
「無敵超人ザンボット3」の革新と実験
少し前の記事で「無敵鋼人ダイターン3」から「重戦機エルガイム」までの作品を通して、富野由悠季監督(以後富野さん)の作家性や作品自体の革新性について触れてきました。
その中で「無敵鋼人ダイターン3」と「伝説巨神イデオン」、「聖戦士ダンバイン」ではエゴによる自己正当化と破滅を、「戦闘メカ ザブングル」と「重戦機エルガイム」では革命の中で抗う人間の姿を描いていると結論づけました。
それぞれにテーマの関連がうかがえますが、「機動戦士ガンダム」はその中でも異端であるように思えます。
例えば、記事の中でも触れた荒んだ人間心理や従軍している兵士の姿など、戦争の中で人間の精神が蝕まれる様を嫌なくらい描写されています。
これを描くに至ったベースはどの作品にあったのかを考えたとき、「無敵超人ザンボット3」が思い浮かびました。
今作は如何にもスーパーロボットな姿やタイトルとは裏腹に、昨今では超絶鬱アニメとして有名な作品です。「機動戦士ガンダム」のベースになった部分を探っていきたいと思います。
「無敵超人ザンボット3」の異質さ
今作「無敵超人ザンボット3」(以後ザンボット)は1977年に放送されたアニメです。当時のロボットアニメの定番である必殺技の演出や合体するロボットという要素を踏襲しつつ、異質な部分が目立つ作品です。
早速、今作のあらすじを見てみましょう。
平和な地球に、宇宙海賊「ガイゾック」が出現した。
ゲームのような感覚で人間を虐殺し、街を蹂躙するガイゾックの魔の手に、なす術もない人類。そこに神(じん)ファミリーが操るマシーンが現れる。実は主人公神勝平(じんかっぺい)をはじめとする神ファミリーは、かつてガイゾックによって故郷を滅ぼされた異星人「ビアル星人」の子孫だったのだ。苛烈を極める戦いの中で、神ファミリーは先祖が遺したスーパーロボット「ザンボット3」を復活させ、ガイゾックとの戦いを道を選ぶのだった。
ベースの部分だけ見ると、王道的なスーパーロボット物のストーリーです。
ではどのような点が異質だったのでしょうか?
それは生々しい人間描写にあります。
「正義対悪」を描いた多くの作品において、メインとなる関係性は「主人公対敵の軍団」という構図になります。今作でも、ベースとなるのは「神ファミリー対ガイゾック」の関係性でありますが、ここに第三者である「普通の人々」が絡んでくる点が特徴です。
この「普通の人々」というのは、他作品でいうところのモブキャラです。
彼らはその回のゲストキャラとして登場し、悲劇的な設定や敵との関係性から主人公に助けられたりします。他の作品であれば、モブキャラは問題の解決と共に物語からフェードアウトしていきます。
しかしザンボットでは、モブキャラが被る悲劇が終わることはありません。
例えば、TVで今作で紹介される時によく題材にされる「人間爆弾」の回。
この回では、ガイゾックから命辛々逃げてきた人々が実は体内に爆弾を仕込まれており、街のあちこちで爆散するという残酷な展開が描かれます。
その他にもガイゾックとの戦闘で街が襲撃される場面。
攻撃から逃れるため、人々がバスガイドの女性を押しのけてバスに逃げ込むのですが、それを待っていたかのように敵の攻撃がバスに直撃し、爆散する場面があります。また別の場面では、戦闘によって家が破壊されたうえ、街を追われた人々がやり場のない怒りから、神ファミリーを「疫病神」と罵る場面もあります。
それまでの作品でも、敵が市民を先導して主人公を追い詰めるという話はあったものの、戦闘に巻き込まれた人々を掘り下げた作品は、当時としては珍しく、視聴者にも大きな影響を与えました。
今作において普通の人々=モブキャラは平然と死に、焼かれ、その精神を蝕まれていく存在なのです。
結論:ザンボットの異質さとは、モブキャラ描写の生々しさにある

