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家族やめようと決めました。【2】

 第一回を投稿した後に改めて、自分の人生を振り返り、書いては消して、また書いてを繰り返した。

 不定期と宣言して良かった、そう思う位に自分と家族との関係を思い出す程に纏める事が難しいと感じた。
 なので、先ずは自己紹介も兼ねて自分の事を書くことにした。

 生まれは昭和61年、4歳上の兄、2歳上の姉がいる。今は曽祖父が残した実家に祖母、父母、姉の5人で暮らしている。自分で書くのも何だが、経済的に貧窮していることはなく、衣食住にも困っていない。

 では、なぜ家族をやめようと思ったのか。
この答えに当て嵌まる言葉を探すのに時間が掛かったが、漸く自分でコレだと思う言葉が見つかった。

【無関心】

 家族をやめる以前に、そもそも家族らしい事はすれど、それは形だけで中身が伴っていない。それは時間が経つほどに分かりやすくなり、時期になったらやる、その程度になっている。
 例えば、誕生日。個人の価値観によるが、自分は好きに過ごしたいし、必ず誕生日に何かしないと意味が無いとは思わない。
 しかし、我が家では全員の予定を合わせて外食をしてケーキを食べる決まりになっている。一見すると仲が良い、若しくは思い遣りがある家族だ、と思う人も居るだろう。

 ただ、先にも書いた様に自分は全員の予定を合わせてまでしてほしいとは思って居ない。その事も一度は伝えて見たが、母から返ってきた答えは。

【皆の誕生日も同じ様にしてるから合わせて】

 つまり、誕生日に祝う気持ちはなく、そういう流れにしているからやっている。季節ごとの行事も、そういう事だからやっている。
 親としては何歳になっても子供は子供の精神で、やってあげている、そういう事に満足感を得られるかもしれない。そこに本人の意志があっても無くても、やっている事に意義がある。

 この記事を纏める迄に、此処まで書いて悩んだ。これは自分が大袈裟に考えているだけで、大した事ではないのかもしれない。そもそも、予定を合わせてくれるだけ良い事ではないか。
 確かに時間を割いて貰えるのは良い事なのだろう、人によっては贅沢過ぎると思うだろう。ただ、これだけは伝えたい。

 時間は有限であり、過ぎれば絶対に戻らない。その時間を削ってまで、自分は祝ってほしいとは思わない。

 それでも、同じ様に祝われる。それに意味があるのか、残念ながら自分は意味を見いだせない。辞退しようとしても、皆を理由に今年も祝われる。

 【無関心】な家族から向けられる、形だけ「おめでとう」を喜べるほど、自分は強くない。強くなりたいとも、思えない様になった。

 だから、家族をやめようと決めました。

 

 

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