表現と無銘性
アーツカウンシルみやざきに来る前までは、
静岡県浜松市の認定NPO法人クリエイティブサポートレッツにいました。
いろんな企画を立ち上げたのですが、そのうちの一つ、
利用者さんやスタッフのグッと来る仕草やクセのようなものをそのままイベントのように仕立てることで、メディア化したのが「表現未満、文化祭」でした。
日常の支援に負荷がかからずに、そのままをステージに上げるというコンセプトでは「スタ☆タン!!」ともとても近いんですが、
ステージではなく、お客さんが施設に来てもらうという点が「表現未満、文化祭」の重要な点で、
これは施設を観光するというコンセプトのレッツの観光事業、「タイムトラベル100時間ツアー」ともつながるものです。
正直なところ、「表現未満、文化祭」というのは、携わってきた企画を、
まあよくまとめ上げてもんだとドヤ顔をしていたりしたんですが、
宮崎に来てから違和感を感じ、最近、とても反省しています。
反省したのは、「無銘性」にまで達せられなかったことです。
僕が退職したあともレッツは文化事業をバンバン出していて、それが各所で語られることがあり、それを見ることも多々あって。
そこで感じた違和感は
「〇〇くんがやっているこれが面白い」
「〇〇さんのこれがすごい」
という、誰がやっているかということが取り上げられることへの違和感でした。
人を取り上げたくなる気持ちはわかりますし、そのほうがわかりやすいんですけど、それは企画した側としては全く意図していなかったところです。
「表現未満、」というコンセプトが面白いのは、表現は特別なことじゃないけど面白い。だから障害のある人の面白さは、あなたの面白さでもあるってことなんだ、と思っています。
だから「〇〇さんのこれがすごい」と書かれてしまうこと、
〇〇さんはすごい!と捉えられてしまうことは真逆のことになってしまう。
それを支えたスタッフがいて、それを許した場があって、それを支える哲学や思想がレッツにあって、それが続いていることも同じくらいすごい。
先日、日本民藝館に行って、そこに並べられている日常の品々が無銘なことにいたく感動しました。
これをつくった人を讃えるより、これを使い、これとともに生きた人、その生活のあり様が讃えられている。
だから無銘じゃないといけない。
というよりも、文化は無銘によって作られている。
宮崎には200以上の神楽があり、それ以上に祭りがあって、独自色の強い文化がありますが、これらの魅力は無銘性であること。
宮崎で芸術祭をやるのであれば、無銘性がいいなと思っています。
でもそれは作家側は嫌がるでしょうし、わかりにくいものになってしまう。
なので難しいなあと、わかっているんですけどね。
そんな事を考えていたら、「表現未満、」の中に無銘性を織り込めなかった後悔を、もう7年ぐらいしていたなと。大変に未練がましい。
昨年からやっている「凸凹まつり」は無銘性がちゃんと織り込まれていて、やっぱりレッツってすげえやと思うんです。
アートは特別なものではなく、表現は日常の行為ということが当たり前のように言われて久しいので、いずれ無銘性のところまで行くんだろうと思います。
その壁は相当タフじゃないと超えられないんだろうとも思うんですけど、でもいずれそうなるだろうと思います。
誤解のないように言うと、美術館やアートプロジェクトが全て無銘になるわけではなく、無銘のものがこれから増えていくだろうということです。
無銘のものが当たり前のように受け継がれていくことになったら、文化芸術はインフラですって言えるようになるのかなと。