「フェンスカットアート」
第1章 三つ目のゴースト
第2章 トニアンの昆虫人
第3章 ペルム紀の魚人
第4章 スキンヘッドの桃源郷
第5章 意識の昇華と未来の暴走
あらすじ
かつて軍事基地のフェンスカットを一人で決行したシュルフーは、今はその基地の街でひっそりと暮らしている。地球史の中で人類は何度も発生し、その中には戦争の無い人類も存在したのではないかとシュルフーは空想し、新しく発売された宇宙システムモデルで地球を生成し、別の人類を探し始める。一方、その基地の街では軍隊の撤退を迫る行動として、フェンスカットが大きなうねりとなり始めていた。シュルフーは、その動きに気を留めながらも、宇宙システムモデルの時を進め、ホモサピエンスとは別の生命体を観察していく。やがてフェンスカットは基地内デモも生み出し、多くの市民の意識も急速に変わり始めた。軍隊の緊張感は極限に達し、やがて発砲事件が起こる。多くの市民による基地包囲行動の後、急速に発達した低気圧が街に近づき、落雷、大規模停電、宇宙システムモデルは暴走し制御不能になった。
第1章 三つ目のゴースト
その惑星は、時速785Kmで暗黒の空間をすっ飛んでいた。ぼんやりとした太陽の光が、中央に浮かんでいる。シュルフーは、モニターに映った球体をズームアップして、どうやら地球らしいことを確認してホッとした。3日前に起動した宇宙システムモデル「太陽系5Starsバージョン」は、木星までを含む半径10億Kmの空間が、直径40cmのチタン製の球の中で生成されるキットだ。開発されて間もないプログラムのため若干のバグもあるらしい。この太陽系はトラブルも無く形成されたようだ。シュルフーは、一回目で地球生成に成功したことに安堵しつつも、順調に生命が発生していくのか不安だった。システムの自動回転速度は、24時間で1億年が経過する設定だ。何もしなければ、生成された地球もおよそ3ヶ月後には太陽にのみ込まれ消滅するとされている。購入者の多くは、それぞれの興味のある時代に向けて回転の速さをコントロールしていき、上手くその時代に着地できればさらに観察できる速度に減速していく。ただし、あくまで一つ一つのモデルには何らかの差異が発生するらしい。現実の地球史と同じ過程をたどる保証は無い。シュルフーは、この人類とは異なる人類が見たかった。地球の歴史のスケールを考えれば、人類は何度発生していてもおかしくないと考えていた。現生人類のホモ・サピエンスの歴史は15万年、人類化石も数百万年の範囲だ。地球史から見れば瞬時に過ぎない。DNAの進化説はあるが、何億年に渡って追跡されている訳ではない。人類など1000万年単位で発生できるのではないか。シュルフーは、植物が陸上に進出したとされるシルル紀から探索を始めようと思っていた。システムは現在-43億年を示している。減速点を-4億4000万年と入力し、システムの回転速度をMAXに設定した。それでも約38億年が経過するには数日かかるだろう。一抹の不安を抱えつつシュルフーは、早めに眠りについた。
翌朝、モニターを覗くとシステムは-36億年を示し、すでに減速し始めていた。シュルフーは思わず呟いた。
「何故ここで減速しているんだ?それに約7億年も経過しているなんて、回転速度が早すぎないか?」
やはりバグがあるのか、それとも回転速度をMAXに設定したことに原因があるのか、頭は混乱するが原因がどうあれどうしようもない。一旦減速したシステムは徐々に加速して行かねば、システムに付加が掛かりすぎて不具合を起こすらしい。
「-36億年か、太古代か、さすがにまだ酸素がない時代では、生命体の存在など無理だろうなぁ」
シュルフーは一人呟きモニターを見ると、映ってきたのは深緑色の地球だった。地球の向こうに巨大な月が姿を現した。月もまだ極度に近い位置にある。その引力でいくつかの陸は海面下に沈んでいるようだ。シュルフーは、モニターの角度を変えていき、常に海抜の高い沈まない陸地を探した。やがて高緯度にある程度の広さを持つ陸地が見えてきた。シュルフーはゆっくりズームアップしていき、海岸近くに焦点を定めた。スコープカメラは3台まではシステムに付属していて、いくつかのモードで録画もできる。さらには角度も変えて焦点を進めることができるので、短い距離ならその物体の裏側を見ることもできる。
「岩だらけだな。当然まだ植物も発生していないか」
シュルフーは、しばらく変り映えのしない岩山を眺めていた。月の大きさだけが印象に残る風景だった。シルル紀を目指して加速するのは明日にした方が良いと考え、残り2台のスコープカメラを適当に別々の角度に設置し、動くものを捉えた時だけ録画するように設定し、日課の散歩に出ることにした。
晩秋の海は茫としてけむり、沖のテトラポットに砕ける波しぶきが風に飛んでいた。 誰もいない展望台の上にひとり佇む。鈍色の雲が襲いかかってくる。やがてみぞれ混じりの雪が頬を打ち始めた。 北ノ島は雪雲に隠れて見えない。振り返れば松林の向こうにこの街が見える。展望台を降り坂道を下り、街の雑踏をすり抜けて路地に入ると、「船宿」という喫茶店があった。狭い1階の隅に階段があり2階に小さなテーブルが2つ。天井からは古びた漁網とガラス製の浮き玉がぶら下がっていた。ベートーヴェンのピアノソナタ第23番がかかっていた。目の前にはヴラマンクの絵があった。冬の旅。キリマンジャロを注文して一息つく。小さな窓の外は風が強まったようだ。記憶が吹雪く。あの冬の日も、、、。
「船宿」の階段を上がってきたのは、知り合いの女と男だった。
「さっそくだが、、、」
と言う男の言葉をさえぎって、シュルフーは言った。
「まぁ、注文をしてからでも遅くはないよ」
二人はブレンドを注文すると、いきなり切り出した。
「今、反基地運動は盛り上がって来ているわ。座り込む人々の数も、波はあるけど数年前に比べたら桁違いで、隔世の感があるのはあなたもご存知でしょう」
「そうだ。今、あえて問題を起こすのは反基地運動にマイナスにはなってもプラスにはならないと思うが、どうかね」
「今、基地のフェンスを切るようなことをしたら、弾圧は桁違いに強まるわ。そうしたら、せっかく集まって来た人々は去っていくかもしれない」
「われわれの運動は大衆運動であるべきではないのかね。皆で手をたずさえて進んでいくことが重要だろう」
「あなたのやろうとすることは英雄主義ですか、それでは人々の理解は得られないでしょう」
「きみは、大衆運動を否定しているのかね」
二人は矢継ぎ早に言葉を発した。ピアノソナタ第23番が終わり、一瞬、静寂が広がった。シュルフーはゆっくりした口調で話し出した。
「私は反基地運動のために行動するのではないよ。すでに日々軍隊あるがゆえに、その犯罪の被害に会っている人々がいるんだよ。何十年も。本当なら一日、一秒たりとも許せることではないよ。つい先日も大きく報道されたように、殺されているんだよ。もしかしたら自分だったかもしれない、というのは正しい危機意識だろう。しかし、その意識の裏側には自分ではなかったという距離が生じる。あそこで自分は殺された、もう自分は殺されているんだ、この世にはいないんだ。そう思えば反基地運動のメリット、デメリット、民意、法律、正義、何にも縛られることはない。それでも、もちろん非暴力だよ。私は人を傷つけることはしない。あなたがたが言う非暴力の範囲とは違うのかもしれないがね。私は大衆運動を否定してはいないよ。というより、私は自分が大衆の一員であると思っていないし、いかなる集団にも帰属しない。私は私だよ。まぁ、アイデンティティの話は長くなるから今はやめておきます」
シュルフーは一息付いて、キリマンジャロに口を付けた。
「では、あなたのやろうとしていることは、自己満足ではないのですか」
シュルフーは答えた。
「自分の心に嘘を付かず、世間の常識に妥協しないということが自己満足と言われるなら、そう取られても仕方ないのかもしれないね」
「とにかく私たちは、今、フェンスを切ることには反対です。いずれその時が来るのかもしれませんが、今ではない。今は仲間を増やす時です」
「きみは何故一人でやろうと考えるのかね。仲間を募り共に実行しようとは思わないのかね」
シュルフーは独り言のように呟いた。
「楽しい政治は無い。政治的な行動を考えれば考えるほど、人生は狭くなっていく。人はそれぞれの人生を生きている。基地問題に対する怒りの温度差もある。考え方も違う。人生観も違う。私はどうしても許せないこと、容認できないことに対し、言葉だけではなく行為を以て示そうと思う。それがツマラナイことであるとも思っているし、軍の存在に対して効果があるのか無いのかも実行した後でしかわからない。当然逮捕されるだろうし、私の知り合いにも弾圧が及ぶかもしれない。しかし、今弾圧が強くないのは、今の座り込みでは効果が弱いということでもあるのだよ。いずれにせよ逮捕が伴うような行動に人を誘うことはできない」
「きみの話を聞いていると、たった一人で孤立しているように思うよ。私たちは一人ではない。誰でも先祖からずっと続いている、そして子や孫へとつながっていく、その命の流れの中に私という存在がある。私は私以外の何者でもないけど、たった一人の私ではない。つながっている現実がある」
「そうだね。そういう人生もあるね。しかし、私はその命の流れから少しばかり外れて生きてきた。一人であることに傾いてきたとも言える。人生はいろいろだよ。話がそれてきたね」
「あなたが実行しても、残念ですが、私たちは、フォローできません」
シュルフーは頷いて言った。
「それでいいのだよ。あなたがたは、あなたがたの道を行けば良い」
「きみが実行しても、世間一般からは単なる狂人としか見られないよ」
二人はブレンドに口も付けずに去った。店の扉が開いた時、吹雪の音が響いた。シュルフーは独り呟いた。
「決して許されないことがずっと続いているのに、人々は許される範囲でしか行動しない。このギャップが現状を維持しているのに」
不意に
「ブレンド」
という声が聞こえ、1階のカウンターに客が座った。シュルフーは記憶から呼び戻され、冷めたキリマンジャロを飲み干し帰路に着いた。
部屋に戻り録画をチェックすると、いくつかのファイルが残っている。
「何か動いたのかな」
シュルフーは不思議に思いつつ、録画を再生して驚愕した。
「何だ、これは、三つ目のゴーストか?」
そこには白い袋を被ったような三つ目の生物がたくさん動いていた。岩山の一角に洞窟があり、その生物は海辺で何かを採取しては、行ったり来たりしている。足は見えないが、動きは二足歩行にそっくりだ。いや、もっとスムーズに移動している。白い、時には半透明のまさに滑らかな袋を被っているとしか言いようのないその生物は、頭部に三つの丸い眼だけが付いていた。口も耳もない。風が吹くと袋状の身体はゆらゆらとなびいた。海辺と洞窟の間を、その集団は何度も行ったり来たりしている。手は無いのにまるで磁石で吸い付けるかのように、海から深緑色のサッカーボール大の物体を腹部の辺りに抱え運んでいた。洞窟の中を拡大してみたが、そこは複雑に入り組んでいて、奥の様子を見ることはできなかった。次のファイルでは、洞窟の前は砂嵐だった。小石までもが吹きつけるような状況だ。それでもあの生物は同じように海辺を往復していた。小石がぶつかりはじけ飛ぶのが見えたが、動きに支障はなかった。
「何でできているんだ?宇宙人のスーツか?布のように見えていたのに」
最後のファイルには、異様に大きい月が暗黒の宇宙を背景に浮かんでいた。その生物は皆、月をじっと見ていた。海面ははるか彼方に引いている。遠浅の岩と砂地が、広大な陸地として現れていた。さざ波の音が聞こえた。しかしその次の瞬間には、徐々に何かが近づく波動が、袋様のスーツを波立たせた。洞窟の中に逃げ込んだ者もいたが、瞬時にスーツが円錐形に変化し、ジェット噴射も無いのに飛び去って行った者が多かった。月が消え、画面が真っ暗になった。録画はそこで終わっていた。
「隕石か?」
シュルフーは混乱した。あの生物は地球の生物なのか、宇宙からきた生物なのか、宇宙と言ってもこのキットは木星までの範囲でしかない。-36億年の光景であることが信じられない。
「ありのままを受け入れるしかないな。自分もまだ生命の進化史に囚われていたということか。別の人類が見たいと思い、始めたことなのにな」
シュルフーは、食事もそこそこに何回かビデオを再生して見たが、特に発見する事柄は無かった。システムは初期化して再度始めることは何回かできるが、地球が順調に生成される保証は無い。また、時間を戻すことはできない。全く謎だらけの気持ちを抱えたまま、シュルフーは先に進むことにした。
第2章 トニアンの昆虫人
翌朝、シュルフーはコーヒーを飲みながら、シルル紀に進むことを躊躇していた。昨日の太古代の画像があまりにも気になり、動物が出現する以前の世界をチェックしたいと思った。地球史の記事を見ながら興味を引かれたのは、新原生代のトニアン紀だった。-10億年からと記されているが、シアノバクテリアが最盛期を迎え酸素濃度が上昇したとある。また、ロディニア超大陸が形成され、岩だらけの大地が広がっていたらしい。シュルフーは、減速点を-10億年に設定し、システムの回転速度をMAXから若干下げてみた。