主人公たちにもどうすることもできず、ただ見送るしかない場面は物凄いトラウマを与える。
「戦争」と汚染された魂
その普通の人々を代表するキャラクターが、主人公のライバルとして登場する香月真吾(こうげつしんご)です。彼は不良少年グループの一人として登場し、自分のグループに勝平をスカウトするなど、良いライバル関係を築いていました。
しかし神ファミリーとガイゾックとの戦闘が激化し、街からの疎開を余儀なくされると、彼は神ファミリーを迫害する側にまわります。つまり彼は、戦闘の被害に対するモブキャラたちの怒りを代弁するキャラとして、その役割が変化していくのです。中盤以降は神ファミリーに理解を示し、協力的なキャラになるのですが、序盤におけるモブキャラ代表の香月と神ファミリーとの確執は重要な要素として機能しています。
この関係性から見えてくるのことは、例え「正義の戦い」であっても、巻き込まれる側には悲劇でしかないという点です。そして悲劇の渦中に置かれた人間は、簡単に冷酷になり得るという点も、ザンボットを語るうえで外せない部分だと思います。

中盤以降は勝平たちの良き理解者となり、最終回でも地球に帰還した彼を迎える役割を担う。
つまりザンボットは、戦争を「宇宙人からの侵略」に見立てることで、人間の魂の汚染が描かれた作品であることがわかってきます。
これは本作の最終回のテーマでもあります。
終盤でついにガイゾックを追い詰めた勝平は、彼らの正体が異星人によって生み出された巨大なコンピューターであること知ります。そのコンピューター「コンピュータードール8号」(以下8号)は、進歩しすぎた文明と人間の危険性が地球襲撃の理由であると明かします。この理由に最初こそ否定を示す勝平でしたが、これまでの市民の所業を思い出し、複雑な感情を抱きます。
最終的に勝平は8号にとどめを刺し、地球へと帰還するのですが、ちょっとスッキリしないモヤモヤとして終わり方です。
結論:「戦争」は人間の魂に汚染をもたらす行為である

「機動戦士ガンダム」の雛形としてのザンボット
これらの描写を「対人間」の戦争で表現したのが「機動戦士ガンダム」(以後ガンダム)ではないかと思います。ガンダムの終盤は政治劇や人類の革新といったテーマで構成されていますが、序盤においては戦争に巻き込まれた少年少女たちの視点で、荒んでいく人間模様がメインとなっています。
例えば、「富野由悠季の作家性」でも触れた老人が子供のパンを盗み食いするシーン。このシーンでは盗んだ老人もバツの悪い表情をしていることから、普段はそのような行為に走らない人間であることがわかります。これ以外にも序盤のガンダムは、都合を押し付ける一般市民と軍人との衝突が何度も描写されます。
この衝突は中盤以降は見られなくなりますが、ガンダムにおいても、戦争における大義名分は、戦う側の都合に過ぎず、巻き込まれる側には悲劇でしかないことが表現されています。
このように、ザンボットで描写された関係性が、ガンダムの人間関係や市民の置かれた状況の雛形になっている事がうかがえますね。
悲劇の中の「希望」と抗う意志
さて、悲劇ばかりがフォーカスされがちなザンボットですが、人間への希望も残されています。上述した香月の改心をはじめとする、市民からの理解がそれに当たります。中にはガイゾックの襲撃に曝されながらも、必死に抵抗して神ファミリーの勝利に貢献する場面も増えていきます。この展開により、物語後半にもある程度の明るさが戻ってきます。
この相互理解によって神ファミリーは孤独から脱せられたことで、最後の8号との戦いにおいて、迷いを見せつつも勝利することができたのではと考えられます。
つまり、戦いによる汚染された魂が描かれる一方で、悲劇に抗う強い意志や人間の尊厳の賛美もザンボットにとって大きなテーマであったと思えます。
結論:悲劇を描くことで、逆説的に力強い意志や人間の尊厳を描いている
まとめ:「無敵超人ザンボット3」が遺したもの
ここまでの内容を基に、改めてザンボットで描かれたテーマをまとめたいと思います。以下がその結論です。
①戦いにおける、人間の魂の汚染
②悲劇に抗う強い意志や人間の尊厳の賛美
このように、「魂の汚染」や「人間の冷酷」という点が、群像劇であるガンダムの構成や作品テーマの雛形として機能していると考えられます。
その一方で、悲劇に抗う意志や人間の尊厳という点は、後年の「戦闘メカ ザブングル」や「機動戦士ZZガンダム」に見られる傾向です。
つまりザンボットは、ガンダムのみならず、その後の富野作品のエッセンスとなる要素が凝縮された作品であるとわかりました。
いずれにせよ、当時のロボット物において、非常に革新的な取り組みがあった作品であったことがうかがえますね。
富野さんにとっての「戦争」を考える上でも、とても大切なポジションに位置する作品だと考えられます。
今回はこんな風にまとめてみました!
富野さん論やザンボットについて、意見をいただけると嬉しいです!
ではまた、次の記事でお会いしましょう!