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燦々と降り注がれるのは

2024年、新しい年を迎えてまず最初の大きな変化と言えば、犬を迎えたことだ。

名前は「燦」。この町に"燦々"と降り注ぐ太陽のように、もののけ姫の主人公のように優しく、逞しく。そして、SUN(太陽)のようにと。海辺の街に住み、31歳で迎え入れたからこその名前にしようと命名した。

先に言っておくと、「愛犬家」としての記事を書くつもりはない。

「うちのワンちゃん可愛いでしょう」なんて、書くつもりはない。それは当たり前の話で(うちの子、当たり前にすんごく可愛いんです)、それよりももっと、彼女を迎えて日々変わっていく自分がいるのだ。

障子の隙間からこちらの様子を伺う

犬を飼うのは初めてではない。神奈川県の実家で暮らしていた頃、まだ私が3歳の頃にうちにやってきたのは、ボーダーコリーのオス犬「バク」だった。身体の色だけが「夢を食べる」と言われる動物・バクに似ているという理由で、その名が付けられたらしい。幼かった私は、突如として現れた怪獣のような生き物から逃げ回り、ダイニングテーブルの上に乗って泣き喚いていたというが、その頃のことを全く覚えていない。今では、あんなに可愛い時期を見逃したことに、「なんてもったいないことを」と、小さい私に言ってやりたい。

彼が死期を迎えたのは、東日本大震災後の2011年・冬のことだった。カリフォルニアへ3年間の海外赴任中だった父、大学を休学して世界一周の真っ最中だった兄は、15歳の老犬の最期に立ち会うことができなかった。バクの中で最下位に位置付けられていた私が、彼の最期の最期の瞬間、そばに寄り添い見送った。「なんでお前なんだ」というような気持ちがあるだろうなとも思っていたけれど、息を引き取る寸前、「ワンッ・・・!」と力を振り絞って鳴いてくれた。

それは想像通り、「お前じゃないワン」の「ワン」だったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないけれど、平日の朝方、父と兄はもちろん、洗濯物を干しにベランダに出ていた母もいない、私だけの状況で、そう言葉を残して旅立っていった彼に、「ありがとう」と、心の底から思ったことだった。

実家で飼っていたボーダーコリー「バク」。
亡くなる1年前の夏、母の誕生日に撮影した1枚。

それ以降、長年の間、私の家族は誰一人として「もう一度犬を飼おう」とは言わなかった。「犬を飼っている他の家は、一代目が亡くなってもまた次、その次と飼っていたりするのに・・・」と思いながらも、私の家族は一向に犬を飼おうとはしなかった。特に兄は断固拒否。私が「次に飼うなら〜」などと話し出すと、「もう犬は絶対飼わないから」といつも言っていた。大好きな愛犬の最期に立ち会えなかった後悔と、立ち会ってやれなかったという申し訳なさや切なさがずっと胸に残っていたのかもしれない。

そんなことだから、家族の中で一人、「また犬を飼いたいな」と思っていた私は、なんだかバクに対して愛を注いでいなかった、彼を心の底からは愛していなかったのではないかと、ふと思うことがあった。それはもちろん違うのだけれど。それでも、家族の中に犬がいる暮らしが好きだったから、大人になっても、「またいつか」という夢が心のどこかにあった。


燦との出会いは、昨年11月。「犬を飼いたいんですよね」と周囲に言い続けていた夢が叶ったと思った。この町に越してきてから8年。昨年の夏まではアパート暮らしだったため、一軒家へ引っ越しをした今、ようやくその夢が少しだけ近づいていた。そんな時にやってきた、「ゴールデンレトリバーの子犬が生まれた」というまたとないチャンス。なんだか逃したらいけないような気がしていた。

燦はゴールデンレトリバーのメス犬。自宅に迎え入れたのは年明け1月の2周目、彼女が生後2カ月と少しの時だった。もう少し早く迎えに行けたのだけれど、実家へ長期間の帰省を前々から決めていたため、神奈川での時間をゆっくりと楽しみ、ようやく自宅に戻った翌日、サンを迎えに行った。実家の両親、兄にはもちろん秘密にしていた。絶対に反対をされることがわかっていたからだ。

彼女がやってきてから、今日で1カ月が経つ。「え、まだ1カ月?」と驚くほど色々あった。

子犬を迎え入れることは、想像以上に大変だった。まだ子どもがいない私にとって、人間にしろ、動物にしろ、子どもを育てるということは初めての経験。夜泣きはもちろん、少しでも彼女の視界から姿を消せば、たちまちトイレを失敗し、100%の確率で食糞をする。その度に、シーツを変え、足裏を拭き・・・その繰り返しが続き、ろくに落ち着いてご飯も作れず、顔を洗うだけでもお風呂に入るだけでも一苦労どころか、こちらの精神が参りそうな最初の1週間だった。