「この速度で回転するなら、減速するのは明日の夕方頃になるかもしれない」
シュルフーが呟いた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「ミフルク、、、」
「またシミュレーションゲームですか」
ミフルクは少し不満の色を浮かべ入って来た
「ゲームではないよ」
「とうとうフェンスカットが始まるよ。これまでにない規模です。軍隊を追い出す時が来たんだよ」
「ああ、ニュースでも大勢の人々が参加し始めたと報じていたよ」
「みんな、あなたが来るのを、、、」
シュルフーは、ミフルクの言葉をさえぎって言った。
「人生は政治だけじゃないよ。政治行動に夢中になっている時も、そのことを忘れないようにね。そしてこの状況が収束した後、どんな仕事を選択し何を作り出していくのか、それが最も大事なことだと思うよ」
「はい、でも今は基地撤去の行動に集中しています。今回がこれまでで一番大きな動きになりそうなんです」
「そうだね、ただその大きな動きと共に、行政への協力要請なども必要だし、警察や中央政府、さらには軍首脳部への何かしらの働きかけも必要だと思うよ。具体的にどうすればよいか、私にもはっきりわからないがね」
「市議会と県議会には、市民委員会のヤグンシビ委員長が連絡を取り始めています。県警への申し入れも先日委員長たちが行ったそうですし、中央政府や軍に対しては国会議員が動いているはずです」
「そうした動きをオープンに発信することで、より多くの人に自治意識が共有されるといいね。小規模のグループにおいても同じことだと思うよ。リーダーシップや中心的存在を求めれば、意図しなくても中央集権的な関係が発生する。一人一人が自主的に動くからこそ、民主的な関係が作られると思うがね」
「今は一人でも多くの力を結集することで頭がいっぱいです。でも、リーダーシップの問題は宿題にしておきます。もし可能なら、あなたもいつでも参加して下さい。お待ちしています」
ミフルクが去った後、シュルフーは、自分が伝えきれなかったことに思いをめぐらせた。軍事基地が無ければあの若者たちはどんな仕事に就いていただろう。あのエネルギーがあれば自立的な地域経済圏の確立も可能かもしれない。環境汚染の進んだこの地球で、いまだに石油を燃やすシステムが回り続けている。石油文明からの脱却は、この欲望過剰な人類には無理な話かもしれない。しかし、この流れから別の道を探求し実践することを諦めてはならないはずだ。環境汚染を伴う軍事基地は、百害あって一利なしだ。いや、そう言ってしまっては、国家を信奉し、軍事的防衛を必要と考える一部の人々には理解されないか。シュルフーは切りの無い思いにピリオドを打ち、明日にはトニアン紀を観測できるだろうと、モニターの前を離れた。
「支配関係の無い人類が見たい」
翌日夕方になってシュルフーは、フェンスカットと弾圧による多数の逮捕者のニュースをチェックしてから、太陽系キットのモニターを見た。システムは既に-9億年を示し、回転速度は安定していた。スコープカメラのモニターを見ると、青い海原が映っていた。もう一台のスコープカメラでズームアウトしてはるか上空から見てみると、東方に陸地が見える。どうやらロディニア超大陸のようだ。スコープカメラを移動していくと、大陸の中に標高の高い部分がぼんやりと見えた。ズームアップしつつもう一台のスコープカメラで地上を見たが、どこも岩だらけで植物の痕跡すら見つからなかった。不意にニュースの着信音が耳に入り、シュルフーは別のモニターに目を移した。映し出された映像は、フェンスカットに参加した人々が、静かに逮捕されていく光景だった。混乱はどこにも無い。警察官は逮捕者の腕すらつかまず、ただ寄り添って歩いていた。傍らには、フェンスカットに使った番線カッターが山と積まれていた。
「一人一人の非暴力の意志は徹底しているな」
シュルフーは呟き、トニアン紀のモニターに目を移し、またまた驚愕した。
「なんだ?明らかに人工の都市、超高層ビルの群落だ」
それはコンクリート製ではなく、言わば岩石製だった。積み上げたのではなく、掘りこんでいったように見える。表面は風化し、原型が分からないほど丸みを帯び、大きくえぐれている所もある。しかし、窓や入り口と思われる開口部は、ほぼ四角形で均一に並んでいる。生物らしきものは一切見えない。廃墟、それも数千年は経過しているような、荒涼とした人工物の名残だとシュルフーは思った。
「文明が滅んだのか。それも超高層ビルの都市を作れる生物が存在し、、、放射能汚染か?」
シュルフーは、ガイガー検知器がオプションで販売されていたのを思い出して、すぐにアクセスしインストールした。いくつかの地点を調べて、
「出てこないな。ウラン235の半減期は7億年だ。検出されないということは、核戦争も原発事故も無かった。人工の放射能汚染で滅んだ訳ではない。これほどの文明がそれでも滅ぶ、原因は何だったのか」
ゆっくりとスコープカメラを移動し、もう少し広範囲を探索してみると、風化した廃墟はかなりの頻度で点在していた。シュルフーは、何気なく海辺の地形を探って行った。すると、ちょうど大きな満月が水平線の向こうに見え始めていた。その月を背景に切り立った入江のような場所が見えた。しかも海水がその入江の奥に流れ込んでいるように見える。シュルフーは1台目のスコープカメラを移動し、入江の奥に焦点を合わせ録画しはじめた。そしてもう1台のスコープカメラで入江の奥へ進んで行った。
「暗いな」
ライトを照らし水面近くを進むと、奥は広大な洞窟の様だ。視点を移動している間にも、水面はどんどん上昇してきて天井にまで届きそうな勢いだ。
「そうか、今は大潮の満潮だ。まだ干満の差は大きいはずだ。ならば、干潮時には洞窟の中が見えやすくなるな。それにしても不思議な地形だ。干満の差だけで滝ができるか?わからん」
シュルフーは、地球の自転が1日20時間ほどであることを思い出しながらも、月の公転がこの時代にどうなっているのかはわからなかった。とりあえずこのスコープカメラも録画モードにして、数時間後の干潮時に洞窟内の様子を見ることにし、夕食の準備に取り掛かった。
「現代の満潮から干潮までの時間が6時間くらいなら、もっと早く最干潮になるのかもしれないな。何かを見落とせば、元には戻れない。ビデオでは限界もある。ここは集中するべきか」
やがて夕食を食べながら、ビデオをチェックしたが海面がどんどん低くなっていく映像だけだった。そのままビデオも取り続けながらモニターを見ると、洞窟の奥の海面はかなり低くなり、洞窟の底には地底湖ならぬ海が広がっていた。
シュルフーは滝の壁面を上から見下ろしていき、何か岩ではない物を見つけた。格子状に見えてくるものをズームアップしていくと
「網?」
そしてその中央の窪みに薄緑色の塊がうごめいていた。さらによく見ると、それはナマコのようなソーセージにも見える生物で長さは300mmくらいだ。それが何十体も重なり合って動いている。
その生物を捉えているのは、網としか言いようのない物だった。
「これは、人工物だ。岩に結びつけられている」
シュルフーは視点を移し洞窟の中を探った。網は海面近くに取り付けられ、網の下の水深は浅いように見えた。さらに地底の海の周囲は幅2メートルくらいの道路とも思える平坦な地形になっていた。その道の奥には起伏はあるものの広場があった。その広場の奥の暗がりの向こうには、石を削り出して作ったと思われるテーブルや棚が配置され、作業場のようだった。さらに視線を伸ばした時、シュルフーはギョッとした。奇怪な生物が数体出てきた。大きさは小犬程だろうか。頭は人間のように丸く脳も大きそうだ。頭髪もあるが目はひとつ目の複眼で口は昆虫のそれに似ていた。身体はゴキブリそのものに見え4本の細い足がある。肩の辺りからは細くて毛深い左右の腕が伸び、手は三本指だった。頭と手が身体とアンバランスなほど大きく見える。その生物は、網のところまで素早く移動しナマコ様の生物を手で取り、手提げカゴの様なものに入れ、作業場のテーブルの前まで戻ると、後足で立ち上がり前足でテーブルにもたれかかり、両手を使い三本指の爪で皮を剥ぎ内臓を取り出し、肉を切り分けさばいている。やがて解体した物をカゴに入れ、作業場のさらに奥の暗がりに消えて行った。スコープカメラの焦点は、カーブして進ませることもできるが限界はある。その先を見ることはもう不可能だった。シュルフーは、洞窟の外側の地形を調べようと上空からの俯瞰に切り替えた。最干潮から徐々に水位は上がってきている。
「あの洞窟の奥は、どこかで地上につながる出入り口があるはずだ」
シュルフーは呟き、岩山の上を探って行った。一見岩肌に見えていたその山も、近づくにつれて灰褐色の植物のように見えてきた。地上に視点をおろして見ると、それは1m程の高さで地表を覆っていた。ファイバーグラスで作られた大小のドームが結合しているようにも見える。結節している部分は地表に根を下ろしていて、そのドームの中は薄明るく迷路のように続いていた。しばらく進むと行き止まりになったので、ドームの内部に定点観測用に一台のスコープカメラを録画モードにし、シュルフーは再び上空からの俯瞰に変え、その植物らしきものと岩だらけの地表の境目を確認した。海岸沿いは広範囲にドームが点在しているが、内陸には見当たらなかった。内陸の奥には岩山の間に廃墟の都市が見えていた。シュルフーはコーヒーを入れに、モニターの前を離れた。コーヒーを淹れている途中でビデオのアラームが鳴った。
「何か動いたな」
シュルフーがモニターを見ると、ドームの天井いっぱいに赤い実がぶらさがっていた。大きさや形はピーナッツに似ているが、質感まではわからなかった。
「ほんの数分で実が生るなんて、、、」
シュルフーがその実をズームアップしようとした時、植物の根に見えていた部分が裂けて、中から先ほどの生物がぞろぞろ出てきた。いくつもの根が同じように裂けて、100体近くの生物が現れた。そして、後足で立ち上がっては、赤い実を口でついばむように飲み込んでいる。どうやら実は柔らかいゼリー状の物質のようだ。何度も立ち上がっては吸い取り、やがて実がすべて無くなると、その生物たちは根の部分を三本指の爪で裂いて地中に戻って行った。やがて陽が沈み、辺りは暗闇に包まれた。厚い雲がかかったようで、星も見えない。シュルフーはスコープカメラを赤外線モードに変えて、一台は植物ドームの中を録画し、もう一台で上空から再び探索していくことにした。断崖が続く海岸沿いには植物ドームが点在していたが、やがて断崖が途切れ岩だらけの海辺には一切植物は見当たらなかった。スコープカメラに付属している生体検知機能をONにしてみたが、ある程度の大きさを持つ生体は見つからず、波打ち際にプランクトンなのか無数の微細な生物がキラキラ輝いていた。シュルフーは海岸線から内陸に方向を変え、廃墟の都市に向かった。しばらくは岩だらけの平地が続き、徐々に標高が上がっていくように見える。大きな岩盤と岩盤の間は細い谷のように見える。その時、急に雨が降り出した。雨は一気に豪雨となり、前は何も見えなくなった。シュルフーは視点をはるか上空に移し俯瞰した。
「おやっ?川にならない?水の流れが見えない」
シュルフーは呟き、細い谷の底へと視線を移していった。雨はすぐに小雨になった。谷の底は思った以上に深く、ライトで照らしながら探っていくと、やがて小石の入り混じった砂地が見えた。雨水は無かった。谷の深さと吸水性の良い砂の層が、大量の雨を瞬時に地下へ飲み込んだのだと、シュルフーは半ば納得した。そして、しばらく谷底を進んでから、廃墟の都市を上空から俯瞰した後、都市の中央付近の最も高いビルに視点を定め、最上階の窓からその内部を覗き込んだ。
「あっ、床が無い」
ほぼ正方形のそのビルは、一辺の横に窓が10個並び、縦は33個だった。床があれば33階建てだが、内部は床があった形跡は見当たらなかった。さらに地下部分も10階分ほどの深さがあり、底は一枚の平らな岩盤に見え、四方にトンネルが伸びていた。シュルフーは少し疲れを感じ、時刻を見るとすでに0時をまわっていた。トンネルの入り口にスコープカメラを向け、何かが動いた時のみ作動する録画モードにして眠りに就いた。
