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私の好きな短歌、その1
あ、いいなと感じた短歌を紹介し、簡単な評をします。いわゆる一首評。評をすることが、自分の実作の糧となってほしいと思います。
まずは、中央公論社の「日本の詩歌 第6巻(島木赤彦、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明、岡麓)」で見つけた歌から始めます。文中の作者の年齢は数え年。
中村憲吉『しがらみ』より(『日本の詩歌 第6巻 p195』)
樽負ひてはひる人あり小蓑より乾ける土間に雪をこぼして
「大
私の好きな短歌、その3
中村憲吉、歌集『軽雷集以後』より(中央公論社『日本の詩歌 第6巻』p230』)。
真むかひの山家のなかは西日射しあからさまなる仏壇のみゆ
「秋の山田」中の一首。憲吉が帰郷して家業(蔵元)に従ってからの作。山間の里では、川に沿った平野部分は水田にして、住家は少し上がった山腹に建っていることがある。家が西に面していると、下の田が山影に入っても、家にはしばらく西日が差し込む。そこに「あからさまな
私の好きな短歌、その4
中村憲吉、歌集『軽雷集以後』より(『日本の詩歌 第6巻 p238』)。
病む室の窓の枯木の桜さへ枝つやづきて春はせまりぬ
『日本の詩歌第6巻』の憲吉の章では最後の歌。「窓前」という題がある。これが憲吉の人生最後の歌なのかどうかは分からないが、この桜が咲いた後、5月5日に死去したと注にある。桜の枝がつやづくとは、どんな感じだろうか。見た目に分かるものなのだろうか。晩年病がちだった憲吉は、自分の
私の好きな短歌、その5
夕まぐれ音をひそめて帰り来し子どもは雨に濡(ぬ)れてをるかも
島木赤彦、歌集『切日』より(『日本の詩歌 第6巻』中央公論社 p20』)。
「赤罌粟の花」中の一首。罌粟が咲くのは初夏という。なぜ子どもが音をひそめて帰ってきたのかは分からないが、子どもは濡れている。情景は明白だが、すべてが明らかではないという魅力がある。子供は雨に濡れてしょんぼりしているのか、あるいは何かに夢中で雨に濡れることを
私の好きな短歌、その6
枕べの障子一日曇りたり眼をあげてをりをり見るも
島木赤彦、歌集『氷魚』より(『日本の詩歌 第6巻』中央公論社 p29』)。
「病床」中の一連。この次の歌から、季節は冬とわかる。何もすることがない病床で、視線だけが部屋の中をさまよい、ときおり障子を見ている。それだけの歌だが、写生であるがために、実感がこもっている。「一日」によって時間の幅が生まれ、長い退屈が表現された。
1916年(大正
私の好きな短歌、その11
隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
島木赤彦、歌集『柿陰集』より(『日本の詩歌 第6巻』中央公論社 p81』
作者の思いが真っ直ぐに詠われていて心にひびく。結句の「生きたかりけり」という詠嘆が効果的である。子が書を読む声を聞いて、その将来に思いを馳せ、楽しみに思うと同時に自分はそれを見届けられないだろうという悲しみがあり、ああ、自分はまだ生きていたいのだ、という素直で深い願