小倉城下町さんぽ 秋月街道⑤馬借町から香春口
北九州都市モノレールに沿って香春口交差点へ。
ここは香春に到る街道への出入口・香春口門があったところ。ちょうど軌道の下あたりでしょうか。朝七つ(4時)から夜九つ(12時)まで開門していました。
江戸時代、香春口門の両側には濠があり、門には二重の櫓が建っていました。
小倉名物「揚子江の豚まん」の少し手前に香春口門の説明板があります。
交差点すぐそばに「小倉カトリック教会」。
表に細川時代、キリシタン信仰で殉死しバチカンに列福(福者の列に加えること)された加賀山隼人の殉教碑が建っています。
加賀山隼人は細川家の重臣で知行は1万石、屋敷は二の丸(リバーウオーク東端)にありました。
忠興の妻・ガラシャ夫人はキリスト教信者で有名ですが、関ヶ原の戦いの数日前に石田方の人質になることを潔しとせず、家臣にふすま越しに槍で突かせ亡くなりました。
忠興自身は信者ではありませんでしたが、夫人の影響もあり、堺町あたりに教会を建設、夫人の死後のミサを行ったセスペデス神父を招き、命日には盛大な追悼祭を催すなどキリシタンには好意的でした。
そのころ、小倉城下には宣教師10人、キリスト教信者が約2,000人いたと記録にあります。
1614(慶長19)年に幕府から禁教令が出され、忠興も弾圧に転じます。
これによって、キリシタンたちは次々と捕らえられ、ある者は転宗させられ、またある者は処刑されました。
天正遣欧使節で有名な伊東マンショも小倉の教会を拠点に布教していましたが小倉から追放、寛永年間に、やはり天正遣欧使節の中浦ジュリアンが小倉で捕縛されたという記録があります。
熱心な信者だった加賀山隼人も、家老職を取り上げられ、数年間家族ともども軟禁生活を強いられても、信仰に従うことを選びました。
1619(元和5)年10月15日、小倉の刑場にて殉教。享年54歳でした。
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