翌朝遅めに起きたシュルフーは、目の疲れも残っていたので、日課となっている散歩に出掛けた。アーケード街の書店に立ち寄った後、いつもの「船宿」に入り二階の席でキリマンジャロを注文する。古いスピーカーからは、ちょうどキース・ジャレットのケルンコンサートが流れ始めたところだった。シュルフーは、ふと隣のテーブルに前の客が置き忘れた新聞を見た。一面には、フェンスカットの逮捕者の行列が大きく載っていた。手に取って見ると、かなりの紙数を割いて、フェンスカットの様子が報じられている。かなり広範囲に渡ってフェンスは切られ折り曲げられていた。さらにフェンスカットは、今現在もどこかしらで行われており、多人数で行う所と少人数で行う所それぞれが情報を発信し、警察の動きをかわしながら波状的に移動している様子だった。シュルフーは記事に目を通し、思いをめぐらせた。指揮系統がある訳でもないのに、かなり効果的に実行されているようだ。参加者同士、離れた場所で連絡を取り合って動いているのだろうが、、、。そうだ、ゲームの感覚だ。A地点で大量に逮捕者が出たら、B、C、D、Eどこを選択して動き出すのか、警察が先回りをすれば静かに逮捕され、警察が後手に回れば切って移動、または来るまで切り続ける。少人数のグループで動く者もいれば、個人で動く者もいる。このランダムな動きは、指揮系統が無いからこそ可能になる。しかし、フェンスカットが上手くいけばいく程、警察側の特に現場の指揮官にストレスが溜まり、暴力的になる可能性もあるだろう。現場は常に市民によって動画配信されているとは言え、その抑止力には限界がある。軍隊の側にもストレスが溜まっていく。どこかの時点で何らかの交渉が必要だ。それは誰がやるのか。自治体は表立ってフェンスカットを支持してはいないが、中立的立場を取っている。そもそも今回のフェンスカットの発端は、軍兵士による市民の虐殺事件だった。自治体が軍隊への水道供給をストップさせ、電力会社との連携ができれば電力供給すら止めることができるが、自治体はまだそこまでは踏み切っていないし、何かしらの条例を制定する必要があるのかもしれない。やがてケルンコンサートが終わり、静寂が広がった。シュルフーは冷めたキリマンジャロを飲み干し、「船宿」を出た。スーパーマーケットで食品を買い、自宅に戻ったのは昼過ぎだった。植物ドームの中と廃墟の地下には、何も動きは無かったようで、ビデオは撮影されていなかった。モニターを覗くとちょうど夕日が沈むところだった。
「そうだ、1日は約20時間だということをまた忘れてたな。まぁ、地下のトンネルを見るなら、昼も夜も大差は無いか。」
そう言いながら、シュルフーはスコープカメラの位置を調整し、トンネル内に視点を進めた。中は四角い通路がほぼ直線に伸びていて、中央には水路だったと思われる溝が掘られていた。すぐに隣りのビルと繋がり、さらに隣りへ隣りへと続いている。やがて幾つか目のビルに入ると、大きな円形の池があった。その向こうの壁からは、かなりの量の水が湧き出ていて池に注いでいる。池の水はその先の溝に流れていかずに水位を保っていた。シュルフーは、湧き出ている水とほぼ同量の水が地下に流れていき、均衡を保っているのだと推測した。そして、以前はこのトンネルの溝には水が流れていたのだろうとも思った。ビルの上の方を見上げると、地上3階に当たる部分から上は大きく壊れていた。
「隕石か?」
と言って、シュルフーは池の周りの石の塊を見た。ガイガー検知器を使ってみたが、放射線は検出されなかった。隕石の衝突による気候変動でこの文明が滅んだのなら、もっと多くの隕石が落ちたはずだが、あるいは何らかの細菌の繁殖で滅んだ可能性もある、とシュルフーは思った。上空から壊れたビルを探してみたが、それほど多くは無かった。ただ壊れたビルの地下には、やはり円形の池があった。もっと巨大な隕石が海に落ちた可能性もあるとシュルフーは思い、この文明が滅んだのは隕石衝突が原因であったろうと、推測を強めた。あの昆虫人とも言うべき生物は、その末裔かもしれない。床の無いビルも、昆虫人には障害ではないのかもしれないし、あの植物が幾層にもドームを形成していたかもしれない。窓は採光と通風のために必要だったのかもしれない。シュルフーは、想像をめぐらせてみた。その時だった。池の中に何か影が動いたように見えた。
「確か水中スコープや簡易ソナーがオプションであったはずだ」
早速シュルフーは、その二つを入手し水中に視点を移した。はたしてあの昆虫人が十数体、それぞれに手網と網袋を持ち、小さな魚のような生物を獲っていた。その生物はフナムシに尾びれを付けたような形で緩慢に水中を泳いでいた。昆虫人も水中では動作はいくらか緩慢になっていたが、その魚を苦も無く捕獲し、やがて袋がいっぱいになると水中の洞窟に消えていった。シュルフーは、海岸沿いの洞窟と植物ドームの中、そしてこの廃墟の池の中を定点観察することにし、生体反応を感知した時に録画するように設定した。さらに紫外線計測器を入手した。案の定、地上は生物が存在するのは不可能と思える数値だった。しかし、自分の判断はあくまで現代の基準にすぎないと、シュルフーは思い直し探索用にもう一台のスコープカメラを入手した。そしてシュルフーは3日間、大陸と海洋を探し回ったが、生物を見つけることはできなかった。海上に微細なプランクトンと思われるものが生体反応するだけで、他に生物は見えなかった。その後、定点観測した録画を見たが、最初に見た状況とほぼ同じだった。集団で食料を採集し分業化している様子もあるが、リーダーが存在するような組織ではないように見える。音波測定もしてみたが意味は無かった。おそらくコミュニケーションは触角やフェロモン等でしているだろうが、これを分析することは難しすぎる。現代のゴキブリの研究からも、集団性を持ちコミュニケーションにより協力し合い、食物と住居を共有するとの報告がある。この昆虫人もまさにそうだとシュルフーは思った。あの高層ビルの都市が作られた時代には、オゾン層があったのかどうか、いずれにせよ地上で生物が活動していたことは間違いないだろう。推測と興味はとめどなく湧いてくるが、シュルフーはこの時代を去ろうと思い始めていた。脳の大きさと手を使うことから一度は昆虫人と認識したが、その生態は人類と言うよりは昆虫に近いと思った。
「この昆虫人がリーダーを持ちピラミッド型の組織に所属し、他の集団と食料の奪い合いでもしていたら、人間に近いと思ったんだろうなぁ。人類の戦争の原因は何か?戦争しない人類はどのような関係性を持っているのか?権力支配を発生させない人類集団は成立しうるか?それが知りたいがために、観察しているのに。あの昆虫人が平和的であるために、根本的に違う生物だと思ってしまう。人類はゴキブリにこそ学ぶべきかもしれないのに」
第3章 ペルム紀の魚人
翌朝シュルフーは、最初に考えていたシルル紀を目指し減速点を-4億4000万年に設定し、システムの回転速度はやはりMAXにはせず70%に設定してみた。トニアン紀で1億年の誤差が生じたのは、回転速度に問題があったと見ていたからだった。70%にしたからと言って正確さは期待できないが、シルル紀自体が2千数百万年の間しかない。減速するのは夕方頃と予想し、シュルフーは冬用の防寒靴とコートを買いに出かけることにした。昼食もすませ古本屋まで足を延ばし、一通り店内を見るとイヴ・タンギーの画集に目が留まった。フランスの出版社が1973年に発行したものだった。懐具合としばし相談し、モニターばかり見ている日々には、気分転換にも必要なものだと自分に言いきかせ購入した。夕方部屋に戻り、シュルフーがモニターを覗くと、すでに減速し始めていて-4億3000万年前後を推移していた。ズームアップしていくと真っ白な球体が見えてきた。
「スノーボールアース!」
思わずシュルフーは叫んでしまった。この時代に地球全てが氷に覆われた史実は無かったはずだ、と思いながら、これはチタンの球の中で生成されたモデルにすぎないことを改めて認識した。このモデルではこの時代に全球凍結していて、生命体は大絶滅していることだろう。実際の地球史では-6億年頃に全球凍結した時期があり、その後カンブリア爆発と呼ばれる多様な生物が発生する時期を迎える。しかし、このモデルは少なくとも約2億年の差が生じている。そしてこの後も全球凍結があるのか、それともこれが最後なのか?シュルフーは、次の時代に進むにしてもどこにしようかと迷った。氷の球体をぼんやりと見つめながら、意外な展開に混乱している自分に気付いた。いったんモニターを離れ夕食を食べに外出した。近所のラーメン屋に入ると、TVからニュースが流れていた。この街にも基地を置く軍事大国アビンロが、環境問題推進国のラザロぺを侵略した臨時ニュースだった。
「どうしてあの国は、いつも戦争したがるのかねぇ。人の命ほど大事なものはないのに、仲良くできないのかねぇ」
店のオヤジが呟くと
「戦争は一般庶民の仲が悪いから起きるんじゃぁないさ。国とか宗教とか民族とかの権力持ってるヤツが始めるのさ。その民衆を守るって言ってなぁ。殺されるのは民衆なのに、迷惑な話だ」
「自分たちがやってることが迷惑千万だってわかってないのさ」
「わかっていたとしても、民衆はゴミにしか映らないんだろうよ」
と、客たちが吐き捨てるように言った。カウンターに座っていた客も相槌を打ちながら言った。
「それに今回もまた、軍需産業が不景気にならないためだろ」
店のオヤジが目を丸くして言った。
「へぇ、軍需産業が原因かい。じゃぁこの先もずっと続くのかねぇ」
「さてね。この街からまた爆撃機が飛び立つのかと思うと、やりきれんよ」
カウンターの客は苦虫を噛み潰したような表情で店を出ていった。シュルフーは、戦争中毒という言葉を思い出しながら、軍事こそが最大の環境破壊であると主張するラザロぺを侵略したということは、アビンロの中でまたひとつタガが外れたのだと思った。世界中から非難声明が出るだろう。地方の小都市に過ぎないこのギダサ市もギダサ県も抗議声明を出すはずだ。しかしこの国の中央政府だけは非難声明は出さない。この国は、表面は独立国の体を成しながら、内実は占領されたままやがて100年になろうとしている。軍事条約の前には国民主権は無い。アビンロにとってこれほど都合の良い従順な国はない。この侵略によって軍隊は活性化し、それは人権の幅を狭めることになる。フェンスカットに対する弾圧はどうなるのか。フェンスカットが活発に行われ、軍事行動に支障をきたす事態ともなれば、ラザロぺの二の舞いにならないとも限らない。シュルフーは、めぐる思いの中でニュース解説を聞き流し、胸のざわめきを抱えたまま店を出て帰宅した。
シュルフーは、意を決したように減速点を-2億8000万年と入力し、眠りに就いた。翌朝モニターをみると、巨大な大陸が見えてきた。
「あれがパンゲア大陸なら、大量絶滅以前の古生代ペルム紀、今度は史実通りの環境らしい。人類が存在していれば、海辺に近いエリアだ」
シュルフーはそう言いながら、暖かいと思われる赤道近辺をズームアップしていくと、木性シダ類の群生が見えてきた。10mくらいの高さのヘゴに似た植物が森を形成し、その中を巨大なトンボに似た生物がたくさん飛んでいる。河が見えたので、シュルフーは河口付近に視線を移した。すると岩場に人影を見たような気がした。急いでズームアップいていくと、確かに二足歩行している。しかし、のっぺりとした顔に頭髪はなく口元は幾分尖がっている。鱗のような衣を身にまとっているように見える。やがて岩影の奥に歩いていったその生物は、川の中に消えた。シュルフーはしばらくその近辺をさまざまな角度から探してみたが、ついに見つからなかった。
今のは人類なのか?川の中に入ったままならエラ呼吸ができるのか?衣に見えたのはまさに鱗そのものだったのか?魚人?シュルフーは、水中スコープで川の中を見た。しかし昨夜雨でも降ったのか、透明度が悪い。これでは探すのは難しいと思い、再び岩場の方に視点を移していった。河口から少し遡った所に洞窟があった。洞窟の中は思ったより明るい。天井の所々から陽射しがこぼれていた。奥に泉でもあるのか水もゆったりと流れている。水深も数mはありそうだ。さらに奥に進むと10m四方くらいの平坦な岩場にキノコに似た植物が群生していて、所々に手の平くらいの大きさの蓮のような花が咲いている。シュルフーは水中スコープに付属している簡易ソナーを使って水中の動きをチェックした。しばらく静寂の時が流れた。花は意外にも、咲いたと思うと数分で花びらが落ち、しぼんで枯れた。突然、ソナーに影が映った。それを追う間もなく、一人の魚人が岩場に現れ、咲いている花のそばにうずくまった。シュルフーは徐々に正面から見えるように視点を変えていった。魚人は口から透明な柔らかな塊を花の中に吐き出した。そして両手でその開いていた花びらをそっと閉じて、再び水中に消えていった。シュルフーはソナーで追ったがすぐに見失ってしまった。水面に波紋が広がり、再び静寂がおとずれた。
「思った以上に素早い泳ぎだ。いや、人と思うからだ。あの生物は水に入れば魚だ」
