぱくなんてもんじゃないくらい経を唱えて全身が梅干しのようになるほどの行が求められる世界ですが、上記の歌を時折口ずさむ。
そんな感じのゆるい修業もアリだと思っていますし、仏界の皆様方も「新しい風」として許しているようです。

https://youtu.be/3SgBz8L3cMQ?si=jps09A9iySRl9hsr


いつでも何度でも

この歌を再度神霊的に分析すると以下のようになります。

呼んでいる 胸のどこか奥で
波動係数8(イベント発生)の巡りを待つのみの人生だが、常に予感を感じている。
それは全ての人が同じ状態。

いつも心踊る 夢を見たい
チャクラ2エモーショナルを全開に輝かせられるように願っている。
感動が欲しい。
心揺さぶる体験を。

かなしみは 数えきれないけれど
人生はいつだって虚無。
虚しい。哀しいことばかりだ

その向こうできっと あなたに会える
乗り越えた先できっとあなたに会えるよ。
君しかぼくの心を満たせない。
それを再確認させられるのさ

繰り返すあやまちの そのたび
哀しい。辛い。失敗しちゃったのかな。
ぼくはまた罪を冒してしまったのかな。
涙が止まらないの。

ひとは ただ青い空の 青さを知る
フトマニ立体図の逆面の深度が上がっていく。
青って2億色あんねん。
判別が可能になっていくよ。

果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける

大丈夫だよ。
無限とも思える苦の道だけど。
どこかに突破口はあるから。

さよならのときの 静かな胸
死んでしまうの。
鼓動が止まる。
心臓が止まって、肉体が機能停止する。

ゼロになるからだが 耳をすませる
死の瞬間、きっと呼ばれる。
大切な人に。
それをぼくは待っているんだ。

生きている不思議 死んでいく不思議
死は肉体的な意味だけではなくて。
生と死はいつだって訪れる。
大小関係なく。
死は最終構成とも呼ばれる。
区切り、完成のことを言うのだよ。

花も風も街も みんなおなじ
それは全てが等しく、同じように生まれては死んでいく。
発生(誕生)から完成(死)
それが4次元の到達だよ。

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

人生は止まらない。
夢を描くことは生きること。
生きることは想うこと。

かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう

強くなるためには人間の密度を上げていくしかないんだよ。
だから、大切な言葉。
心に響く歌。
歌おう。
歌って考えて、芯を強くしていこう。

閉じていく思い出の そのなかに
いつも 忘れたくない ささやきを聞く
哀しくて忘れたくなる過去。
その中に一握の輝きがあったよね。
それを思い出して、ぼくはカタチヅクラレテイク。

こなごなに砕かれた 鏡の上にも
誰かに否定されて、鏡像反射像が歪んでしまっても、
ぼくはぼくとして或り続けている。
否定されたくらいじゃぼくは死なない
死ねない

新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓

いつだって心の中はゼロスタート
新しい気持ちで朝を迎える
静かに毎日が始まる

ゼロになるからだ 充たされてゆけ
人間は充足を得て初めて自分のやりたいことが分かるようになる。
不十分な世界ではなかなかそれが見つからないね。
いつかいつか、本当の自分が見つけられる日が来るから。

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
世界の仕組みなんてどうでもよくなる日が来る。
私をもっと知らなくちゃ。
輝くものは私自身。
私が宝なの。
そう思える日がくるまで、歩き続けよう。


…という内容になります。

人間の幸せは、必ずチャクラの7層の中に含まれているのです。

一層 赤
エーテル

二層 橙
エモーショナル

三層 黄
メンタル

四層 黄緑
アストラル

五層 水色
エーテルテンプレート

六層 藍色
セレスティアル

七層 紫
ケセリックテンプレート

この分析から入ると、本当の自分が見つけやすくなります。

いつかは訪れます。
別れが。
それも最終構成。
生きる意味。
いみ。
ひっくり返すと
みい。
me
私の。
点質に沿った自己構成となる。

何度でも何度でも、出会いと別れを繰り返し、生と死を繰り返し。
やがて、アカシックなマニ車となるのでしょう。

生き様で全てを語る。
そんな存在に。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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