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アナクロニズムと希望の現像

昨年、当編集部の女性デザイナーが第二子を出産した。
彼女は、在宅を基本としたフレックス勤務で育児をしながら働いているのだが、たまにまだ生後間もない男の子をオフィスに連れてきて作業をすることもある。

ぐっすりと眠ってくれている時は良いのだが、起きているあいだは彼女の仕事が捗るようにと、編集部メンバーが我先にと率先して子守を引き受けている。私もその一人だ。

当編集部のアイドルとなった新生児の、純真無垢な曇りのない眼、無邪気な笑顔に皆が癒されている。赤ん坊と触れ合っていると、子供は未来そのものであり、社会の光明なのだという思いが胸の内から自然と溢れてくるから不思議だ。

しかし、そんな感情とは裏腹に、私の頭の中には鬼束ちひろのヒット曲「月光」の歌詞が流れてくる。そう、この歌で描写される様相そのまま、いま世界は腐敗しきっているのだ。

現在、我々を襲っている疫病と戦争という災厄は、全体主義と同調圧力が引き起こしたインフォデミックと人の命を軽んじる為政者によって甚大な被害をさらに広げ、その爪痕は最低最悪の出来事のひとつとして人類史に刻まれることだろう。

地球環境や人権を犠牲にした上で築かれる富。
暴走する資本を制御でき無い利権構造。
ファクト不在の言説にまみれたメディア。
SNSに吐き出される他罰と罵詈雑言。
搾取側に回るための苛烈で滑稽なポジション争い。
差別と対立、攻撃と報復の断ち切れない負の連鎖。
切れ目なく世界のどこかで続く紛争や内戦。
罪もない人々を蹂躙する功名心に憑かれた為政者。
理想から離れ続ける資本主義と民主主義。

我々が抱えているこういった諸問題は、どんなにテクノロジーが発達しようとも、解決されることはない。それは、人間そのものが変わることができないからだ。私には、いろんなものが開発、アップデートされるにつれて世の中が荒廃しているようにさえ感じる。

とりわけ、経済的に発展し尽くした日本という国の現在には、夢も希望もない。

150ヵ国以上を対象に実施される世界幸福度ランキングで日本は2021年に56位だった。調査の開始以来、先進諸国に比べると低い水準であることに変わりがない。また、若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは、先進国G7の中では日本のみである。

以前、ある大物国会議員に取材した際、「国や地域にとって、もっとも大切なものは何か」という話題になった。その議員は少し考えてから「そこで暮らす人々の前向きな気持ち、幸福の実感だ」と答え、私はひねりのない凡庸な返答にその時がっかりした。しかし、いまではそれがいかに核心を突いたものであったのかが解る。

彼らは三十年以上も続く経済の衰退を招いただけでなく、好転するかもしれないという兆しすら国民に与えなかった。人の話をよく聞くことが特技だという男の提唱する「新しい資本主義」など、国民をいよいよ諦めさせる意味不明の言葉遊びでしかない。

数年後にコロナ対策を検証してみれば、これがいかに非科学的かつ国民に寄り添ったものでなかったのかはより明白になるだろう。

そもそも、北朝鮮に拉致された同胞を救い出すことができない政府に、国家への信頼などあるはずもない。再会を果たせぬまま高齢で亡くなっていく拉致被害者家族の訃報は、我々を失意のどん底に突き落とすだけでなく、日本のナショナリズムの終わりが近いことを知らせるアラートのようである。こんな状況で誰が前向きな気持ちになれるというのだろうか。

日本の地方都市はもっと酷い。いわば絶望だ。世界や国家の諸問題などとは比べものにならないスケールの小さな問題にさえ内輪揉めで道筋をつけられないでいるのだから。

その原因は、ただ居座り続ける無知蒙昧な地方議員の怠慢、地域の有力者の仲違いや見栄の張り合い、ちっぽけな利権争いといったしょうもないことであることに我々は気づいている。しかし、是々非々の議論など、どこにもありはしない。

極めつけは、エセ起業家や地方コンサル、正体不明のインフルエンサーといった類を、まるで救世主のようにまつりあげてしまう主体性の欠如と無知っぷりだ。メディア受けのみを狙ったようなソーシャルビジネスや話題づくりのためだけの企画や催しばかりがそこかしこに氾濫している。こうしたトレンドは本質を損ない、続々と現れるペテン師に利益と発言力を与え、地域が喰い物にされている現象に他ならない。「公」という概念は、いまや詐欺に悪用される常套句に没してしまった。

地方創生など空虚なお題目にすぎず、地元の権威主義と小競り合い、利権に群がる者たちによって一般大衆のベネフィットは著しく低下し続けている。それにも関わらず、投票行動ひとつとってみても私たちはなんら変わった行動や意思表示すらしようとしない。誰もが火傷を恐れ、灰になるまで街が燃え尽きていく様をただ傍観しているようだ。

もはやこの国には「住民」しかいない。有事の時にこの国や郷土のために命を賭して戦う決意をするものなどいるはずもなく、公のために考え行動する「国民」や「市民」といった当事者意識は、いまや変わり者扱いの対象にされつつあるのではないか。この先にあるのは間違いなく共同体の瓦解だ。