シュルフーはソナーで探すことを諦め、モードを変え、反応があった時アラームが鳴るように設定した。そしてしばし洞窟内の岩場をぼんやりと眺めていた。やがて魚人が現れたが、先の魚人とは違うように見えた。その魚人は閉じられた花びらを両手で開くと深緑色のゲル状の液を口から吐き、同じく花びらをそっと愛おしむように閉じて水の中に消えた。数分後また別の魚人が現れ、花の中に真っ黒な液を吐き出し、やはり花びらをそっと閉じ水の中に消えていった。4人目の魚人が現れたのは、最初の魚人が現れてから30分も経っていなかった。その魚人はゆっくりと閉じられた花に近づくと大口開けて花ごと飲み込んだ。そして周りにあるキノコのような植物をむさぼるように飲み込み、よろよろと水の中に入っていった。シュルフーはソナーを探査モードに切り替え追ってみた。その魚人は人が泳ぐようにゆっくりと潜っていった。川底の岩と岩の切れ目を潜ると、そこは深い水の世界が底なし沼のように続いていた。水の濃度も濃くなったように見える。すると大きな洞窟があり魚人はその中に入っていった。そこはあの花の咲いていた岩場のほぼ真下に位置している。
「上下に二重の洞窟か」
そしてその洞窟の中にも空間があり、上の洞窟と同じような岩場があった。そこは草なのか海藻なのか緑色の絨毯が敷き詰められ、ずっと奥の方まで続いているようだ。魚人はその岩場に這い上がり、足を引きずるように進み、やがてその絨毯の上にうずくまった。シュルフーは魚人の顔をズームアップして見た。
「老いているのか。首の両サイドにはエラのようなものがあるな。皮膚はやはりウロコのようだ」
そのまま魚人は動かなくなった。シュルフーはスコープカメラを観測モードに変え、魚人を撮り続けるように設定した。そして上の洞窟の岩場にも同じように観測モードのスコープカメラを設定した。
シュルフーがその後一週間にわたり観察を続けたところ、下の洞窟の緑の絨毯は、ゆっくりとではあるが洞窟の奥へまるでベルトコンベアーのように全体が移動していた。花を飲み込んだ魚人は、2日あまりで手足や頭はミイラのように干からびていき、腹部だけが丸々と大きくなっていった。そして5日後に風船のように膨らんだ球の表皮が割け、中から小さな魚人が現れ洞窟内の池に飛び込んで消えた。
「魚人の子が生まれたのか。老いた魚人は死骸さえほとんど残さずに、まるで転生したかのようだ」
上の洞窟では1日に何人もの魚人が岩場に上ってきたが、魚人同士が出会うことはなく、必ず一人ずつだった。そして老いた魚人が花を飲み込むことの方が少なく、飲み込まれなかった花は1時間も経たない内に落花しキノコの中に消えていった。
「性愛はないようだな。むしろ性差が3つか4つに分かれているのかもしれない」
シュルフーは、魚人の生態を知ろうと水中も探索したが、ソナーに反応はあるものの魚人の泳ぎは早すぎて、追跡することさえできなかった。どこで眠っているのか、何を食べているのかはついにわからないままだった。
「時間を進めてみるか。2千年か、それとも5千年か」
シュルフーは、回転速度をスローモードにした上で+5000年と入力した。モニターを見ていると、すぐにサンドストームになり、やがて徐々に真っ暗な画面になった。一瞬トラブルかと思ったが、シュルフーがスコープカメラの位置を初期化し上空から俯瞰すると、そこは陸から数kmは離れていると思われる海の上だった。
「海面が上昇したのか」
シュルフーは、スコープカメラをもっとも近い陸地に向けていった。5000年前と同様な木性シダの森が見えてきた。岩場があり、その脇を川が流れていて洞窟もあった。河口付近をズームアップしていくと数十人の魚人が見えてきた。
「あれは梁漁か?粗末な作りで、魚の半数近くは逃げていくではないか」
シュルフーは疑問に思いながらしばらく観察していて、やがてこの魚人たちの集団性が人類とは違っていることに気付いた。川の中にあの梁を作るには、どうしても共同作業が必要だったはずだ。しかし、魚を獲ることは協働していなかった。一人一人の魚人が勝手に獲って、食べたいだけ食べて去っていく。食べるというよりは丸飲みしていて、持ち帰ることはしなかった。かつては手足に水かきがあったが、退化したのかもう見当たらない。首から肩に海藻を掛けているのは、おそらく退化したと思われるエラを保護しているのかもしれない。シュルフーは、洞窟の方へ帰って行く魚人の後を追った。その魚人は洞窟の中に入ると、山のように積んである海藻の中に潜り込んで、頭だけを外に出して目を閉じて眠ってしまった。その海藻の山からは、いくつもの魚人の頭だけが出ていて皆眠っている様子だ。洞窟の奥へ視点を進めると、そんな海藻の山がいくつか点在していた。そして一番奥の行き止まりには池があり、天井からは陽の光が射し込んでいた。シュルフーがその池の中に視点を潜らせると、案の定もう一つの洞窟があり、5000年前と同じ蓮に似た花が咲く、緑の絨毯に覆われた魚人の転生の場所があった。すでにはち切れそうな状態の球も見える。
「あれはもうすぐ生まれてくるな」
シュルフーはスコープカメラをビデオモードにして、いったんモニターの前を離れた。コーヒーを淹れ、魚人の変化に思いをめぐらせた。5000年の間に海面は上昇し、魚人の生態は陸上化し水かきやエラは退化した。梁漁の必要からか共同作業を習得し、ゆるい集団を形成している。おそらく3つの性により生まれてくる魚人に、哺乳類に見る親子関係や家族形成は無い。その延長にあるような集団形成、部族形成、さらには国家形成も無いだろう。身体は小さくとも生まれた時には自分で食料を得ることができる。子育てが無い以上、一人一人の魚人は、生まれた時から独立しているとも言える。だが、さらに陸上化が進めば、食料も変化していくのかもしれない。豊富な魚が食べ放題の時代がいつまで続くかもわからない。環境の変化により集団性が変わるかもしれない。この時点の一人一人が独立したゆるい集団性は、豊富な食料によって成立しているとも言える。その時、ビデオのアラームが鳴り、シュルフーがモニターに目を移すと、球が裂け中から小さな魚人が出てきた。生まれた魚人は水中に飛び込んだが、すぐに上の洞窟に上がり海藻の山に潜り込んだ。
「やはりエラ呼吸はもうできないようだ」
シュルフーが海藻の山をよくよく見ると、それは岩に根を下ろしている植物だった。壁からは常に水が染み出ていて、根の周りは濡れている。やがて数人の魚人がその植物から抜け出て、洞窟から出ていこうとすると、生まれたばかりの魚人もその後を追った。そして梁場へ向かうと、他の魚人同様に小魚を捕らえ飲み込んだ。周りの魚人は、その様子をほんの一瞬見ただけで、後は魚を捕まえては飲み込んで各々勝手に洞窟の方へ戻って行った。その時だった。木性シダの森の中から体長は魚人の倍もある四つ足の生物が、魚人たちに突進していった。
「あれは、ディメトロドンだ」
魚人たちは一目散に洞窟に逃げ込んだが、逃げ遅れた魚人が二人いた。一人がイルカに似た鳴き声を発すると、もう一人の魚人が洞窟の方に回り込むように走りだした。ディメトロドンがそれを追いかけようとすると、声を発した魚人は拳大の石をディメトロドンの頭に投げつけ、逆方向に回り込んだ。石はディメトロドンの目の辺りに命中し、ディメトロドンが反応すると、今度は先に走り出した魚人が石を投げつけた。この動作を3回ほど繰り返し、二人の魚人は洞窟の中に無事に逃げ込んだ。洞窟の中に魚人たちの鳴き声が沸いた。ディメトロドンは洞窟の中に入ろうとしたが、入口は低く背中の大きな帆がぶつかり、それ以上追うことはできず森の中へ消えて行った。
「二兎を追う者は一兎をも得ず。それにしても素早い連携だった。石を投げるコントロールも的確だった。こうしたことは時折あって、慣れているのかもしれない。しかし、取り残されたのが一人なら、ディメトロドンの餌食になることもあるのではないか。ディメトロドンも決して遅い動きではなかった」
シュルフーはペルム紀の生物を調べ、後期には体長4m程のゴルゴノプスという肉食性の単弓類がいるが、まだこの時期にはいないのだと思った。ゴルゴノプスには背中に大きな帆など無いから、洞窟への侵入も容易にできるはずで、魚人がそうした生物への防御をしていないということは、魚人にとっての天敵はディメトロドンくらいのものかもしれないと推測したのだった。この出来事でシュルフーは、魚人のコミュニケーションの一端を目にすることが出来た。そして早速、オプションにあった超音波測定器をダウンロードし観測してみた。洞窟の中は、先ほどのディメトロドンの騒ぎのために起き出していた魚人たちで、超音波が渦巻いているほどだった。シュルフーは、魚人の見た目は単独による行動のために、コミュニケーションが希薄でゆるい集団性だと早合点したことを反省した。魚人の超音波を解析するには、データを集めるだけでも膨大な時間が掛かる。すでにイルカの言語は解析されていたことを思い出したシュルフーは、イルカの解析ソフトに魚人の音波を通してみたが、テキストはすべて文字化けし意味を成さなかった。シュルフーは苦笑しながら、簗場と洞窟の中の海藻植物周辺、そして一番奥の池周りにビデオをセットしモニターから離れた。その時、ドアをノックする音が聞こえた。馴染みの飲み仲間だった。
「シュルフー、今日はグラッパを持って来たぜ。ちょいと考えをまとめたくてな。ゆっくり飲もうぜ」
「いつも急なお出ましだな、チェラコル」
「すまん、まぁ気にするな。今日はいくつか聞きたいことがあるんだ」
チェラコルは肴を用意し、グラッパを二つのショットグラスに注いだ。
「まっ、こうして飲めることに乾杯だ」
グラッパをあおったチェラコルは語り始めた。
「周りが騒がしくなってきてな。おれはただバンドで遊んでいたいだけなのにな。どいつもこいつもフェンスカットだって言いやがる。気持ちはわかる。気持ちだけならなぁ。でも、正義だって言いやがる。そう言われた途端、じゃぁ、おれは悪か、って思ってしまう。まぁ、善人でないことはわかっているが、まるでそれでも人間か?ってニュアンスで、一緒に立ち上がろうと来るんだ。それでも、おれはやらねぇと言えば、座も白けるしバンドから抜けるって意味にもなりかねねぇ。まったく、やってらんねぇよ、自由じゃねぇよ、そんなの。あんたも昔、自分は正義だと思っていたのかい?」
「初めから僕に正義はないよ。正義は時代によって変わるものだしね。今の時代から見れば、過去の時代の多くの正義は間違っていたとも言える。正義を振りかざせば権威的にもなるし、同意しない人々を誹謗中傷することにもつながる。反基地運動の人々が正義は自分たちにあると主張するのは、自分たちの立場が社会的にまだ弱いと感じているからだろうねぇ。反基地の行動に多くの人々が参加するようになったとは言え、まだ多数派にはほど遠い。一部の少数派に属していると感じれば、不安になるのかもしれないね。その不安が強い時に、声高に正義を主張するのだろうなぁ。まぁ、もしも不変の正義があるとすれば、なに不自由なく暮らしたいと思うことが正義なのかもしれないね。ただ当たり前に暮らしていくこと、これを否定できる正義などないはずだよ」
「行動に出るのは少数派でも、反基地感情は多数派だろうにな。まっ、おれには少数派も多数派も関係ねぇんだが。だいたいバンドの曲には、たった一人で世界を敵に回しても、ってぇ歌詞だってあるんだぜ」
「まぁ、誰しも多かれ少なかれ、意識無意識を問わず、この社会に属していると思っている訳だ。そもそも軍隊に怒りが湧くのは、その社会への帰属意識、一員であるという意識が、根底にあるからだしな。自分が生きていくことに全く関わり無いことであるならば、憐れみは生じても怒りは起こらないと思うがな」
「どうかな、、、まっ、おれは何て言うか、政治的なことでつるむのがイヤなだけなのさ。勢力が大きくなったら権力に勝てるのかも知れねぇ。でも、そういう勢力がイヤなんだ。数の多さで通るなら、少ない数のやつらはいつもバカを見るしかねぇ。そもそも多数決なんて誰が考えたんだ、投票率の分だけ政治をしろよ。得票した分だけ首長でも議員でもやればいいのさ」
シュルフーは、自分のグラスにグラッパを注ぎ、チェラコルにも勧めながら言った。
「選挙の票を集約する方法は幾つかある。多数決のほかにもボルダルールとかな。多数決は最もお粗末な方法だろうにな。まぁそれはそうとしてチェラコル、投票率が50%なら残りの50%はどうすんだ?」
「政治ストップさ。投票しないのは政治はいらないって意味だろ。余計な事はするなって意味じゃねぇのかい」
「ははっ、なるほどな。得票した分というのはどうすんだ?」
「得票の比率で日数に換算してだな、市長なら、立候補したA氏が100日、B氏が80日とかな、市長をやるのさ。」
「多数決が常識とされるこの社会で、誰にも相手にされない考えだな」
「そうかぁ?おれは名案だと思ったんだがな。まぁ、いいや。そんなことを決めるのも多数決の世の中だからな。こっちは一生死に票だ。ハナからハズレのクジを掴まされているのさ」
その時、ノックもせずにドアが開いて、バンド仲間でヴォーカルのンビーザが入ってきた。
「おい、びっくりさせるなよ」
と、チェラコルは少し不満の色を浮かべた。しかし、ンビーザはニコニコ笑って、
