第21段 みんな幻でみんないい
ニヒル(虚無的)
今日はなんだかニヒルな気分だ。
今脳内に思い巡らす事は
どれをとってもニヒルなことばかりだ。
だから最初に断っておく。
この文章を読んだあなたは
きっとニヒルな気分になるに違いない。
ちょっと今はニヒルな感じかな・・・
そう思われたあなたは
この先を読み進めてもいいかも知れない。
「みんな幻でみんないい」
ずいぶんと言えばずいぶんと
ニヒリスティックなタイトルをつけたものだ。
もちろんこれは「みんな違ってみんないい」
という言葉のオマージュだ。
あなたも幻、私も幻。
幻(まぼろし)とは、
実在しないものが目に見えることだ。
さっき私が叩き潰した蚊も
すぐに幻となって消えていった。
だってそうだろう。
叩き潰した蚊をコンクリートの床に
靴の裏でなすり付けてみれば、
蚊の体はバラバラになって原型を留めず、
もはや跡形もない。
我々人間も同じことだ。
我々人間も分子の寄せ集め、
もっと細かく言えば素粒子で出来た塊だ。
すりつぶせば粒子になるという意味では
蚊も人間も同じなのだ。
全てはみんな似たようなもんだ。
100年以上生きた私のじいさんも
今となってはもう幻だ。
影も形もない。
何となく記憶には残っているが
もうそれを確かめる術はない。
もしかしたら探したら動画くらいは
残ってるかもしれないが、
もし仮に残っていたとしても
実体がないのだから、
死んだじいさんが幻であることに
いささかの変わりもない。
200年も経てば
今生きてるどんな人だって
幻と化してしまうだろう。
なぜならば肉体を失って
実体がなくなってしまうからだ。
仮に動画が残っていたとしても。
今は誰でも手軽に動画を残せる時代だ。
動画だけが残っている人は
果たして存在していると
言えるだろうか。
仮にどれだけ存在感があったとしても、
動画しかなければ、
つまり情報だけの存在となってしまえば、
そこにリアルはあるのだろうか。
全くの幻ではないか。
歴史上の偉人とて幻
考えてみれば歴史上の偉人、
豊臣秀吉、
徳川家康だって、
今となっては幻じゃないか。
あれだけの大事業を成し遂げたような
歴史上の偉人でさえも
死んでしまえば幻になってしまう
ということだ。
その頃にも、名も知れぬ町人が
ゴマンと居たはずだが、
それこそ幻ではないか。
200年後にはほとんど全ての人が
幻となってしまう。
一部の人はもしかしたら歴史書などに
名を残すのかも知れない。
だが1000年経ったらどうだろう?
1000年経ってもいまだに
人々の記憶に残ってるという人が
どれくらいいるだろうか。
よしんば人々の記憶に残ることが
あったとしても、それは既に死んだ人が
もはや幻でしかないという事実を
覆い隠すものとはならない。
つまり私たちは
遅かれ早かれ幻になる存在なのだ。
地球も太陽も宇宙も幻
話のスケールを広げてみよう。
地球だって同じ事だ。
地球だって幻に過ぎないのだ。
なぜならば地球は50億年後、
膨張した太陽に飲み込まれ、消滅する
運命にあると予測されているからだ。
太陽もろとも消え去る運命にあるのだ。
消え去る運命にある存在は
幻と何が違うのだろう。
この太陽系、もっと言うと宇宙でさえ
単なる幻に過ぎない。
すでに我々は幻だ
そもそも死んでから幻になるのではなくて、
今すでに現時点において
私たちは幻なのではなかろうか。
見えるものは実体があると
思い込んでいるだけなのではないだろうか。
まぁ私たちは実体があるように見えて
実際は実体なんて何もない。
いずれ滅び去る運命にある、
幻も同然の存在だということだ。
まあ、幻は幻なりに
あくせく生きてみるのもいいんじゃないか。
今日はそんな気分だ。
210716初稿
210717最終校正