移民政策とは
先日、広川町役場の職員方との会話で、「今、海外からの移住者は町内に約400人ほど住んでいる」というお話を聞いた。
1万9000人くらいの町に400人を多いと捉えるのか少ないと捉えるのかはそれぞれあると思うけれど、増加傾向にあるということでした。さらに言えば、福岡市や大阪、東京など都市部ではだいぶ前からコンビニの店員さんが日本人ばかりでは無いことが当たり前になっているので、地方にも同じ波が来るのか来ないのかということと「そのことが今後の生活にどのような影響があるの?」という疑問が、今の地方の移民政策の議論になっている部分だど思います。
この問題がこの先の日本の人口減や、グローバルな社会はいいよねという考えにつなげて進みつつあるのはもののようですが、このようなことはヨーロッパではとっくに起きていて、アフリカや中東からの移民がワシワシと押し寄せて今に続いています。日本では人口減に関して20年前もから「やばいやばい」と騒いで「海外労働者が増えないと経済が縮小する」なんていってましたが、もしも20年前の私にメッセージを伝えられるなら言いたい、「20年後、海外からの労働者が増えても経済は縮小しているぞ」と。
三宅さんの講演会
昔、政界のご意見番と言われた三宅久之の講演会に参加したことがある。
三宅久之氏は既にお亡くなりになっていますが、晩年は当時のテレビタックルという番組で人気コメンテーターでした。膨大な知識とキレのあるトークで当時の私もフムフムとテレビ越しに聞き入っていたのを覚えています。
私が30歳くらい、15年前くらいの当時、神奈川県の大磯の会社の社長から「山本くん、今度三宅さんの講演会があるんだけどいく?」というお誘いがあった。おそらく、社長が加入していたロータリークラブに関係のある講演会であったようでチケットはいただけるということと、テレビのあの人の話を生で聞くことにとても興味があったので快諾した。
とっくの昔の話なので講演会の内容はほとんど覚えていないが私の興味を引いた話があった。それは「日本がイタリア化する」という話だった。話の軸は「今後の少子化に伴う人口減の結果に起こる出来事によりイタリアのようになる。イタリアという国は国土もとても似ている」とのことだった。縦長の国土、大きさも似ていて経度も近いので気候も似ている。でも大きな違いはイタリアは約6000万人、日本は約1億2000万人。国土面積を見ても今の日本は多すぎる。7000〜8000万人くらいがちょうどいい人口になるのではないか。といったような話であった。戦前、昭和11年の日本人口が約7000万人弱であったようなので、この頃の社会規模になる。
ちなみに私の曽祖父はこの頃、林業でかなり儲けていたと伝え聞いている。いい人口バランスなのかもしれないと思いました。
今、曽祖父の資産は跡形も無いですが。
イタリアの移民共存
イタリアの南側、イタリアの国土の形をブーツに例えるならちょうどアキレス腱のあたり、ここにバーリというそこそこ大きな町がある。そこに以前3ヶ月弱ほどお寿司屋さんでバイトをしたことがあった。イタリア人からすれば当時の私は日本人移民(?)である。寿司屋という看板があるので日本人が比較的多くさらに優遇されている職場ではあったが、スタッフの半分くらいはモロッコやアルジェリアなのどのアラブ系でアフリカ大陸の移民、東ヨーロッパ人そして二人のイタリア人であった。
ここでの仕事の役割は明確であった。日本人は厨房やカウンターでの料理を作り、東ヨーロッパ人やイタリア人は接客をし、アラブ系アフリカ大陸人は皿洗いとゴミ出しをする。もちろん給料も全然違う。
この待遇に人種差別なんて感覚を持っているものは誰もいなかった。みんなが当然のように受け入れていたし、この中で差別発言をすれば、ただの変なやつとして受け入れられるだけだったと思う。私も同じく自然な感覚として受け入れていた。
この国はイタリアでありイタリア人の国だという線引きが、社会規範からも言語からも日常の生活からもはっきりと感じることができた。かといって移民を受け入れなければ成り立たない社会になっていた。移民がいなかったら誰が皿洗いやゴミ出しをするのか。労働条件の悪い仕事や信じられない長時間労働無しでは社会が支えられなくなっていたのではないかと思う。
イタリア人にも貧富の差が明確にあった。そしてそれに輪をかけて移民の存在があったのを覚えている。
モロッコ人の商売
職場のモロッコ人が「自転車は欲しくないか?」とよく聞いてくる。モロッコ人コミュニティーで自転車を入手してくるらしい。もちろん盗難品。元手はただなので激安の価格設定。欲しいけれど断った。買ってもすぐに盗まれるからだった。
外国人にとって自動車の所有はとてもハードルが高い。移動に自転車は便利だ。しかし、イタリアでは自転車はすぐ盗まれるものの中でもナンバーワンである。ワイヤーチェーンなんて意味がない。細い金属チェーンも同じく意味がない。切られる。1キロくらいの重さのあるようなチェーンでないと防犯チェーンとは呼ばないのがイタリアであった。
「すぐに盗まれるからいらないよ。」私がいうと
「大丈夫。もしそうなったら同じ自転車をまた入手してあげるよ。(もちろん有料)」と彼は言った。
漫才のような会話であるが、これが陽気で憎めないモロッコ人の素晴らしさでもあった。
自由の形
寿司屋の皿洗いとゴミ出し係の一人に、難民ビザで入国していたアフリカ人がいた。このアフリカ人、私が知る限り、ずーっと働いていた。店が休みの日もゴミ出しをしていたし、夜中もゴミ出しをしていた。休みで歩いている姿を見たことがない。しかも話しかけるとずっとニコニコしている。ずーっと働いているのに不機嫌な姿など一度も見たことがなかった。
ある時、オーナーが新店舗をつくるというのでスタッフで店舗を見に行く時があった。みんなで一台の車で移動する。そこに、このアフリカンも一緒だった。
彼はいつもニコニコしている。ちょっとふざけてバカにされても楽しそうに返してくる。
店舗に到着した。
みんなが一斉に車から飛び出る。1時間ほど乗っていたのでみんながなかなかの苦痛を感じていたようで誰もが苦悶の表情である。しかし、一人だけニコニコした者がいる。彼である。そして彼は突如叫んだ。
「Freedom!」
みんなびっくりである。彼が叫ぶ姿など誰も見たことがなかったし、なぜか英語であったし、彼以外、今この瞬間をフリーダムだと感じていた者は誰一人としていなかった。
しかし、おそらく彼にとってその瞬間、心の底から自由を感じていたように思えた。
この時、私の心が震えたのを今も鮮明に覚えている。
しかし何に震えたのか。何を感動したのかわからなかった。
彼が可哀想とも感じなかった。
彼が自由だとも感じなかった。
彼が幸せだとも感じなかった。
でも確かにあの時は何かに感動したのでした。
今もその答えはわからないままです。
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