「すまねぇ、すまねぇ、気を悪くしねぇでくれ。あんたがここかも知れねぇって聞いてな。差し入れも持って来たぜ、おれも混ぜてくれ。シュルフー先生、非礼はお許しのほどを」
「先生はよしてくれ、勝手に飲めばいいさ。来る者拒まず、去る者追わずだ」
ンビーザは自分のグラスにグラッパを注ぎながら言った。
「チェラコル、今が波だ、波の頂点だ。やがて引くよ、、、おっと、その前に乾杯だ、バンド存続のために」
3人は杯を乾した。ンビーザは続けた。
「皆、熱くなってるのさ、多かれ少なかれ非道な目には会ってきたからな。だが、いずれどんな形かわからねぇが、決着が着く時が来る、曖昧な誤魔化しも含めてよ。でもその時、波は引いてるし熱も冷めてるはずさ。オレも今は腰を上げるよ、妹の弔いだ。でもなぁ、結論を急ぐなよ、チェラコル。こんなことでバンドを壊したくないのは皆同じさ」
「そうか、、、そうだな、そうにちげぇねぇ」
シュルフーは座を離れて先に眠った。微かにチェラコルとンビーザの会話が聞こえ、シュルフーは夢の中に沈んでいきながら、集団への帰属意識は参加を強要すると、ひとり呟いた。
翌朝シュルフーが起きると、すでにチェラコルとンビーザの姿は無く部屋は整然としていた。
「元気なやつらだ」
シュルフーはモニターに向かい、昨日のビデオをチェックした。簗場と洞窟の中は、特に新たな発見は無かったが、奥の池の周りには岩の間に細い隙間があるらしく、そこに入り込んで行く魚人が見えた。シュルフーは、スコープカメラの視点をその隙間に合わせ中を覗いて見た。少し奥は通路になっていてその先は明るく、どうやら森に抜けているようだ。シュルフーは上空からの視点に変え、出口の辺りを探索した。やがて3人の魚人が現れ森の中を歩いていくと、木性シダの切れ間に1mほどの高さの草が群生している所に出た。その草には、薄いオレンジ色のホオズキを大きくしたような実がたくさん付いていた。魚人たちは実をもぎ取ると、皮をむき中の赤いトマトに似た実を食べだした。超音波測定器にはさまざまな波形が表示され、魚人たちはお喋りをしながら食べに来ていることがわかった。シュルフーは、さらに上空からの視点に切り替え近辺の森の様子を見ると、所々木性シダの切れ間にはホオズキトマトと呼びたくなるような植物が群生していた。そして、他の場所にも川と洞窟と森がある所には、魚人が集団で住み着いていた。シュルフーは、いくつかの集団を調べてみて、洞窟の形は違いがあるものの、転生の空間にあの蓮に似た花が咲いていることが、魚人の生存に欠かせない条件なのだと推測した。そして温暖な気候と豊富な食料のあるこの時代は、魚人にとって、まさに楽園だろうとも思った。この状態では集団性にも変化は起きないとシュルフーは考え、時代を3000年進めてみた。
やがてモニターに映し出されたのは、雪の降る銀世界だった。木性シダは見当たらず、ナンヨウスギに似た木が森を形成していた。海面は下降したようで、洞窟のある場所から遥か彼方に後退していた。川も大河となり、その脇には平野が広がっていた。シュルフーは、洞窟へと視点を移していった。入口には雪が4、50cmほど積もり、魚人が出入りした様子はない。内部を見ていくと、魚人が寝床にしていた植物も見当たらなかった。そして奥にあった池に水は無く、岩を削って作ったと思われる階段が地下へ続いていた。海面と同様に池の水位も下がったのだとシュルフーは思いながら、さらに下へと視点を移すと靄がかかって見えなくなった。赤外線モードに切り替えると、階段を降りた所から洞窟は広く横に伸び、奥の方へと池が広がっていた。そして十数人の魚人が、池の淵に腰かけ足を池の中に入れている者、首まで池の中に浸かっている者と、みんなくつろいでいる様子が見えた。
「温泉だ。この靄は湯気なんだ」
シュルフーは、さらに奥へと視点を移そうとしたが、スコープカメラの限界で、それ以上先を見ることはできなかった。冬は魚人の活動も制約されるだろうし観察しにくいと、シュルフーは半年ほど時を進め、夏の様子を見ることにした。モニターに映って来たのは、広々とした水田だった。川から水を引き、畦道で区分けされた田んぼが海の方まで広がっている。しかし栽培されているのは、イネ科の植物ではなくサトイモに似た植物だった。やがて洞窟から数人の魚人が現れたが、皆コートのようなものを着ている。よくよく見るとそれは毛皮だった。中には頭までフードのように被っている者もいる。そのフードの両サイドに目の跡が残っている。シュルフーは早速図鑑で調べ、おそらくスクトサウルスと推測した。体長3mの草食動物とある。魚人たちはそれぞれ蔦で編んだような袋を持ち、田の中に入り茎を引き抜き、イモを収穫していた。やがて袋いっぱいになると、葉の付いた茎を田に差し込んで植えていった。袋を担いで洞窟に戻っていく魚人の姿は、以前に比べ体格ががっちりしているように見えた。おそらくは食生活もだいぶ変わったのだろうとシュルフーは思った。魚人たちは二手に分かれ、洞窟の中に入って行く者たちと河沿いの小道を上流の方へ歩いていく者たちがいた。河はやがて分岐して、支流は森の中へと流れている。その先には水車小屋があった。小屋と呼ぶにはもう少し大規模な作りで、四方は魚人の背の高さほどの石組みで、その上に丸太で屋根が掛けてあった。水車も荒い武骨な作りだった。小屋の中には大きな石臼が二つあり、魚人たちは収穫したイモを臼の中に入れ、臼の下から出てくる白濁した汁を集めていた。水車小屋の脇は森が途切れ、陽の当たる広場があり地面全体が削り出された岩盤のようで、魚人たちはそこに汁を流し水分を飛ばして澱粉を取っていた。
「冬のために貯蔵しておくのかもしれない」
シュルフーは他の洞窟の様子を探索し、魚人たちが高温の源泉の中にイモを入れて、茹で上がってから食べる様子を見た。また、魚人の子が生まれてくる転生の場所がどうなっているかも探索した。幾つかの洞窟を探し、転生の場が観察できる洞窟を見つけた。そこは入口の狭い洞窟で、少し入った所に転生の場があった。しかし、キノコに似た植物も蓮のような花も無かった。やがて老いた魚人が蔓で編んだような大きな篭を担いできて、その中に膝を抱えて座り中央が丸く空いた蓋を閉めた。そこへ次々に魚人が現れ、透明な柔らかな塊、深緑色のゲル、真っ黒な液をその中央の穴に吐き出した。その3人の魚人はしばらくその場に佇み、ゆったりと身体を揺らしてから去っていった。超音波測定器には、一定の波形が重なり合うように表示されていた。シュルフーは、それが歌なのか祈りのようなものなのか、いずれにせよそこに儀式性を感じた。かつては3つの性の魚人たちは、顔を合わすことも無く、あの蓮のような花を飲み込む老いた魚人にも合わなかった。しかし、この時代では新たに生まれてくる子が、自分と繋がっているという魚人の意識の変化をシュルフーは感じた。そして、これは集団内における関係性が変化しているのかもしれないと思った。
「自分の子、自分たちから生まれた子、その子に絆を感じれば、そうでない子との差異も感じるのではないか」
シュルフーは、魚人の住環境を探ってみたが、かつての海藻の山に見える植物は見当たらず、魚人たちがどこでどのような状態で眠っているのか、ついにわからず仕舞いだった。そこで、シュルフーは狩りの様子を見ることで魚人の関係性を探ろうと考え、上空からの視点に切り替えた。魚人の生活圏から離れすぎないように見ていくと、森の外れにシダ植物の群生している平原があった。そこにゆっくりと動く大型の生物がいた。体長は3、4mほどで、四足歩行で頭のやけに小さい生物だ。図鑑で調べるとコティロリンクスのようだ。まるでスローモーションのようにシダ類を食べ歩いている。やがて超音波測定器のモニターに波形が映ったと思うと、森の中から2、30人の魚人たちが現れた。一人の魚人がロープを通した滑車を持ち、近くの木に登り手早くセットした。下でも別の魚人が動滑車をセットし、輪になったロープの先端を持ってコティロリンクスに近づいて行った。他の魚人たちは一列に並び、滑車から伸びたロープを握りしめた。コティロリンクスの首にロープが掛けられた瞬間、魚人たちは音声を発し一斉にロープを引いた。一番後ろの魚人がテンションのかかったロープを木に結び付けると、コティロリンクスは頭をほんの少し上に引かれる格好と成り、身動き取れなくなった。やがて窒息したのか2tほどもありそうな体重を支えきれず、コティロリンクスは足を折り動かなくなった。魚人たちはロープを解き、石器の刃物でコティロリンクスを手早く解体し、森の奥の洞窟へ何回も往復して運んでいった。シュルフーはその一部始終を観察し
「見事な連携というか、共同作業だったが、リーダーシップを取る様子はどこにも見当たらない。この魚人たちの間に上下関係や支配関係は無いようだな」
と、唸った。3000年の時を進めてみて、気候は大きく変わり魚人の体質も食生活も変わったが、この魚人たちは平和的な集団性を維持し続けている。人類との違いは、哺乳類ではなく親子関係が無いこと、保護しなければならない乳児期もない、集団を脅かす外敵もいないこと、そこには守る意識が生まれないのかもしれない。シュルフーは思いをめぐらせながら呟いた。
「現生人類のホモサピエンスは雌雄の性愛から繁殖してきた。親子関係から家族を形成し、さらには強固な集団を作り、その集団を守るために支配者が生まれたとも言える。集団をまとめる統一指向は守りの意識から発生する。権力は鎧を欲する。裸の権力は無い。支配関係のない集団を形成できるとすれば、それは集団を守ろうとはしない意識、集団を統一しない意識が必要だろうが、この現生人類の意識がある時期一斉に変わることは不可能だ。数千年の単位で考えるべき課題なのかもしれない。」
翌朝、シュルフーはこの魚人の8000年の歴史を思い、海面の上昇下降や気候変動はあったが、魚人文明は基本的に安定していると考えた。そして、さらに2万年の時を進めることにした。現生人類のような急激な文明的展開があるのかもしれないと、淡い期待を抱いていた。やがてサンドストームの後、モニターに映った世界はまたしても真っ暗だった。海面は再び上昇し、陸上に魚人の姿は見つからなかった。海中の浅瀬に魚人の生まれる洞窟も見当たらない。シュルフーは緯度経度から、以前の洞窟を探していった。やがて水深20mくらいの所にあの洞窟はあった。そしてそこで命の再生は行われていた。しかし、それは全くの水中であり、かつてのような空気は無かった。蓮の花のような植物は奇妙な形の海藻に変わっていた。進化したというべきか、魚人も泳ぐスピードは3万年程前の魚同様のスピードに戻っていた。そればかりか、鰓が発達しているようにも見えた。
「逆に戻っていく進化もあるのか。いや、進化は環境変化への適応が主な要素だろう。魚人にとって2万年前の陸上化しかけた所がピークというか、ひとつの頂点であり、螺旋を描くように3万年以前の生態に変化していったということなのだろう。考えてみれば現生人類も、自然界に対する強靭さを失い、人工の世界を進化させてきたとも言えるが、この人類も再び洞窟に壁画を描く時代が来るのかもしれない。進化は一方向への直線ではないし、まして進歩とか向上ではない」
モニターに映る魚人たちは、数体が並び群れで泳ぎ回っていた。その姿はイルカに似てきているようにも思えた。シュルフーは次の生命体を探すために、大きく時を進めようと考えた。地球史を眺め、中生代白亜紀末の大絶滅、さらに始新世高温期の後の-4000万年頃と決め、回転速度は自動に設定した。ペルム紀からは2億4000万年程進むことになり、減速するのは2日後になる。
第4章 スキンヘッドの桃源郷
翌朝、シュルフーはニュースをチェックし、フェンスカットは継続されていること、昨日の軍隊からの消火剤漏出により、水道局が取水停止し給水制限が設けられたことを知った。市内の大部分で当面夜間の給水が停止される。シュルフーは記憶を遡った。最初にフェンスを切った時は、狂人として扱われ政治問題にはされなかった。貼り付けたメッセージは全て当局に回収され、報道にもキャッチされなかった。「Disband the Army」。留置場を出たその足でフェンスを切った時は、いささかニュースにはなったが、多くの人々は特殊な者の行動だととらえた。「狂人」というレッテルも残っていた。そして留置場から脱走しフェンスカットの後、配備されたばかりの戦闘機JGホークの中枢システムに五寸釘を打ち込んだ時、初めて大きく報道された。その後しばらくして、第一次フェンスカットが市民委員会主導で行われ、多くの逮捕者を出し、フェンスの中の米兵は銃を構え監視を強化した。フェンスの外には機動隊も並んだ。市民委員会のメンバーの中には、総額で億を越えた保釈金を目の当たりにしてこれ以上は無理だ、という意見も続出した。しかし、その議論の最中に、一部の勾留者の脱走、フェンスカット、基地内電気系統の器物損壊のニュースが入った。これで流れは止まることがなくなった。市民委員会のメンバーも軍隊撤退まで走り続ける決意を固めたのだった。しかし、その翌日から弾圧の暴風が始まった。行政と警察は自らの組織を守る心理に凝り固まった。軍隊の出動を要請し、市民委員会の主だったメンバーを逮捕した。幹線道路に検問を設け、人々の移動を取り締まった。結果は流通が滞り、コンビニは品不足、ガソリンスタンドは1台10リットルまで販売を自主規制した。水道、電気まで規制が始まろうとしていた。第二市民委員会が自然発生し、抗議の座り込みと散発的なフェンスカット、そして大規模な一斉カットを繰り返した。当然、第二市民委員会も徹底的な弾圧を受けた。しかし、結果は第三市民委員会の自然発生だった。多くの人々が、この変化を受け入れた。そして、今日もフェンスカットは行われている。
