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言いまちがえ(2024.11.27)

朝、私は「歯磨き」の事を「梅干し」と言い間違えた。

幼稚園の歯科検診で虫歯が2本も出来ている事が判明した次男(3歳)に「歯磨きを真面目にせんから虫歯になるんよ」と言うところを、「梅干しを真面目にせんから虫歯になるんよ」と言い間違えたのだ。

なぜ歯磨きと梅干しと言い間違えたのか分からない。少し前に妻と長男が梅干しを食べていたというのはあるかもしれないけど、歯磨きと梅干しに共通点などない。

私は一度ならず二度も歯磨きと梅干しを間違えて、妻や長男に笑われた。どうでも良いけどそんな事があった。

しかし私は思う。「歯磨き」と「梅干し」はどこか深い根っこの部分で繋がっているのではないだろうか。言語的な構造とか、その言葉を発声、または聞いた時の言語野の動きとか。

妻は最近週に何日かはデイサービスで看護師の仕事をしていて、利用者さんが言葉のパズルのような事をしているのに付き添っている。それをみんなでああでもないこうでもないと問題を解いているのがとても面白いと言う。

大声で「ゆでたまご!」と答えを言うおばあさんや、答えが「からしマヨネーズ」である事が分かって、「キューピーやな!」と、ホールいっぱいに聞こえる声で叫ぶおじいさんなどいて、とても楽しそう。でもみんな直接自分の生活と関わりが薄い物や言葉に対しては、うっすらとしたイメージでとらえていて、言葉の引き出しの中に手を入れた時にどれがどれだかよく分からず、似たような別の物を取り出してしまう事がよくある。

歳を取ると、潮が満ちて岩礁が海面の下に隠れてしまうように、記憶や知識が意識の中でぼんやりしてしまう。日が沈んでいくみたいにだんだん世界の光量が落ちてきて、見えるもの、捉えるものの輪郭が不明瞭になってくる。

私が「歯磨き」と「梅干し」を間違った事は、きっと言葉の引き出しの中でそれら二つが同じような形をしていて、間違って取り出してしまった事によるエラーなのではないかと思う。よく分からないけど、脳はそれら二つを似たような形をした言葉と認識しているのではないかと思うのだ。

同じ言葉を何度も書いているとゲシュタルト崩壊を起こして、言葉から意味が剥落してしまう。そういう状態では「歯磨き」と「梅干し」は骨だけになって、遠目に見ると同じように見えるのかもしれない。

もうすぐ朝。今朝はいつもの納豆ご飯に梅干しを添えようと思う。



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