留守番なんて、もってのほか。上記の失敗に加え、ゲージからどうにか脱出しようと、数時間の外出から帰ったある日には、ゲージと扉の間に首が挟まり、抜けようにも抜けられなくなってもがいていたところだった。

「なんでこうなるんだろう」「ごめんね」と考え込む毎日だったけれど、彼女は何も考えていない。いや、考えているのだけれど、考えていない。ただただ、その時の嬉しさや楽しさ、寂しさ、不安をその瞬間、瞬間で身体いっぱいに表現しているだけだった。

「もう。また荒れ放題になってる・・・」

帰宅直後、ゲージの中を見て何度も絶望的な気持ちになる私の姿を見て、彼女は全開で尻尾を振り、ジャンプをしながら「あぁ!帰ってきたのね!」と喜びの表情を見せる。私が絶望的な気持ちになっていることなんて、関係ない。ゲージから解放すれば、「もう、なんでこんなに私を一人にしたの」と、寂しさと怒りと、嬉しさが乱れに乱れ入り混じった感情を「うぅ、うぅ、うぅ」とひたすらに表現してくれる。さっきまであちこちでおしっこをし、それを踏み、うんちを食べ、部屋を脱走しようと苦しんでいたのは無かったことのように。その姿があまりにも愛おしい。いや、待って、待って。うんちを踏んだ手足で私に飛びついてこないでよ・・・。

お気に入りのゴリラのぬいぐるみと遊ぶ燦

彼女の姿を見て、気づく。愛されることが当たり前だった私の人生、「愛する」ということを真剣に考えたことがなかった。家族に恵まれ、友人や恋人たちに恵まれてきた私は、当たり前のように日々、愛され続けてきた人生だった。


愛を与えるというのは、こういうことなのか。

見返りは求めないし、無性であることに間違いはないし、でも、それだけじゃない。

私の姿が見えなくなった瞬間、不安になって泣き喚き、トイレを失敗する彼女に、「ここにいるから」と、襖の戸を少しだけ開けたまま、サインを送る。不安をたくさん抱かせた日には、いつも以上に愛おしみ、遊ぶ時間を多く作る。呪文のように口を突いて出るのは、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」という言葉。「ダイジョウブ、ダイジョウブって言うわりに、いつも置いていくじゃない」と言いたそうな顔をするけれど、その度に、「いつもあなたの元へ帰ってくるでしょう」と呟いてみる。

常に彼女のそばにいる必要はないけれど、彼女が少しでも不安にならないよう言葉を残し、存在を残し、いつも彼女の元へと帰ってくる。

人間と犬は違う。違うけれど、私の母も同じようにしてくれたなと、ふと思い返す。

小さい頃、私は母の姿が見えなくなるだけで、母がトイレに行くだけで、泣く子どもだったらしい。なんだ、燦と変わらないじゃないか。

自分自身の記憶にも残っている「小さな私」は、小学校に通い出した春のこと。まだ慣れない1年生の教室に置かれた机には、どこに誰が座るのかがわかるよう、机の右上に自分の名前が書かれたシールが貼られていた。私はそれがどうしても、寂しさの種だった。自分の名前を見ると、なぜだか母のことを思い出してしまう、泣き虫の子どもだった。

それからしばらくの間、登校班での登校には、母がついてきてくれ、少しずつ母が同行する距離を短くしながら、いつの間にか、当たり前のように母がいなくても不安や寂しさは消えていて。トイレに立った母の姿を追って泣いていた幼少の頃だって、きっと母はトイレの扉を開けたまま、「大丈夫、ここにいるでしょう」と唱えてくれていたはずだ。


そうやって、日々当たり前に愛に包まれ生きてきた。なんと幸せなことかと思う。

燦の顔を見ると、「愛」という言葉や「愛」について考えることが増えた。真っ直ぐな、純粋な愛を注げば注ぐほど、彼女はキラキラとした表情で答えてくれる。その逆に、「ちょっと面倒だな」と思った時の可愛がり方はすぐに勘づかれ、「そんなんだったらいいですよ」と言わんばかりの態度になる。

愛はいつも真っ直ぐで、純粋で、必ず届くもの。

「あぁ、愛を注ぐってこんなふうなことなのかぁ」と学んでいたかと思えば、私は愛を注いでいるばかりではなくて、彼女だって、愛いっぱいに私と向き合ってくれる。目一杯の愛を注いでくれる。私の愛なんて、なんてちっぽけなんだろうと思うくらい、思い切り甘え、思い切り喜び、思い切り怒った表情を見せてくれる。

愛することは愛されることにもつながっている。

人間と犬はやっぱり違う。でも、愛してもらった母や家族に対して、私の愛は揺るがないし、きっと燦もそう感じてくれているのだと思う。

思い切り甘えるこの表情

海辺の家で始まった燦との暮らし。彼女に降り注がれるのは、燦々とした黒潮町の太陽の光。それに加えて、私の愛もあたたかく、優しく、キラキラと、彼女に降り注がれるものであってほしいと思う。

すやすや眠る姿が愛おしい

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