もしも、運良く成功を掴んだ者、社会的に強い者だけが生き残る世界を望むのであれば、共同体など必要ないかもしれない。彼らはより快適な国や地域に居住地を変え、移り住み続ければいいだけなのだから。では、それ以外の人はどうだろうか。日本が衰退のフェーズに入り、数十年以内に必ずまた大災害に襲われることまでわかっていながら、なぜ、私たちの多くはこの国から脱出しようとしないのだろう。誰もが思考停止しているわけではない。かといってこの国に留まる意味を合理的に説明もできなければ、不断の覚悟があるわけでもないだろう。ほとんどの人が動けない、ただただ弱い存在なのだ。だからこそ、帰属する共同体の存続とその良し悪しは、大多数の人間にとって重要なファクターなのである。

個人に努力を求める社会は良いが、適者生存の乾いて殺伐とした世界を自分は望まない。大人たちが無責任に逃げ切って、こんなにも生きづらく希望の見えない国の未来を子どもたちに押しつけるのは、ある意味ネグレクトだとさえいえる。私たちは少し立ち止まって、利己主義的、享楽的な価値観を尊ぶことを省みるべきだ。人生とは何を得るかではなく、何を残すか、それに尽きるのではないだろうか。私たちには、子どもたちが誇れる国や地域を残す責任があるはずだ。

では、何をどうすれば良いのか。
それは、「過去に学び、女性に頼る」ことではないかと思っている。

普遍的な人生の悩みに対する考え方や対処法は、既にその大半を過去の哲学者や天才たちが明示してくれているように、政治や経済、文化や芸術についても未来を見通すには過去に学ぶほかないだろう。しかし、戦前に高橋是清が行った政策を参考に、デフレ脱却のために思い切った金融政策を断行したアベノミクスが現状を見事打開できたかといえば、そうとは限らない。ここまで加速度的にテクノロジーが発達し、急激な変化を起こす社会では、前例のない諸課題に対してまだ誰もやったことがない新しい手段を考える想像力と、それを実行する勇気が求められている。
私は、そうした議論や決断を女性に担ってもらいたいと思っている。アメリカの人類学者メルビン・コナー博士によれば、これまでの研究で女性は将来的に重視される多くの点で男性より優れていることが分かっており、戦争の可能性も低下するという。女性が完璧な世界をつくれるというわけではないが、彼女の著書「Women After All: Sex, Evolution and the End of Male Supremacy」では、歴史的、科学的見地からも、テクノロジーが発達した現代では男性より女性の方が世界の統治に大きく貢献できる可能性を示唆している。

私は、この研究を知って思考が大きく覆された。何をどうするかではなく、誰が担うべきなのかということだ。

よくよく考えてみれば、人類の歴史はそのほとんどで男性支配が続いてきた。イギリスのマーガレット・サッチャーやイスラエルのゴルダ・メイアといった女性指導者もいるが、男性に対峙するため男性化することによってその地位に就いたと指摘することもできる。いわば、女性が女性のありのままで、国や地域を統治してきたことはまだないのかもしれない。私は、この事実に大きな可能性を感じた。おそらくまだ試されたことのないアプローチが残されていることに気づいたからだ。

ダイバーシティ推進やジェンダー平等の考え方は尊重すべきであるし、私自身はフェミニストではない。すべての差別を容認することはできないが、性差を認め合うことは有益だ。指標は性別ではなく個人だという人もいるだろう。しかし、日本の現状は事実として男性側に重要な役割が偏っており、これは是正すべきことではないだろうか。

2021年の男女格差を示すジェンダーギャップ指数によると日本は156カ国中120位である。もちろんG7では最下位であり、ASEAN諸国を下回るばかりか前回よりも順位を下げる結果となった。特に、政治・経済分野での男女格差は著しい。私には、日本の衰退とこの結果に因果関係すらあるのではないかと感じられる。

そんな日本でも、男性の育児休暇取得やクォータ制導入の議論など、女性の活躍推進を進める動きがあるが、そこには男性側の奢りと欺瞞があるのではないだろうか。女性を抑圧してきた歴史に向き合い、男性が続けてきた失敗を潔く認め、頭を下げて女性に舵取りをお願いするくらいが正しい姿なのかもしれない。ステレオタイプな考え方は私たちから想像力と可能性を収奪するものだ。一度くらい、男女比を逆転するぐらいのことを本気でやってみてはどうだろう。企業の役員や団体の管理職、地方議会の議員や自治体の首長の大多数を女性が占める地域がどのようになるのか。それはまだ誰も知り得ない未開拓の世界だが、私には不安よりも期待のほうが遥かに大きく感じる。

冒頭で日本や地方都市の現状を辛辣な言葉でこき下ろしてしまったが、幸いなことに岡山には男性であっても聡明で優秀な経営者や政治家、理解ある紳士が大勢いる。彼らには、女性に託すべきことが何であるか、その重要性など論じるまでもないだろう。岡山には女性のエンパワーメントを実現する素地とそれを世界に発信できるポテンシャルがあるといえる。これが真実かアイロニーとなるかは読者に委ねることにしよう。

家庭、職場、地域、議会といったすべての場所で、女性がいまより輝ける社会。女性と子どもたちが笑顔で居られる場所は、きっと男性にとっても居心地が良いはずだ。

今回の巻頭特集では、岡山で晩年を過ごした現代詩の母 永瀬清子の詩を添えた昔の岡山の風景、それと対照にZ世代の女性たちを撮影したポートレート、女性目線と題して大人の女性たちそれぞれの考えを訊くショートインタビューなどを収載した。

本特集が岡山の女性活躍推進の在り方とウェルビーイングな地域社会とは何かを考えるきっかけになれば幸いだ。

PLUG Magazine編集長 YAMAMON


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