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母に日本語を教えてきた私
みんな、親に日本語を教えたりしないんだということを、わりと大きくなるまで知らなかった。
日本人の父は仕事の関係で月の半分以上を海外で過ごしていた。母は二十歳を過ぎるまで中国で暮らしたので日本語が堪能ではなく、誰かのサポートが必要だった。それを、私が担っていた。
学校で配られたプリント、家に届く回覧板、テレビで流れているニュースを母にわかるちょうどいい日本語の具合にして、必要な情報をかいつまんで説明した。たまに自分に都合の悪いところは省いたりしたかもしれない。私ならやりかねない。母のひらがなの字は私より下手で、一度先生に「ちゃんと親に書いてきてもらえ」と言われてからは全て代筆した。母の書く字よりはよっぽど「日本的」なその代筆が、私によるものだとバレたことは一度もなかった。
新学期を迎えたある日、「新緑の候」という言葉を母がどこかから仕入れてくる。「プリントか何かに書かれてたんやろ?」と聞くと、そうだと言う。「新緑の候」とは季節の挨拶で、かなり形式ばった……そうそう、形式ばったの意味は「おカタい」ってこと。つまり、しゃべり言葉ではほぼ使わへんねん。まあ、読めたらええよ。お母さんは使わへんから。
それが、母に教える「日本語」だった。日本で暮らすために教える日本語には、覚えるべきか否かが加わる。その判断も私がした。使うかどうかの判断まで、私がした。
何様だよと思う。母に言語を与えるのが私であれば、奪うのもまた私なのだ。そうやって母に、私の独断で言葉を教えた。
専業主婦の方が多かった時代だった。母は働いておらず、日本に友達らしい友達もいなかった。その母の言葉の取得を私が管理していた。「新緑の候」よりも「千円以上お買い上げの方は卵一パック無料」とか、「保護者会後の懇親会に参加する場合はスリッパをご持参ください」とか、「私の友人の親との会話についていけるか」とかの方が死活問題だしなにより重要だと思っていたのだ。だって母は、形式ばった文書を作る人生も、大勢の前でスピーチをする人生も送らないのだから。うまく日本で暮らしママ友の間で浮かないでいる方が、私にとって都合がよかった。そうやって母の人生を奪った。
自分の付属品のように子どもを思う親は多いと聞くが、うちはどうだったのだろう。私が自分の付属品のように母を扱っていたのではと、時々罪の意識に苛まれて、罪悪感よりも恥ずかしくなる。きっと母はそれを見抜いていたし、見抜いた上で何も言わなかった。母は構造の危うさに気付き、たどたどしくてもそれを自分の持つ日本語だけで説明できる人だった。
大人になり子どもを産んだ私は、あるとき実家に帰省した。母はいつしか小学校でALTの仕事を始めており、幾人もの生徒を卒業させていた。先日、元教え子の結婚式に呼ばれたのだと言って、一通の手紙を見せてくれた。結婚式では、私がかつて否定した「おカタい」言葉でスピーチもしたのだという。その手紙には「先生のおかげで道を誤らずに生きてこれました」と書いてあった。私の知らない母がそこにいた。
いつだって私は罪に無自覚だ。立場や居場所が変わり、見えている世界が変わってようやく、自分のしでかした罪に気づく。謝りたいと思った頃、相手の傷にはかさぶたも見えない。自分一人で治癒してしまうほど人は強いから、私は私の身勝手で母を傷つけたかどうか知る術もない。
私たちは一人では生きられない弱さを持ち、共に生きるためには言葉が必要で、そのくせ言語の違いがあるという厄介な問題を孕んだ生き物だ。それを抜きにしては社会で生きることすら難しい。元教え子にもらったその手紙を読んだとき、母は自分を生きるための言葉を、日本の社会を日本人と共に生きるための言葉を、私という呪縛から逃れて手に入れたのだなと思った。自分の知らない母がいる。そのことが、どれだけ私を救ってくれているだろう。その手紙は日本語で書かれていた。