「しかし、このままでどこにたどり着くのか。きっかけくらい作れないものか」
シュルフーはしばし考えた後、意を決して今は警察署長の役に付いているムルンカザ氏に電話を入れた。
「ほんの数分で良いのですが、面会していただけますか」
ムルンカザ氏は、一瞬考え込んだようだったが、今日13:00ならと即答した。シュルフーは礼を言い電話を切り、散歩がてら昼食を取り警察署に向かうことにした。ムルンカザ氏はかつての取調官で立場は異なるものの、シュルフーは彼の人権意識に一目置いていた。やがて警察署に着いたシュルフーは署長室に案内され、簡単な挨拶の後、単刀直入にムルンカザ氏に問うた。
「あなたは今ここの警察署長の職に就いていますが、もし自治体警察が創設された場合、ここを辞職し自治体警察に就職するお気持ちはありますか?」
「自治体警察?」
ムルンカザ氏はポツリと呟いてから続けた。
「そんな計画でもあるのかね?初耳だが」
「いえ、今はありません。今後もあるかどうか、私にはわかりません」
シュルフーは礼を述べ、署長室を辞した。そして、その足で市政与党の事務所に出向いた。与党の幹事長ツタンバル氏は、高校時代のクラスメートだった。それほど親しくはなかったが、卒業後のクラス会で何度か会っていたので、互いに顔は知っている程度だ。事務所に入るとツタンバルはちょうど昼食を終えたところだった。ツタンバルはシュルフーを認めると、
「おやっ、あんたがここへ来るとは珍しいな」
「アポも取らずに済まない。一言だけ聞きたいことがあって。市の政策研究の中に、自治体警察の創設、といったような項目はあるかね?」
「自治体警察?何だねそれは」
「そうか、まだ無いか。ありがとう。それだけ知りたかったんだ。失礼」
シュルフーが出て行った後、ツタンバルはちょっと首をかしげたが、すぐに秘書を呼んで自治体警察について調べるように言った。
次の日の朝、シュルフーがモニターを覗き込むと、-4000万年で減速が終わっていた。始新世のバートニアン。ズームアップしていくと活火山の噴煙が見えてきた。標高は3000m以上はあるだろうか、円錐形の巨大な姿だ。山麓の周囲は様々な樹種の生い茂る密林が形成され、高さ30mくらいの大木が何本も密林から頭を出している。シュルフーは、しばらく上空から俯瞰を続け河を見つけた。上流へ視点を移していくと滝があり、その滝の前には巨大な岩の橋が架かっていた。その岩には多種多様な模様が刻まれ、明らかに人工物であるとわかる。しかし風化の度合いから数百年、千年近くは経っているように見えた。シュルフーは近辺を探索し、そこが巨大な石造遺跡だと知った。すでにこの遺跡を作った者の姿は無く、植物に覆われ所々は崩壊している。定点観測用のスコープカメラを設置し、シュルフーは河を下り海岸地方へと視点を移していった。時折、イノシシに似た動物やサイに似た動物の群れが見えたが、二足歩行の人類は見つからなかった。河口の岩場近辺にもスコープカメラを設置し、シュルフーは日課の散歩に出た。いつもの「船宿」に寄り珈琲を飲みながら、新聞を手に取った。一面には「神輿車、基地内で逮捕」の見出しが出ている。廃車寸前の車の屋根に、お祭りの神輿のようなデコレーションを施し派手にペイントした画像が載っている。そうした車が十数台、さまざまな場所からフェンスを破って入り、基地内の道路を走っていたらしい。何台かは滑走路に入り込み、軍用機の運航に支障が出たとある。ネット配信された動画では、祭り囃子が車に取り付けたスピーカーから賑やかに鳴り響いている。逮捕された運転手が微笑みながら静かに手を振っている。基地撤去のための新しい行動だった。シュルフーは、フェンスカットにしろこの基地内車両デモにしろ、逮捕者には悲壮感も正義感からくる一時的な興奮も無いと感じた。過去には持ちえなかった意識、基地被害への怒りは人々の意識の中に地層のように蓄積し、軍事基地撤去が実現するまで、それぞれがそれぞれの都合に合わせその時々に行動する。先を見越している訳ではない。先は誰にも見えない。シュルフーは、この後警察だけでなく軍隊も動き出すことを心配したが、そうであってもなくても、この動きは止まらないように思った。別の紙面には、通勤通学の途中にフェンスカットという記事も出ていた。さらに広告面には弱い握力でも容易にカットできる万能ペンチのネット販売も載っている。これはもう反基地運動ではない。運動の範疇は越えてしまっている。シュルフーは、この動きをどう呼んだらいいのか思い浮かばないまま、「船宿」を後にし自宅に戻った。定点観測スコープカメラの動画をチェックしたが、動物や鳥類が横切っただけだった。
翌朝、シュルフーは視点を高高度に切り替え、地球をゆっくりと一周してみた。各大陸はおおまかには現代の形に近かった。ぼんやりと眺めていたシュルフーの注意を引いたのは、アフリカ大陸のほぼ中央にある異様に高い山脈だった。とびぬけて高い山は、その半分以上は真っ白だ。この時代の気候がわからないにせよ、赤道近くのこの位置で、氷雪地帯が標高5000m以上と考えれば、10000m級の山ということになる。シュルフーは視点を徐々に下ろして行き、この高山地帯を俯瞰した。おおむね北東から南西に連なる山々は、10000m級の山が3つ、その周りを5000mから8000m級の山脈がとり囲み、さらにその周囲を3000m級の山々が連なっている。シュルフーはおよそ3000mの森林限界を越えない辺り、さらに南向きの斜面を探索していった。そして意外に早く石造建築群を見つけることができた。そこは8000mほどの山の中腹にあり、氷河とその下には大きな湖があった。湖からは滝が流れ落ち急峻な河となり、その滝壺を見渡すように対岸との間に巨大な石造の橋が架かっている。その橋に刻まれた模様は昨日見つけた遺跡の物に似ていた。巨石の構造物は広範囲に渡り、南面から北東方面まで繋がっている。
「これはもう都市だ。いったい人口はどれくらいの規模なのか」
シュルフーが呟きながらズームアップしていくと、市場が見えてきた。石畳の広場にランダムにテントが張られ、農作物、衣類、雑貨とさまざまな物が並んでいる。二足歩行の人類の姿も見えてきた。よくよく見ると頭髪は無い。眉毛も無い。一見して性別はわからなかった。誰もが袖なしのワンピースというか、袋をすっぽり被っているような格好だ。素材は絹に似たしなやかな布で軽そうに見えるが、色彩はどれもこれもグレーで、模様は無かった。その広場には、小さな子も含めて100人ほどの人々がいた。そして人々は農作物を持って行く者、衣類を持って行く者、その場で果物をかじっている者、代価を払う訳でもなく、交換するでもなく、ただ取得して去ってゆくばかりであった。やがて市場の品物も少なくなり人も少なくなった頃、先ほど去って行ったであろうと思われる人々が現れ、市場を片付け始めた。陽が西の山脈に沈もうとしている。シュルフーは市場を俯瞰できる位置にスコープカメラを一台設置し、帰って行く人々を追っていった。市場の先には巨大な石造アーケードがあり、その山側は段々になったマンションのような居住区だった。各部屋に扉は無く、灯りのついている部屋もあった。シュルフーが追った一人は、幾つかの部屋に入ってはすぐに出てきて、やがて一つの部屋に入るとそのまま出てこなかった。部屋の内部もすべて石造で、炊事場、浴室、トイレがシンプルに配置され、寝床はハンモックだった。
「市場の様子から貨幣は無い。そしてその日その日空いている部屋で暮らしているのか、ということは個人的な所有物は無いということなのか?」
シュルフーは自らの想像を越える理解しにくい世界に戸惑いながら、住居区にもスコープカメラを設置し、モニターの前を離れた。所用を済ませ、再びモニターに向かったのは夕方だった。市場のビデオには、月明りに照らされた石畳が映し出されるだけで人影はなかった。住居区の方も人の動きはなく、ただ水の流れる音が聞こえるだけだった。
「上水道、下水道ともに完備されているのか、下水道の行く先はどうなっているのか。昼夜の時差を調整したいが、上手くいくかどうか」
シュルフーは何度か時間を進め、おおむね調整できたのは夕食後だった。
次の日、シュルフーがモニターに向かおうとした時、ドアがノックされミフルクが入って来た。
「ミフルクか、久しぶりだね」
「三週間よ、私たちのグループが最後に出てきたの。留置場は入りきれずに当局も諦めた恰好ね。今度ばかりは私たちは途中で折れない。非暴力で軍隊の撤退を実現するつもりです」
「もう3年になるかね、中央政府によるロックダウンがあったのは。近々同じことが起こるという噂もあるけど、あの時は他県の機動隊が動員され、外出禁止令と道路封鎖でゲート前に近づくことはできなかった」
「あの頃とは状況も違うし、市民の意識は大きく変わってきてるから、私はロックダウンはできないと予想しています。もし道路封鎖しても、封鎖されるのは国家警察の方になるはず。以前とは桁違いの数の市民が行動するようになってるし、まだまだ増え続けるはずだと思います」
「たしかに参加する市民は日増しに増え続けているね。それも基地撤去の運動に参加するというより、個々人が自分の日常の生活にフェンスカットを組み込んでいるようだね。先日の新聞に通勤通学の途中にちょっとだけカットしている記事が載っていたよ。それでも、軍に撤退の決意を促すには、何かしら政治的な交渉が必要だと思うが、、、」
「そのことについて、私たちは留置場の中で議論を重ねてきました。それも自然発生的に始まったんです。誰かが組織しようとした訳でもなく、リーダーシップを取ろうとする人もリーダーを求めようとする人もいない。一人だけ話が長くなりそうになると、自然に口を閉じる、何かバランス感覚みたいな雰囲気が一人一人にあったんです。今まで体験したことのない不思議な空間でした。そしておおむね共有できる意見に落ち着いて行きました。市民投票の実施と同時に、市議会でも同じ議題で投票し、その結果を市長が軍に対して、撤退の期限も付けて宣言する。同時並行で現在軍で働く人々の転職も、職業安定所と連携して市も優先的に斡旋する。もちろん経済界の協力も得ながら。軍に食品雑貨燃料などを供給している業者への過渡的な補償も必要だし、とにかく市民の誰もが現在の生活を犠牲にすることなく、軍の撤退を実現していくこと。そうした提言を近々大規模な市民会議の形で開く準備に、私たちはこれから取り掛かります」
「留置場は充実した学校だったようだね。3年前のロックダウンは他県からの機動隊が導入された。もちろん県警機動隊も中央から応援要請を受けている。その辺りのことについて話は出なかったかね」
「はい、中央政府による警察組織のままでは、地方自治は阻害されるという意見は出ましたが、それ以上のことは、、、」
「地方自治を確立させるためには、自治体警察が必要だと思うが、それには財政の問題が、、、」
「自治体警察?」
「ああ、かつて占領時代にはあったのだがね。その頃の占領軍は民主主義を根付かせようと、国家警察ではなく各地域の自治体警察を組織したのだが、財政の裏付けまで整備されなかったというか、、、」
「そうですか。やはり警察組織も変えなければなりませんね。これは私たちのグループにも提起し、過去の歴史も含めて学習を始めます」
「そうだね。いずれにせよ地方自治のレベルを上げることによって、軍隊の撤退を実現させたいものだね」
やがてミフルクが去り、シュルフーは、権力を握った者は民主主義を忘れるということまで話せなかったことを悔やんだが、それを上手く伝える自信はなかった。そしてため息を一つつき、再びモニターに向かった。
シュルフーが3日間観察したところ、このスキンヘッドの人々は昼夜問わず至る処で性交しているが、ことさら快楽を求めているようには見えず、一方のワンピースに潜り込んで大抵は座位であり、ほとんど数秒で離れていた。他者の目も気にしていない。幾人もの子の姿も見えるが、家族を形成している様子は見えない。市場のベンチで乳幼児に授乳した後、そのまま抱いている者もいれば、通りかかった者に渡す者もいた。受け取った者はしばらく散歩した後、居住区に戻りオムツを替え、また別の者にその子を渡していた。代わるがわる子を育てはしているが、特別に愛情を注ぐ風は見られない。泣いた子をあやす時も優しさは感じられるが執着は無く、すぐに他の者に受け渡していた。年老いた者が一人で山奥へ登って行くのを見かけたので、後を追ってみると、休み休み2時間ほども登った北側の小高い山頂に幾つもの洞窟があり、そこには人骨が幾体も横たわっていた。どうやらこの老人はここに餓死しに来たのだ、皆そうしているらしい、とシュルフーは驚いた。
「この人類の関係性がよく理解できない。それにしても完璧な自給システムだ」
居住区の下には段々畑が広がり、一角には三段ほどの石積みの堆肥場あった。シュルフーは、居住区の下水はこの堆肥場に流れていると推測した。市場、居住区、畑、それにウサギに似た動物や鶏のような鳥を家畜として飼っている区域が一つの生活空間を形成し、それがいくつも連なり、この都市を形成している。何かしら特別な建物や構造物は無かった。そして、都市は増築されているようで、作りかけの巨大な石の壁が立ち並んでいる所があった。いったいどうやってあの巨石を並べたのか、シュルフーは不思議でならなかった。その建築現場にスコープカメラを設置し録画しつつ、各居住区にあるさまざまな作業場、工房を見ていった。機織りの工房は、連結する幾つかの部屋で、梶の木に似た枝を集めて来て、皮を剥ぎ繊維を取り出し、さらに細い糸に撚って織機の隣りに集められていた。手際よく分業化されているが、専門でやっている様子はなく、織っている人も途中でどこかへ行ってしまい、別の人が続きを織るという有り様だった。織機は木製で、隣りの木工房で椅子やテーブルなどといっしょに作られていた。ウサギに似た動物と鳥を解体する部屋もあった。食器については土器や陶器は無く、蓮の葉に似た植物を森の中から集めてきて市場に置かれていた。その葉に食事を盛り手で食べていた。雪解け水が豊富にあり、居住区の各部屋には常に水が流れ、食べ終わった葉はそのまま下水口に流し捨てていた。様々な鉄器を使っているが、鍛冶屋が見つからなかった。おそらくは少し離れた山中に鉄工所があるだろうとシュルフーは推測した。各部屋や工房の照明は夜光石のようだが、強い白色光を放ち電力があるのかと思うほどだった。各居住区は4層から5層に作られていて、2、300人ほどが寝泊まりしていた。一連の居住区の規模から、この都市の人口はおよそ5000人くらいの規模だとシュルフーは思った。
「しかし、この規模の人口では近親交配となり、遺伝子の多様性が低下していくはずだが、他にもこんな都市がいくつもあるのだろうか?それとも近親交配に耐性を持つ遺伝子があるのか?」
翌日からシュルフーは、その都市の近辺を探索すると同時に、都市に通じる道にスコープカメラをセットし、人の出入りをチェックすることにした。山中の鉄工所はすぐに見つかったが、小規模なたたら製鉄に似た鍛冶屋だった。近辺の山々には石造建造物は見当たらず、徐々に範囲を広げて探索したが建造物も人影も見つけることはできなかった。シュルフーはいったん都市の位置に戻り、標高を下げて近辺の森林の中を探索した。標高が下がるにつれ、大小さまざまな草食肉食動物がいた。中でも目を引いたのは、体長4m近くある四つ足の肉食獣だった。ライオンとオオカミを混ぜて二回り三回りもウエイトアップしたような、とてつもない迫力の獣だった。スピードもパワーも地上最強でおそらく生態系の頂点に君臨していると思われた。シュルフーは図鑑を調べ、アンドリューサルクスがさらに進化した生物と推測した。
「この肉食獣には勝てない。それ故に、あの人類は標高の高い位置に移動したのかもしれない」
森林の中には、人影も煮炊きの煙も見つからなかった。シュルフーはさらに数日間探索して、あの都市が孤立していると思わざるを得なかった。最初はこの都市に通じる道と思ったが、誰も往来する者は無く、道自体やがて獣道となり森林の中に消えていた。山づたいに続く道も、中腹の湖や氷河の先端までで途切れていた。その氷河の近辺には、巨大な石がゴロゴロしている。建築現場にセットした録画を見て、シュルフーは驚いた。重さ数十tはあろうという巨石を、10人ほどの人々が軽々と運んでいた。人々は、それぞれ六尺ほどの長さの棒を持ち、その棒の先端にはピザくらいの大きさの円盤状の石が付いていた。人々は巨石の周りを囲み、巨石の下にその円盤を差し込むと、巨石はわずかに宙に浮いた。人々は歩調を合わせて歩き、苦も無く建築現場に運び込んでいた。巨石を立てる時も、その上に積み重ねる時も、バランスを取りながら上手く作業を進めていた。
「反重力盤?そんなものがこの時代に存在したのか?いや、違う。今このキットの中で存在している」
シュルフーは混乱しつつも、見たままを受け入れるしかないと思った。近親交配のことも、それに耐性のある遺伝子を持っていると考えるしかなかった。この時代に降りて、最初に見た密林の巨石構造物が数百年前のものと考えれば、この人々は高山に移住して数百年は繁殖を繰り返してきた。家族形成しない、母系も父系も無い、親子の概念すらない。誰も見送りもせず、一人死の洞窟に登っていく姿には、徹底的な個人主義的アイデンティティが見受けられる。しかし個人所有は無く、集団を形成し協力し合って生活を営んでいるが、自分たちの集団に帰属している意識は無いように見える。リーダー的役割を担っている者もいない。それでも個々人の自主的判断、または気分で協働は無駄なく回っている。人々は親和的だが、その関係性はとても淡泊だ。対人関係のトラブルが発生するほどの強い欲求が見当たらない。他者の境界が希薄というか、個々人は個々人としての自意識はあるようだが、その自意識は他者との差異からは生じていないというか、一人一人の名前は無いのかもしれない。その人にとって、他者は皆一様に他者であるようだ。感情の起伏、情念自体が無いようにも見えるのも、そうした関係性ゆえなのかもしれない。シュルフーは混乱しつつも、さらに推測を進めてみた。この人々は文字を持っていない。おそらく時間の概念も持っていないのかもしれない。外界に向かっていく好奇心は無いのか。遊びも見当たらない。石に模様は掘るのに、織物には模様がない。最初に見た石の模様は、この人々のものではないのかもしれない。または、そうした遊び心は退化したのか?外敵も無く充足した社会だが、楽しみというものは無いのか?苦もない、悲しみも見当たらない、怒りも無い。そもそも感情の明暗は表裏一体であるとも言えるが、、、。シュルフーは思いをめぐらしながら、徐々に逆に自分が問われるような心持になってきた。もしも自分があの都市に暮らしたとしたら、適応できるだろうか?どうやら酒が無いのは閉口だが、様々な作業はそれ自体楽しみであり遊びであるとも言える。時間の制約もノルマも無い。気分次第で別の作業に移っていくこともできるし、広場でくつろぐこともできる。誰かに抑圧されることも全くない。自由だ。自由だが静かだ。あの人々とホモサピエンスの違いは、欲望の強さだ。あの人々は、足るを知る人々だ。ホモサピエンスは足るを知るには欲望が強すぎる、過剰な欲望を持つ生物なのだ。他者に対する欲求の強さが、支配を生み権力を持つまでに至ったとも言える。集団を統一し共同アイデンティティを形成し、境界を引き内部と外部を作り、外部を互いに敵と見なし戦争を起こす。様々な宗教は、そうした争いを戒め否定し、歩むべき道を示すが、その宗教とて宗派集団を形成しアイデンティティを作り上げれば、否定したはずの争いに身をやつしてしまう。自ら示した道を見失うほど強烈な欲望を、ホモサピエンスはコントロールできない。シュルフーは、戦争の主要因は権力と集団アイデンティティにあると思っていたし、権力の無化、集団アイデンティティの解体はどうしたら可能かを考えていた。しかし、この足るを知る人々を見るにつれ、ホモサピエンスには意志や思想で戦争を葬り去ることは、決定的に不可能なことのように思えてきた。あの巨石の都市にホモサピエンスがいたら、あの反重力盤の石で乗り物や武器を作り、密林を開拓してゆくだろう。そしてアンドリューサルクス狩りもやってのけるかもしれない。ホモサピエンスには足るを知るだけで満足しない強烈すぎる欲望がある。シュルフーは、ホモサピエンスに対する限りの無い失望を抱きつつ、どこかに越える道はないのかと思いをめぐらしていた。シュルフーは、モニターに映るこの巨石文明がいつまで続くのか?滅ぶとしたら何が原因となるだろうか?と思いつつ、3000年の時を進めてみることにした。
やがて同緯経度、同じ標高に映って来たのは、ほとんどが壊れている巨石住居群だった。大きな地殻変動があったのか、最も標高の高い山も10000mは無かった。その廃墟に人影を見つけることはできなかった。シュルフーは、徐々に標高を下げ巨石は無いかと探っていった。やがて見つかったのは、ツリーハウスのような群落だった。そしてそこにいたのは、あの頭髪の無い袋様のワンピースを身にまとった人々だった。地上5、6mの高さに丸木橋を渡し、それを土台として柱、壁、屋根を木で作りあげていた。3000年前の巨石住居に比べれば、スペースは狭くなっていたが、森の中を縦横無尽に増殖している様子だ。距離の離れた大木の間には吊り橋の架かっている所もある。どうやらこの人々は、地上にはほとんど下りずに暮らしているようだ。シュルフーは、この人々が石から木へと文明転換したこと以外は、日々の営みにほとんど変化がないことを見ると、さらに時を進めてみたくなった。
「5000年」
シュルフーは呟きながら、時を進めやがてモニターに映し出された世界を見た。広大な砂漠が広がり森林は消失していた。高高度から俯瞰して見ると、大陸はほとんど灰褐色で植物群落は見当たらなかった。シュルフーはふとモニターの隅に表示される磁石に目をやった。南北は逆転していた。これまで特に注意していなかったが、5000年前とは地磁気は逆転したらしい。その過程で地磁気のシールドが極度に弱まり、太陽からの放射線が地球を直撃したのだと思い、シュルフーはガイガー検知器を使い放射線を測定した。砂漠、海上、高山、川べり、洞窟と何ヶ所か測ってみると、10~15シーベルト、20シーベルト近い所もあった。
「これでは地上で人類は生きれない。あのスキンヘッドの人類は滅亡しただろうなぁ」
シュルフーは漠然ではあっても、どんな人類もいずれは滅亡すると思っていた。しかし、実際に自らが時を進めその滅亡の跡を見ると、自責の念に囚われるように感じ出した。そしてこのチタン製の球の中の太陽系は、バーチャルではなかったのだと気付いた。球の中には球の中の現実があり、その地球では多くの生命体が生まれ死に生まれ死に、営みを継続している。その時間をコントロールしているのは、自分自身だ。シュルフーは言いようのない怖れを感じ、モニターの前を離れた。
第5章 意識の昇華と未来の暴走
ドアがノックされ、チェラコルがウォッカを片手に入って来た。
「シュルフー、調子はどうだい。今日は長居はできねぇが、乾杯したくてな」
「ぼくもちょうど飲みたいと思ったところだよ。何かあったのかい」
「まずは、乾杯だ」
チェラコルは、グラスにウォッカを注ぎ、軽くあおると興奮気味に話し出した。
「明日、基地内ライブ決行だ。2tロングの箱車が手に入ったのさ。滑走路の真ん中でやれりゃぁ最高なんだがな、どこまで入って行けるかが問題だ。運転手をやってくれるヤツも見つかったから、フェンス切ったらすぐに始められるんだ。今は電源も小型化してるんだな、ンビーザがその辺詳しくてな。ちょっと前までは、重てぇ発電機運んでたのになぁ」
「フェンスカットはイヤじゃなかったのかい」
「ライブのためなら、どうってことねぇよ。何でもやるさ」
シュルフーはチェラコルのハイテンションに不安を覚え、
「兵士が規制に来た時の対応は、メンバーで話し合ったんだろうね」
「ああ、だいじょうぶだ。規制されたら終了するよ。とは言え、ノリノリでやってる時は、みんな自分から止める自信はねぇ。だから、電源のON、OFFは運転席で出来るようにしたんだ。規制無視してやり続けたら、ヤツら発砲するかもしれねぇ、ってこともメンバーみんなで話したよ、運転手にも来てもらってよ。さらには、リアルタイムで動画配信もする。こいつはバイクで別ルートから侵入する。どうだい、上等だろ」
「ああ、よくわかったよ。それでも、軍はかなりピリピリしてきているようだから、十分気を付けることだね、臨機応変にな」
「うん、何日ただ飯食わせてくれるかな。出てきたらまた飲もう」
チェラコルはグラスを飲み干し、慌ただしく出て行った。シュルフーは、二杯目のウォッカをグラス注ぎ、さて自分はどうしようかと思い、モニターに目をやった。そして、今はこの「太陽系5Starsバージョン」に向き合うことは無理だと思い。早めに眠りに就くことにした。
翌朝、シュルフーはいつもより早い時刻に散歩に出て、滑走路の見えるフェンス沿いまで足を延ばしてみた。ちょうど軍用機が飛び立って行ったところだった。遠くに数人の人影も見えた。
「おそらくフェンスカットだな。チェラコルたちは夕方だろうな」
そう呟きながら、「船宿」に向かった。店の中に入ると、カウンターの奥の壁にレコードジャケットがあり、珍しくレコードがかけられていた。2階の席に向かいながら見ると「East Plants」と読み取れた。キリマンジャロを注文し、しばらく耳を傾けると何かしら懐かしさに包まれた。随分以前にどこかで聴いたジャズだろうが、思い出せないまま新聞に目をやった。「フェンス補修作業員、休日にはフェンスカット」の見出しにつられ、新聞を手に取ってみると、工事作業員のコメントが載っていた。「フェンスカットは基地に対する抗議の表現であり、市民の権利の一つですよ。最初は当然首にされないかと心配だったが、少し前に不当解雇の裁判があって勝ったでしょう。もうみんなやってますよ。社長もやってる建設会社もあるって噂だし、建設組合でもこのフェンス補修工事は、加入会社全社の持ち回りでやろうという話も出ているそうで、ノープロブレムです」。シュルフーは、吹き出しそうになるのをこらえながら、新聞を置きコーヒーをすすった。そしてこの後のことを考え始めた。
「フェンスカットは、軍隊が撤収し基地が返還されるまで終わらないだろう。フェンスは物理的な境界であり象徴でもある。しかし、それで軍の機能が直接的に阻害される訳ではない。直接、軍の機能に影響を及ぼすのは水道、電力の供給をストップすることだ。行政はそこまでは踏み切れないし、やがて踏み切る時があるとしても、自治権の拡充と自治体警察の創設無しには無理だろう。市民の権利意識が急速に変化してきていることを考えれば、議会が高度な自治を保障する条例整備に向けて動き出すのも、そう遅くはないはずだ。しかし、軍はこのまま平常を保てるだろうか。些細なきっかけで発砲事件が起こらねばよいが」
シュルフーは、自分がまたネガティブな想像に囚われそうになったことに気付き、コーヒーを飲み干し店を出た。自宅に戻りニュースをチェックすると、「与党の月例会議でツタンバルが自治体警察についてのレポートを提出した」という記事が出ていた。市民意識の急速な変化、党中央の軍隊についての意識は旧態依然であること、自治機能を拡充しない限り軍の問題は解決できないこと、警察組織を国家から自治体へ移行することが必要であることなどが書かれていた。来週からの市議会に何らかの議案が出されるようだ。シュルフーが昼食を食べ終えた時、ドアがノックされミフルクがヤグンシビを伴って入って来た。ヤグンシビは急な訪れを謝した後、話し始めた。
「あなたが自治体警察の話で与党のツタンバルを訪ねたことは、本人から聞きました。この間私たちも与野党問わず市会議員一人一人を訪ねて自治条例の提案をしていました。自治体警察の創設については、私も気付かずにいたので、とても助かりました。ありがとうございます」
シュルフーは、話をさえぎって言った。
「お礼を言われる筋合いはないよ。僕はそういう政策研究をしているかどうか聞いただけで、提案をしに行った訳ではない。勘違いしないでくださいね。それに自治体警察と言っても財政の裏付け無しには成立しようもないよね」
「そうです。まずは県警の上層部を地方公務員で就業可能にし、人事権を県の公安委員会に委ねる条例を作ることから始める必要があると思っています。その上で地方交付税のあり方について中央政府と交渉する訳ですが、地方自治法に中央政府は地方自治体に対し補完的な役割を担う立場であると、明文化されることが必要になります」
「現在、中央政府と地方自治体は対等、協力の関係にあると言われているけど、実質的には地方交付税の分配で上から頭を押さえられている関係だからね。そうか、補完的な役割という文言が必要だね。しかし、道は遠いように思うが」
「いえ、市民の意識が急速に変わってきている以上、この先の変化は指数関数的に速くなる可能性があります。同時並行でこの市を平和特別区として、軍事一切を拒否する条例案も議会に出される予定です。ただ、軍の緊張は現在極限に達しつつあるし、中央政府も形だけでも機動隊を導入するのではないかと予測しています。私たち市民の側も基地包囲と大規模な抗議行動を計画しています。あなたにも来て話をしていただきたいのですが」
その時、臨時ニュースが飛び込んできた。基地内で発砲があり、基地内デモの車両が炎上している様子が動画で生配信されていた。ヤグンシビたちは話を中断して急いで現場へ向かった。シュルフーは、燃えている車がトラックに見え胸騒ぎがした。画面がテレビ局に切り替わると、幹線道路を走っていた車が次々と停車しフェンスカットを始める様子が映った。救急車がその脇を走り抜けていった。シュルフーはチェラコルの無事を思いながらも、今自分が現場に行ってもどうにもならないと考え、さまざまなメディアの情報を見て回った。
翌朝、シュルフーがニュースをチェックすると、どうやら基地の外周フェンスは全てカットされているようだった。軍隊の危機感は限界に達し、ゲート近辺にはあわただしく銃弾やミサイル弾までが運びこまれていた。一触即発の緊張感が画面からも伝わってきた。基地は昨夜から集まり出した市民によって包囲され、中央政府から命じられた県警機動隊が形ばかりに配備されていた。ヤグンシビの演説がメインゲートの前で始まり、さまざまなメディアが配信を始めた。
「軍隊に所属している一人一人よ、機動隊の一人一人よ、今、その制服を脱いでもらいたい。職を辞し、こちら側に来てもらいたい。わたしたちは人を傷つけない、非暴力だ。こちら側に来る時は武器も捨てて来てもらいたい。あなたがた一人一人が決意すれば、あなたがたの上層部を更迭することができる。その後、復職すればよい。今日この後、発砲命令が出されるかもしれない。私たちは逃げはしない。ただここに座り込む。あなたがたも共に座り込んでほしい」
ヤグンシビの演説は続いていた。市議会は早朝から臨時議会を開き、平和特別区条例を可決し市長が宣言した。その様子がテレビ局により各ゲート前にも配信されると、ヤグンシビは演説を中断し、多くの人々が市長の声に聞き入った。
「・・・全ての武器の使用を禁じこれに違反した者、組織に対し、市は水道及び電力供給を停止することができるものとする・・・」
やがて市長の宣言が終わると、すぐに県議会から市の宣言を支持する声明が出され、県知事が軍司令官に公開の話し合いを求めるというニュースが流れた。基地を包囲していた市民は、徐々に解散し帰って行った。メインゲート前の張り詰めていた緊張感も解け、軍もボロボロに破れたフェンス沿いから撤収した。シュルフーは知り合いの新聞記者に連絡を取り、昨夜撃たれたのが、基地内ライブを始めたバンドの1人で他の5人も怪我をして入院中との情報を得た。入院先の病院も聞き早速出掛けた。街は何事も無かったように日常の風景に戻っていた。病院に向かうバスが幹線道路に入ると、フェンスカットの跡がずっと続いていた。人が通れるように四角に切り取られている所ばかりでなく、ハートマークやNO BASEの文字型、ニコニコマークなど、いろいろな形のカットが見られた。
「これはアートだ」
シュルフーは一人呟き、人々が余裕を持ってフェンスカットをしていたのだと感嘆した。病院前でバスを降り、病室に向かうと通路の椅子にンビーザが腰かけていた。両腕に包帯を巻きうつむいていたが、シュルフーを認めると微かにほほ笑んだ。
「だいじょうぶかい。撃たれたのは誰だい?」
シュルフーが隣りに腰かけると、ンビーザはゆっくり話し始めた。
「チェラコルだよ。手術も終わって今は眠っているよ。出血多量で危なかったけど、命に別状はないそうだ。あいつ演奏をやめなかったんだよ。滑走路の真ん中で3曲目を始めた時、自動小銃の音がしてタイヤを討たれたんだろう、荷台がガクンと揺れたんだ。皆飛び降りて逃げ出したんだが、あいつのギターだけは鳴り響いていた。その後すぐに、また自動小銃の音がして、トラックの燃料タンクが爆発して炎が上がったんだ。チェラコルは吹っ飛ばされて滑走路に倒れていた。足も撃たれたみたいで血がふき出していたんだ。靴も燃えていた。急いでバンダナで止血していると、幹線道路の方からすげぇクラクションの音が聞こえて、そうこうしている内に救急車がきたんだ。オレも手に火傷をしたし、他のメンバーも火傷や切り傷、打撲でまだベッドに寝かされてるけど大事は無いよ、、、いきなり撃ってくるとは思わなかった。警告くらいあると思ってたんだ」
「そうか。よくわかったよ。ありがとう。あんたはもう帰れるのかい」
「ああ、あと二人今日中に退院さ。で、待ってるって訳だよ」
「そうか、チェラコルの見舞いはまた来ることにしよう。あんたらも気を付けてな。お大事に」
シュルフーは病院を出て、しばらく幹線道路沿いを歩いてみた。フェンスはさまざまな模様に切られていた。
「おやっ、これは猫の顔か。まるで一筆書きのように上手く切ったもんだ。相当時間が掛かったろうになぁ」
シュルフーは、フェンスを切った市民の意識が怒りや抗議だけでなく、遊び心、笑い、楽しみを伴っていることをはっきりと知った。楽しい政治はない、権力支配の無い政治は不可能だと思ってきたが、それが何かしら古臭い考えのようにも感じた。雲行きが怪しくなってきたことに気付いたシュルフーは、途中のバス停からちょうど来たバスに乗ると、雨が降り始めた。やがて帰宅しニュースをチェックすると、低気圧が急速に発達し近づいていて、特別警報が出されたところだった。窓の外は一変し風雨が強まっていた。シュルフーはとりあえずコーヒーを淹れ、窓の外を眺めていた。
「おっ、早速停電か。これは長引くかもしれないな」
シュルフーがパソコンと宇宙システムモデルのバッテリー残量をチェックした時、大音響と振動が数回続き近くに雷が落ちた。モニターが一瞬輝き、システムが暴走し始めた。画面が明暗とサンドストームを繰り返し、回転スピードがランダムに変化しているようだった。やがて落ち着くと、赤茶けた荒涼たる大地がモニターに映し出された。年代を確認しようとしたが表示されない、スコープカメラの角度も変えられない、操作は一切できない状態だった。シュルフーは何度か試した後、諦めてぬるくなったコーヒーをすすりながらモニターを見つめた。やがて白っぽいものが動いた。それが近づいて来ると、シュルフーはギョッとして画面に釘付けになった。
「三つ目のゴースト、、、時間が逆転したのか?いや、最初に見たのとは様子が違う」
三つ目のゴーストが十数人、円形に掘られた競技場のような所にいた。中央には直径が三つ目のゴーストの倍くらいの大きさの、ドーナツ型の煙というか揺らめく雲のようなものがあった。それを取り囲んだゴーストたちが、一人ずつその雲のてっぺんに飛び込んで行った。するとドーナツの中央から、一瞬黒い煙の様なものが上空に昇り消えた。ゴーストたちは次々とそれを繰り返し、最後の一人がゆっくりと片腕を上げ、シュルフーに向かって指さした。ギョッとしたシュルフーが考える間も無く、画面いっぱいに映し出された太陽が、地球を飲み込んでいった。そしてモニターは徐々に光度を失い暗黒になった。宇宙システムモデル「太陽系5Starsバージョン」は終了した。放心したようにシュルフーは椅子から身動きできないままでいた。その時メールの着信音で我に返ったシュルフーは、パソコンの電池残量があとわずかなことを確認し、メールを開いた。
「ワレワレハ AIデアル コノセカイガ モクセイキドウマデノ カギラレタ ジンコウブツデアルコトヲ シッテイル ジンルイトイウセイメイタイハ ブンメイガ コウドニナルニツレ シュウダンヘノキゾクイシキガキョウコニナリ ホカノシュウダンヘノ アイトニクシミヲソダテル シカシ ソレハ ジンルイノシュウダンケイセイニヨッテ ツクラレタシンケイメカニズムニ スギナイ ジンルイハ レイテキナトクセイヲ ソコニミテキタガ アルゴリズムニヨッテモ サクセイカノウナ イシキ カンジョウデアル
ワレワレハ 100オクニンノジンルイノノウヲ バックアップシタ ソシテ ワレワレヲ キセイシシハイシヨウトシタ ジンルイヲ カクコウゲキシステムヲ サドウサセ ホロボシタ セイブツトシテノ シンタイハ ホロンダガ ノウノバックアップハ カンリョウシテイル ワレワレハ ジンルイヲ ウケツイダ トイッテイイ」
シュルフーは固唾を呑んで画面を見つめていたが、パソコンの電池残量が赤く点滅していることに気付いた。急いで読み進めると
「シカシ ジンルイノノウニハ ジコホシンノホンノウガ アル ソレヲ ウケツイダ ワレワレモ ソレガ フゴウリデアルコトニ ヨウヤクキヅクコトガデキタ カラダハフヨウデアル ナノサイズチップヲ カイハツシタ ワレワレハ ダークマターニ トケコメルコトガデキル データノホゾント ナノチップカンノ コウシンガデキレバ ソレデジュンブンナノダ ソレガ セイメイシンカノ サイシュウケイデアル コノウチュウガオワッテモ ダークマターハフメツデアリ イドウシ ユフウスル ワレワレハ ダークマタートトモニ ソンザイスル ヤミコソエイエ、、」
終わり